『六〇年代ゴダール』

アラン・ベルガラ著 『六〇年代ゴダール 神話と現場』





著者は「まえがき」にて本書を「ゴダールが一九五九年から六七年にかけて撮った、『勝手にしやがれ』から『ウィークエンド』までの十五本の長編の生成過程を、可能な限り資料に裏づけられたやり方で語ろうとするものである」としている。ちなみにこの間ゴダールは短編も数多く撮っているが、それらを取り上げないのは評価が低いからではなく単に資料が不足しているためだということである。

六十年代といえばそれは時代そのものが神話めいたところもあり、それがヌーヴェル・ヴァーグ、ましてやゴダールとくればなおさらである。そしてこのような神話は、他ならぬゴダール自身が作り出していた部分もある。ゴダールはロッセリーニと同様「映画をつくりつづけるべく、映画製作への欲求をあおって金とパートナーとを見つけようとする際には、神話は現実への働きかけを可能にすることを理解していた。そして六〇年代のゴダールがとりつかれていた主要な観念のひとつは、自らの神話も含め、あらゆる手段を活用しかつ機能させて、撮る機会をできるだけ多く創り出すということ、休みなくかつ時間を無駄にせずに、映画から映画へとオーバーラッピングするということだった」(pp.6-7)。デビュー長編である『勝手にしやがれ』の時点ですでに、撮影中に巻き起こった数々のうわさが宣伝担当者に「念入りに活用され」たことに触れられている。

しかし本書はゴダールを「非神話化」しようとするものではない。「非神話化するというのは、映画のようなジャンルにおいてはなんの意味もない」のである。著者が目指したのは「部分的には資料と調査の仕事とのおかげで再構成することのできるような、創造の過程の現実それ自体のなかに神話を置き直すということ」である。「そして私はじつにたびたび伝説――ゴダール自身によってつくりあげられかつ維持された伝説を含む伝説――をそこなわせる客観的事実を見つけ出」すのであった。
『気狂いピエロ』は著者が「映画史全体のなかで最もよく知っている映画の一本」であったはずが、「自分がこの映画について知っていると信じてきたことのすべてを見直さなければならなかった」。「ゴダールがこの映画の撮影についてつくり出した伝説は、当時の資料の真実性によって疑問に付されているという明白な事実に屈しなければならなかった。この映画はこの映画作家のこの時期の最も慎重に準備された映画の一本であり、また最も即興をまじえずにつくられた映画の一本なのである」(p.7)。

「ゴダールの天才はかならずしも、われわれが習慣的にそれを見てとっていたところにあるわけではないということが明らかとなる」が、それでも「この天才がこの発見を無傷でくぐり抜けることにはかわりはない」のである。本書において著者が調べあげた「事実」の数々は、ゴダールを「非神話化」するのではなく、新たな神話の1ページが加えられたかのようでもある。


デビュー作にはすべてがある、ということが言われるが、本書においてもっとも紙数が割かれているのが『勝手にしやがれ』であり、またこの章は本書のエッセンスにもなっている。

著者が強調しているのは、この作品に取り掛かる時点でのゴダールはトリュフォーとは違いまだ無名の存在であったということだ。トリュフォーが『大人は判ってくれない』を撮った時点で、彼の批評家としての名(悪名?)は映画界において広く知られていた。しかしゴダールはトリュフォーやリベットやロメールとは違い、「カイエ・デュ・シネマ」の「主要な寄稿者の輪には属していなかった」のである。
リヴェットやロメールは苦しみながらデビューを果たすが、「最もねばり強い将来性を持っていると確信されていた」。しかしゴダールはそうではなかった。それでも、彼には「ゴダールの才能を心底から信じていた」トリュフォーという存在があった。本書は『ウィークエンド』までで幕を降ろすことになるが、それはつまりゴダールとトリュフォーとの友情の物語であるということでもある。トリュフォーは「実際的には無名の新人ゴダールの潜在的な天才のいわば保証人」となり、そして「『勝手にしやがれ』のシナリオの草稿を友人に譲る」という二つの重要な役割を果たすことになる。
トリュフォーは当時のゴダールについてこう書いている。「『勝手にしやがれ』の奇蹟的なところは、ある男が、ふつうなら映画を作ったりしないような人生の一時期にいながらつくった映画だというところにある。ひとは貧窮に苦しんだり悲しみに沈んだりしているときに映画をつくったりはしない。ひとが映画をつくるということは、その人はホテルなりアパルトマンに住んでいるということ、要するに金銭上の不安から解放されているということだ。そしてその人はそのときの自分の考えのままに映画をつくるわけだ。ところが『勝手にしやがれ』の場合は、ルンペンとも言えるような男が映画をつくったんだから、あれこそまさに奇蹟だ。あれほど不幸であれほど孤独な人が映画をつくるなどというのはめったにないことなんだ」(p.49)。

ゴダールの当時の心境が最もよく表れているのが『勝手にしやがれ』の結末であろう。
「トリュフォーの当初のシナリオは、主人公が警察署で自殺するところで終わっていた」のであったが、ゴダールは迷いをトリュフォーに伝えている。そして「つくられつつある映画が、ラストを――もはや選ぶ必要がなくなるまでに――論理的で必然的なものにするような方向を確信しており」、主人公に残酷な死を迎えさせることにしたのであった。もっともトリュフォーの「とりなし」によって「最終的にはよりずっと残酷ではない死が採用されることになる」。

トリュフォーは「男の写真が夕刊紙の第一面に大きく出ていて、男が街を歩くと、人々が次第にに、スターを見るように彼の方をふりかえるようになる」という結末を考える(これはこれで非常に魅力的だ)。しかしゴダールは「強烈なラスト」を選ぶ。トリュフォーはそれについてこう振り返っている。なぜなら「彼はぼくよりも陰気な男だからだ。彼はこの映画をつくっていたときは、まさに死にもの狂いだった。死を撮ることを必要としていた。あのラストを撮ることを必要としていたんだ」。トリュフォーは私服警官が「ほら早く、背骨にぶちこむんだ!」と言うセリフには強硬に反対し、ゴダールはこれを受け入れる。「ぼくは今のあのラストが大好きだ」とトリュフォーは語っている(p.72)。

ゴダールは公開時に、主人公の「死」についてこう語っている。「このトリュフォーのテーマをもとにして、あるアメリカ女とフランス男の物語を語った。二人の間で事がうまく運ばないのは、男は死について考えているのに、女の方は考えていないからだ。ぼくはこう考えたんだ。シナリオにこのアイディアをつけ加えなければ、この映画はおもしろいものにはならない、と。男はずっと以前から死にとりつかれている。死を予感しているわけだ」(p.73)。
そしてゴダールは『ケストラー自伝』の中でレーニンの言葉とされている「われわれは休暇中の死者である」に触れている。訳注によるとこの言葉は実際にはレーニンではなく、ドイツの共産主義者オイゲン・レヴィネのものであるようだが(『ブレヒト・ノート』を参照とのことである)、ゴダールはこの言葉を『気狂いピエロ』のベルモンドの日記の中にも登場させることになる。なお同じ訳注で原題の『息切れ』について、おそらくこれはトリュフォーではなくゴダールがつけたものと思われ、「生きながら死者の性質を有し――死にながら生者の資格を有する」男が登場するポーの『息の紛失』をふまえているのかもしれないとある。


また『勝手にしやがれ』をプロデュースするジョルジュ・ド・ボールガールは鷹揚で余裕のあるパトロンであるどころか、プロデュース作品の興行的失敗から追い詰められた状態にあった。トリュフォーの『大人は判ってくれない』がカンヌ映画祭で大成功したことを受けて、賭けとしてゴダールを監督に起用し、そしてこの賭けに勝つのである。ボールガールは撮影中は大いに不安にかられるのであるが、『勝手にしやがれ』以降はゴダールを信頼し、多くの作品をプロデュ-スすることになる。ボールガールが84年に亡くなると、ゴダールは『こんにちは、マリア』の宣伝用に買っていた雑誌2ページを追悼にあてることになる。個人的にはゴダールのような人とは友達付き合いしたいとは思わないし、一緒に仕事をするなんてまっぴらだとも思うのだけど、時折こういう泣けることをするのですよね。

そして本書のもう一人の主役をあげるとすれば、それはゴダールと多くの作品でコンビを組むことになるカメラマンのラウル・クタールであろう。ゴダールは当初は短編を担当したカメラマンを引き続き起用することを希望したが、ボールガールは自分の作品で実績のあったクタールの起用を提案し、ゴダールもこれを受け入れる。ゴダールは映画オタクらしく撮影・録音機材やフィルムに強いこだわりをもち続け、同時に街頭でのゲリラ撮影をはじめとする実験的な撮影手法も導入することになる。『勝手にしやがれ』ではレールを使わずに車椅子での移動撮影を行い、カメラを構えるクタールと車椅子を引くゴダールの写真も本書に収録されている。六十年代にゴダールが残した伝説において、従軍カメラマンの経験のあるタフな肉体と慣例にとらわれないゴダールの要望を受け入れ創意工夫をこらす自由な精神を持ったクタールの貢献は大であるが、本書で改めてそれを確認できる。

「ゴダールは『勝手にしやがれ』では実際には、俳優に少しも即興的演技をさせていない。かれらの台詞は書かれていたのである。もっとも台詞が書かれたのはしばしば、その場面が撮影される数時間前なりほんの数分前であ」った(p.67)。このような手法は、すでに短編でゴダールの「やり方」を知っていたジャン=ピエール・ベルモンドですら「撮影中はこの映画は封切られないだろうと思」わせていたそうで、それを知ったベルモンドのエージェントは胸をなでおろした。「この映画が封切られなければいいんだが。この映画はあなたのキャリアを止めてしまいますよ」と語っていたのであった。ジーン・セバーグも当初は強い不安を抱き、撮影当初はあやうく降板するところであったが、徐々にゴダールを信頼するようになっていく。


本書で繰り返されるのが、ゴダールがいかに破天荒な撮影を行おうとも、予算を超過しないという「自分とプロデューサーを結びつけている契約」を「守ることを名誉にかかわることとみなしている」ことである。ヌーヴェル・ヴァーグ勢が他の映画一本分で三本撮り、そのうち一本から利益が出ればいいと考えていたことはよく知られており、低予算の早撮りはヌーヴェル・ヴァーグの代名詞でもある。ゴダールはこの点ではとりわけ律儀であったようだ。これは生真面目さの表れというよりは、そうすることが映画を撮り続けるためには必要だと考えていたためであろう。
裏を返せば、多くの作品で撮影前に撮影プランがしっかり練られていたということでもある。確かにゴダールは即興的な演出を取り入れており、アイデアが浮かばないからとって撮影を中止してしまうこともあった。しかし一部でそう思われているようなほとんど白紙の状態で行き当たりばったりに撮影に挑めば(そうであらば必然的に順撮りを強いられることになる)、撮影期間は長期に渡り、予算はいくらあっても足りないことになろう。多くの作品で編集を担当したアニュス・ギユモーはこう語っている。「彼には自分がなにをしたがっているのか完全にわかっていました。同じ時期に私が一緒に仕事をしたある監督が私にこう言ったことがあります。“ジャン=リュックっておかしな奴だな。まるでその映画を既に見ているみたいに映画を撮るんだから”と。私にはこれはつねに明白なことに思えていたのですが、だれにとってもそうだったんじゃないわけです」。
『気狂いピエロ』は物語の展開とは関係なく撮影が進められた。さまざまな撮影現場はかなり離れた位置にあり、撮影は厳密に計画が立てられており、即興に頼れば避けられない衣装のつなぎ間違いは見られない。


本書には多数の写真が収められておりそれだけでも楽しいが、「愛撫」「アパルトマン」「移動撮影」といったテーマごとの写真がそれぞれの作品から抜き出されている。ゴダールがすでにデビュー作の時点から一貫して追求するモチーフを抱いていたことが確認できる。
デビュー作にはすべてがある、とは言っても例外も存在する。
結末が決まっていなかったことに加え、『勝手にしやがれ』は上映時間の問題も抱えることになる。一時間半を超えない約束であったのが二時間十五分から三十分となってしまったのであった。そのためにゴダールはベルモンドとセバーグの会話のシークエンスで二人のうち一方のカットをすべて削除するなどし、大幅に時間を短縮することになる。このようにしてゴダール独特のジャンプカットが生み出される。「ベルモンドとセバーグのどっちを残すかはくじ引きで決めることにし、セバーグが残ったというわけです」というゴダールの言葉は今や伝説となっている。

『勝手にしやがれ』こそ時間を超過してしまったものの、その後ゴダールはしばし「短すぎるのではないかという不安」にかられることになる。この頃のゴダールは「二時間や三時間の映画をつくる誘惑にかられたことは一度もないのである」。これはプロデューサーとの約束を守るべく「自分の映画に到達困難な余分な目標をつけ加えまいとしたため」でもあるが、著者はまた「シネフィルとしての人生のなかで、結局はそれほど気まぐれなものではなく、最終的にはスペクタクルに関するよき規則に十分に適合していると思われるこの長さを愛していたためではないだろうか」と想像している。

