『ユダヤ人大虐殺の証人ヤン・カルスキ』

ヤニック・エネル著 『ユダヤ人大虐殺の証人ヤン・カルスキ』




本書は三部構成になっている。著者による「記」によると、「第一部でヤン・カルスキが発する言葉は、『ショアー』の中のクロード・ランズマンのインタビューによるもの」で、「第二部は、ヤン・カルスキが書いた本(中略)の要約である」。この「本」というのは本訳書出版後に『私はホロコーストを見た』という邦題で日本語で読めるようになっている(ちなみに僕はエネルの本が出た時には見落としていたのだが、カルスキの本の訳者あとがきにて本書を知って手に取った)。そして第三部は「フィクション」であり、「ヤン・カルスキのものとして私が描いた場面、言説と思考は創作である」としてある。

本書が出版されると高い評価を得、また売り上げも好調であったようだが、一方で強い批判も招いた。物議をかもしたのは当然ながら第三部である。カルスキの一人称で語られる第三部は、現実のカルスキのその内面に分け入るものというよりは、明らかに史実に反する虚構を取り入れその絶望を描きだそうとしている。

カルスキはポーランドでレジスタンスに参加し、ついにはナチスによる絶滅収容所の潜入に成功。ポーランドの現状やユダヤ人をはじめとする収容所に入れられている人々の置かれている絶望的な状況を伝えるべくイギリスへ渡り、そしてアメリカへと向かう。アメリカではついにルーズヴェルト大統領とも面会を果たす。この小説において最大の問題となるのは、カルスキがルーズヴェルトとの面会を果たすものの、肝心のルーズヴェルトはといえば全く無関心であくびを噛み殺し、そればかりか好色そうに同席していた女性をちらちらと見てばかりいたという描写であろう。この部分はもちろん完全な創作である。

連合国はナチスが何をしているのかを知りながらそれを看過したという批判がある。さらにはカルスキはポーランド人であるが、英米などはソ連との関係に配慮し、カティンの森事件の真相に気付きつつも触れないようにしたのではないかという批判もまたある。そのような連合国の不誠実をルーズヴェルトの破廉恥な振る舞いによって表そうという意図は明らかである。
これに対して猛反発をしたのが『ショアー』の監督であるランズマンである。訳注によるとランズマンは本書を「「事実を歪曲した偽りの小説」と攻撃し、二〇一〇年三月にルーズヴェルトとの会見を語った部分のカルスキのインタヴューをまとめた四十九分のドキュメンタリー『カルスキ報告』を発表した」とのことである。

個人的にはエネルのこの作品には疑問を感じるところが大きかった。といっても「歴史的事実にフィクションをまぎれこませることは許されるのか」といったことではなく、この作品はそのような問い以前の問題として欠点を抱えているのではないかと思えたのである。

一般に歴史を題材にとった小説自体はそう抵抗もなく受け入れられている。歴史を題材にとるといってもいくつかに分けることができるだろう。歴史的出来事や人物にインスピレーションを得た全くのフィクション 、あるいはある程度の史実をふまえながら「あったかもしれない」歴史を描いたもの、そして出来る限り史料に忠実でありつつも、それだけでは汲み尽くせないところへ足を踏み入れるものなどがある。

ピンチョンの『メイスン&ディクスン』も歴史改変小説である。現実にメイスンとディクスンの二人はアメリカに渡り、「メイスン-ディクスン線」を引いた。そして当人たちが思いもよらないことに、この線は後に北部自由州と南部奴隷州とを分ける線となったのである。
ピンチョンは明確に奴隷制や人種差別といったアメリカの負の歴史を告発する意図を持ってこの作品を書いたことだろう(もちろんそれだけではないが)。『メイスン&ディクスン』にはアメリカ独立革命の英雄となる人々が登場するが、その誰もが邪悪な雰囲気をまとっている。これはアメリカという国がその発端から罪や欺瞞にまみれていたことを表しているのだろう。ディクスンは物語の中でついに怒りを爆発させ、奴隷商人を鞭打つ。タランティーノの『ジャンゴ』においても元奴隷のジャンゴが白人を鞭打つシーンがあったが、この「鞭打ち」はアメリカにおける奴隷制と人種差別の歴史を考えるうえで象徴的な意味を持っている。


エネルの「小説」を読んで疑問を持ったのは、なぜ第一部と第二部においてカルスキの「生の声」を直接に使ったのかということである。あるいはまた、「生の声」を直接に使用するのなら第三部も史実からははみ出さずに、なおかつその隙間に想像力を働かせるという形を取るべきだったのではないだろうか。カルスキの「生の声」という未発表史料を新発見したのならともかく、いずれもすでに公にされているものであることを思えばなおさらこの疑問はつのる。

エネルは「スキャンダラスなシーンを描くことによって、聞く耳をもたなかった連合国の態度に注意を引きつけたかったのだ」と語っているという。そのような意図を持って「スキャンダラス」な虚構を導入するのなら、カルスキの「生の声」をこのような形で使うのではなく、初めから虚構をふまえた世界を築こうという努力をすべきであったのではないだろうか。ピンチョンが『メイスン&ディクスン』で達成したことと比べると、エネルのこの作品は小説として志が低いように思えてしまうのである。

ランズマンが批判するように、歴史を歪曲する、しかもショアーのようにどこまでも重い歴史を弄ぶかのようなことが許されるのかといった問いは当然にあろうが、そのような倫理的な問いを置いておいて小説としてのみ取り出したとしても高い評価はできない。「スキャンダラスなシーン」としてのルーズヴェルトのあの振る舞いというのはいささか安易ではないかっただろうか。「鞭打ち」のような象徴的な意味がこめられているのかといえばそうとも思えない。
カルスキ自身の本が日本語で読めるようになった今となっては、さらに評価は厳しくなってしまうというのが正直なところであった。


ついでにだがFDR and the Jews という近々発売される本についてニューヨーク・タイムズにこんな記事があった。この本は「ユダヤ人問題」において、ルーズヴェルトが何をしたのか、もっと言えば何をしなかったのかについて中立的な評価を行い、過剰に批判されすぎている一般的な見方を修正するもので、ルーズヴェルトには取りうる選択肢があまりに限られていたという評価になっているようだ。



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