『ザ・マスター』

『ザ・マスター』



ポール・トーマス・アンダーソン監督の新作がサイエントロジーを扱ったものになるようだということは完成前から話題を集めていた。この作品がサイエントロジーの内幕を暴露しているのではといったジャーナリズム的な興味から足を運んだという人もいるかもしれないが、そのような期待は少々裏切られれることだろう。考えてみればサイエントロジーの冗談のようにすら思える成り立ちというのは暴き立てるまでもなく簡単に調べることができるのだし、そのようなわかりきったことをPTAが直接的に描くほうが返って期待を裏切るものであるかもしれない。


サイエントロジーの特徴の一つとしてあげられるのがその反精神医学である。この作品においてはオーソドックス(正統的)な精神医学ではなく精神分析との関係からサイエントロジー(的なもの)への批評的視線を見ることができる。この部分が現実のサイエントロジーの教義をどれだけ反映しているのかよりも、その象徴的役割として精神分析との類似や換骨奪胎ぶりから見えてくるものに注目すべきであろう。

第二次大戦の帰還兵であるホアキン・フェニックス演じるフレディ・クィエルは社会に適応できず、アルコールに溺れ粗暴な振る舞いを繰り返す。一見すると不可解な人物であるように映るが、しかしその行動は戯画的といっていいほど精神分析的である。性的衝動、近親者との性行為(願望)、抑圧された記憶、ほのめかされる戦争によるトラウマ、これらはいずれも精神分析の大きなテーマである。

フィリップ・シーモア・ホフマン演じるランカスター・ドッドが編み出した「プロセシング」は俗流精神分析と自己啓発セミナーを掛け合わせたようなものである。擬似記憶を与えることは訓練を積んだりコツを掴んだ人間にとってはそう難しいことではないし、単純な動きを繰り返させることによってもたらされる幻覚を「精神のステージ」が一段あがったかのように思い込ませるというのは常套手段でもあろう。
サイエントロジーがある意味では「パロディ」であるかのような起源を持つことを端的に表していると同時に、そもそも精神分析の源流の一つがシャルコーによる催眠療法であることを思えば、これは精神分析への強烈な皮肉だともとることができる。


と、ここまでサイエントロジーと本作に登場する「ザ・コーズ」とを同一視して書いてしまったが、大きなインスピレーションをサイエントロジーの成り立ちから得ていることは間違いないにしても、イコールで結ぶことは慎むべきだろう。

公開前の情報として、サイエントロジーの「教祖」とナンバー2にあたる人物との関係を描いたものだというものがあった。確かにそこから大きく外れてはいないのだが、しかしこの二人の協力や相克といった面ばかりを見ていこうとすると、とまどいも生まれてしまう。
この作品には魅力的なシーンが多々ある。個人的には冒頭の南方の島での兵士たちの退屈しのぎや、ジョニー・グリーンウッドによる不穏な音楽が流れ続ける中でのホテルでのエレベーターの場面などはかなり気に入った。しかしプロットを取り出すと、ここには観客が安心して身をまかせられる一本の筋というものが通っていないようにも感じられる。前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は「拝金」と「狂信」というアメリカの宿痾ともいえる両者による戦いによってプロットが牽引されていた。しかし『ザ・マスター』にはそのようなピンと緊張の糸を張り続ける「対決」は乏しい。その結果として個々の魅力的なシーンを束ねていく力が弱いともとれる。

一般に新興宗教は外部と意図的な対立状況を作り出すことによって求心力を高めようとする。本作でも「ザ・コーズ」が攻撃にさらされているという被害者意識は登場するし、ドッドやクィエルが逮捕されもする。このような「攻撃」をドッドが意図的に作り出しているのか、あるいは意図せざるものなのかは曖昧である。またクィエルの抱えるトラウマの問題も類型化されたものであり、これを克服するのか飲み込まれてしまうのかという視点で見ると肩透かしをくらうものでもある。


サイエントロジーや新興宗教に限らず、宗教的メンタリティを描こうとする作品において「カリスマ」の存在は欠かすことができない。『ザ・マスター』は「サイエントロジーに挑んだ」というような予備知識に引きずられてしまいがちになってしまうが、この作品はむしろ「カリスマ」、あるいはそれを待望する心性を脱臼させたものであるのかもしれない。