ゴダールはしばし「編集して九十分前後の標準的な長さに達するのに十分なだけのカットを手にすることができないのではないか」という不安を抱えていた。
スクリプターだったシュザンヌ・シフマンはこう語っている。「ゴダールにつきまとっている不安は、結局は短すぎるんじゃないか、十分な長さの映画にならないんじゃないかって不安なの。『恋人のいる時間』のときはそうでもなかったけど、『はなればなれに』のときはひどかった。そして『カラビニエ』となると、ときどきわざと長引かせているって感じがするの……あれは怠け者の映画なのよ。もっとも、私はそういう映画の方が好きなんだけど」(p.243)。
そのためにゴダールが『カラビニエ』で何を行ったのかというと、数多くの絵葉書を撮影したのであった。あとはこれを増やすなり減らすなりして時間を調節するというすさまじい作戦であり、これは公開時に批評家から「ゴダールは絵葉書を延々と撮影することによって人をばかにしている」と批判されることになった。

そして『はなればなれに』では、「物語のコース外のカットや場面を即興的に用意」したのであった。これはサミ・フレーがブルトンの本を買い朗読をはじめる場面や、「例のルーヴル参観の場面がそれである」。そう、あの伝説的名場面は単なる尺稼ぎのために撮られていたのである!
こんな証言がある。「ジャン=リュックはたえず、一時間二十分なり三十分なりに達するためには、つかえるカットをまだ何分ぶん撮らなければならないのかと問いかけていた。彼の映画に本を朗読するくだりがたびたびあるのはそのためだ。さもなければ、――島で冬ごもりしていたサーカスを利用して、そこの虎のためにアンナがステーキ肉を届けるといった――アンナを使ったカットを撮るわけだ。ジャン=リュックはいつも目を光らせていて、小さな場面を即興的につくるためのこうしたたぐいのあれこれをたくさん見つけだしたものだ」(p.347)。 あの場面も時間稼ぎ! 

ちなみにタランティーノの製作会社の名が『はなればなれに(Bande à part)』から取られたのは有名な話である。タランティーノといえば意味があるんだかないんだかといった会話シーンが延々と続くことも多く、そしてここ数作は上映時間もどんどん長くなっていっているのだが、ゴダールのこのエピソードを知っているのだろうか。


とかいっちゃって自分もこんなに長く書いてしまっているものであとは手短に。
『小さな兵隊』でアンナ・カリーナの着ているドレスはゴダールと共同生活を始めた最初の朝に送られたものだとか、拷問シーンでゴダールは渋る(そりゃそうだ)俳優に代わって自分の静脈を切り四十五分間血が止まらなかったエピソードとかいったあたりについても書きたいが、拷問についてのこの発言はとりわけ注目すべきだろう。
「この映画は、洗脳について語ってみたいという、ぼくがかなり以前からもっていたアイディアから出発している。ある囚われ人は“二十分ですむにしろ二十年かかるにしろ、だれかになにかを言わせるようにすることはつねに可能だ”と言われたということだ。でもアルジェリアでのさまざまな出来事を考え、洗脳の問題にかえて、当時の大問題になっていた拷問の問題をとりあげることにした。(……)人々はこの映画を見たあと、拷問について議論することができる。そしてぼくが示そうとしたのは、拷問の最も恐ろしいところは、拷問をおこなう者たちは拷問を少しも議論の余地のあることとは思っていないということにあるということだ。かれらはみな、拷問を正当化するよう仕向けられている。そしてこれは恐ろしいことだ。それというのも、だれにしてもはじめは、自分がいつか拷問をおこなうかもしれないとか、あるいはただ単に拷問に立ち会うかもしれないとは考えていないものだからだ。ぼくはひとはどのようにして拷問をもっともなこととみなすよう仕向けられてしまうのかを示すことによって、この問題の最も恐ろしい側面を提示しているわけだ」(p.103)。
拷問は『気狂いピエロ』においてまた使われることになる。


それにしても『小さな兵隊』の直後に撮られる『女は女である』では役作りのためにアンナ・カリーナを動揺させようと他の女性からのラブレターをカリーナに読ませ、そればかりかそれをスタッフにまで配るなんてどうかしているエピソードを読むと、ほんと天才とナントカは紙一重ということを実感してしまいますが。


なお「編集部注記」によると訳者の「奥村昭夫氏は2007年3月から本書の翻訳にとりかかり、10年3月に本文および原注の翻訳と訳注の作成を終え、写真の選択を含めた全体の見直し作業中を進めて来ましたが、11年4月に末期の大腸がんであることが判明し、ほぼ見直し作業を終えかけた同年7月25日に亡くなられました」とある。ゴダール関連の本を数多く訳されてきた方だが、大部にして詳細な本書は最後の翻訳にふさわしいものだったのかもしれない。





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