「カリスマ」を主題にすえた作品は枚挙にいとまがない。聖書を文学作品だと考えればまさにこれこそが雛形である。
「カリスマ」を描いた作品はいくつかのパターンに分類することができる。どちらかといえばカリスマ性を帯びた人物からではなく、その周囲の人物の視点から描いたものの方が多いだろう。「カリスマ」への心酔、「カリスマ」に対し周囲の熱狂をよそにしての傍観、「カリスマ」性を帯びはじめた人物へのとまどい、あるいは「カリスマ」を利用しようとするものなどがある。

新訳聖書におけるユダの裏切りは、イエスを革命家として期待したもののそれが裏切られたためであるという視点から語りなおされたものがある(『ジーザス・クライスト・スーパースター』はその流れの中の一作であろう)。また大江健三郎は「カリスマ」的人物をしばし登場させる。『万延元年のフットボール』は弟鷹四が次第にカリスマ性と悪魔性を兼ね備えたような人物へと変貌を遂げていき、最後は自裁するのを兄の蜜三郎は傍観するより他ない。一方で80年代から90年代にかけて登場した「ギー兄さん」は不可解さを残していった人物であり、残された人々が彼をどう受け止めるのかというのはキリストとその使徒たちを連想させるものでもある。大本教にヒントを得て書かれた高橋和巳の『邪宗門』は「カリスマ」とナンバー2を描いた系統の代表的作品である。。
これらは「カリスマ」やその周囲において、現実的に、または象徴的意味においての「戦い」が繰り広げられることになる。

これらと比べると、『ザ・マスター』における「カリスマ」の描かれ方は「弱い」。ドッドはクィエルの調合する怪しげなアルコール(ドラッグ入り!)に簡単にまいってしまうように「真の力」を持つ者としては描かれてはいない。批判に対してすぐに声を荒げてしまう余裕のなさもその証拠であろう。では彼自身は自分の力を本気で信じているのか、あるいはあくまでそれを装っているのだろうか。そしてもっと大事なのは、クィエルは本気でドッドに心酔しているのかそれとも彼を利用しようとしているのかだろう。ドッドはクィエルを「導く」ことに成功したようにも映る。クィエルの暴力を持さない行動力によってその影響力は強まっていくが、また彼は疑惑を呼ぶ存在でもある。
これらが『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のような「対決」によって、あるいは「カリスマ」をめぐる作品にあるような「戦い」によって片が付けられることを期待すると(僕は見る前はそういう「期待」を抱いていた)、それはやはり裏切られることになる。

ここでもう一度サイエントロジーに立ち返ろう。その信仰を持たない者の目から見ると、この「宗教」はこのように括弧をつけたくなるほど、あたかも「パロディ」のようにすら思えてしまうものだ。PTAがサイエントロジー(的なもの)を題材にしようと考えたのはまさにここにあるのかもしれない。PTAの『マグノリア』に出演したトム・クルーズをはじめハリウッドやアメリカのエンターテイメント産業にはサイエントロジーの信者は多い。このような個別的な「信仰」のメカニズムを解体しようとしたものではなく、「弱い」カリスマを擁する「ザ・コーズ」のような団体が、とりわけ戦後のアメリカでいかに浸透していったのか、その心性を描いたものと考えるべきだろう(ここにはその他の新興宗教や自己啓発セミナー、そして俗流精神分析も含まれる)。アメリカはその国家の成立の神話(ピルグリム・ファーザーズ)からして極めて宗教的色彩が強い社会であり続けており、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』がアメリカの深部に降ろされた根を描いたものであるとするならば、「カリスマ」をめぐる脱臼されたかのようなこの物語は、そこから地表に顔を出した芽であるのかもしれない。
『ザ・マスター』と聞けば、そこに「主人と奴隷の弁証法」を連想してしまう。この物語は「対決」によって片が付けられるのではなく相互依存の物語であるのだろう。


ついでにちょっと付け足すと、途中で出てきたバイクとそれに続く蜃気楼は明らかに『アラビアのロレンス』を意識したものだろうが、冒頭の南国で暇を持て余す様子はゴダールの『気狂いピエロ』やそれに影響を受けた北野武の『ソナチネ』あたりが浮かばなくもない。そういえば船からの波立つ海のショットというのは『ゴダール・ソシアリスム』でも頻出していた。このあたりは意図したものなのかどうかはよくわからないけど。




プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR