『貧乏人の経済学』

A・V・バナジー & E・デュフロ著 『貧乏人の経済学』




本書で扱われるのは先進国での貧困や格差ではなく、最貧国やインドのような途上国における貧困ライン以下での暮らしを強いられている人々である。とりあえずは開発経済学の一般向けの本とすることができるだろう。

本書において検討される大きな考え方は二つある。一つは一気に巨額の援助をして貧困状態から引き上げねばならないというジェフリー・サックスに代表される立場。もう一つがめったやたらと援助したところで市場などの環境が整っていなければ意味がないどころか有害ですらあるというウィリアム・イースタリーに代表される立場である。著者たちは双方の考えに一理あることを認めているが、言葉を変えれば一理しかないということでもある。

サックスにしろイースタリーにしろ机の上で数式のみと格闘してこのような考えにいたったのではない。両者ともに具体的な援助の現場(とその失敗例)から一つの結論を導いたのだろう。しかしそのように「一つの結論」を出してしまうことこそが、間違いではなくとも「一理しかない」ということになってしまう。

著者たちはジョージ・オーウェルの『ウィガン波止場への道』を取り上げている。オーウェルはここで貧しいイギリスの労働者たちが、安価で栄養価の高い食べ物よりも比較的高価だが栄養価の低い食べ物を好むことを描いている。「合理的」な発想からすればこれは貧しい労働者の非合理性や、あるいはこらえ性のなさといった人格的欠点を示すものと映るかもしれない。しかし見方を変えればこうなる。金持ちが健康的だが味気ない食事でも我慢できるのは彼らの人格が優れてるのではなく、食事以外にも気晴らしがあるためだ。逆に貧しい人間は食事くらいしか日々の楽しみがない。

オーウェルはこう書いている。「普通の人間なら、黒パンと生ニンジンを常食にするくらいなら飢え死にするほうを選ぶ。そして何よりも困ったことに、お金を持っていない人ほど、体にいい食べ物にお金を使いたがらない。億万長者はオレンジとライビタのビスケットという朝食を楽しんでいるが、失業者はそんなことはしない。(中略)失業しているときには味気ない健康食品など食べたくない。何かちょっとした美味しいものを食べたい。何かしら安上がりな美味が誘惑してくるのだ」。

少々戯画化された経済学的発想ではオーウェルが描く貧しい労働者は単なる愚か者であろう。しかしまたこの労働者の行動は多くの人間が共感を抱く人間らしい姿でもあろう。戯画化された経済学を信奉する人間にとってはそのような「人間らしさ」など飯の役にも立たないものであろうし、逆に経済学嫌いの人間にとってはそのような「人間らしさ」を切り捨てる経済学の非人間性が暴露される瞬間とも映るだろう。
無論著者たちはそのような安易な二択に流れ込むのではない。

我々(と、とりあえずはしておく)は日常の生活を基本的には合理的発想に基づいて送っていると考えているだろう。そういう目から見ると、本書で描かれる「貧乏人」の行動は理解しがたい非合理性に捉われているように映る。しかし「貧乏人」からすると、彼らは非合理性な選択をしているのではなく、その行動には彼らなりのちゃんと合理性がある。しかしそれはまた長期的に、あるいはマクロ的に考えると必ずしも生活を向上させるような、豊かな暮らしには結びつかないものであることも多い。

そもそも我々は本当に合理性に基づいた生活を自ら、主体的に考え抜いたうえで選び取っているのだろうか。それはただ単に、そのような行動を取るインセンティブが日常に埋め込まれているからなのではないか。そうであるならば、「貧乏人」の生活システムにそのようなインセンティブを組み込めば、彼らが貧困から抜け出すきっかけになるのではないか。
本書を「とりあえずは開発経済学」としたが、本書はまた行動経済学の具体例としても読むことができよう。

ケニアでのティーンエイジャーの早期の妊娠とHIVの感染をどう防ぐがという問題はまさに本書のエッセンスとなっているのではないだろうか。
エイズについての教育時間が増えても妊娠率が変化することはなかった。しかし若い男性よりも高齢の男性のほうがHIVに感染している率が高いということを教えただけで、年上男性(経済力があるために若い女性は「金持ちおじさん」とセックスしがちであった)とのセックスが減り、若い男性とのコンドームをつけたセックスも促進された。また少女たちを学校に残りやすくするための制服代を学校が負担すると妊娠率は低下した。しかしこのような成果が表れたのは性教育カリキュラムの研修を受けていない学校に集中していたのである。

「これらの異なる結果を併せて考えると、一つの筋の通ったストーリーが現れてきます。ケニアの少女たちは、避妊しないでセックスをすると妊娠することを十分理解しています。しかし、父親候補の子供を生めば、その人は自分の面倒をみざるを得ないはずだと考えているなら、妊娠はそんなに悪いことではありません。それどころか、学校の制服も買えなくて学校に残れない少女にとって、子供を作って自前の家庭をスタートさせることは、家にいて家族みんなから「おいおまえ」と軽んじられるのに比べれば――退学した未婚のティーン学生は一般にそうなります――かなり魅力的な選択肢です。だからこそ、十分な結婚資金もない若い男に比べれば年上の男は魅力的に見えます(少なくとも年上のほうがHIV感染確率が高いと知らない時には)。制服は少女たちが学校に残りやすくして、妊娠しなくてもいい理由を与えることで、出産率を下げます。しかし、性教育プログラムは、婚外セックスを阻止して結婚を奨励するので、少女たちは夫探しに向かい(その相手はどうしても金持ちおじさんになってしまいます)、制服の効果は帳消しになってしまうのです。/ひとつだけ、かなりはっきりしていることがあります。貧乏人のほとんどが、たとえ思春期の少女であっても、自分自身の妊娠出産、性行為に関しては意識的な選択をして、それをコントロールする方法――あまり楽しい方法ではないにしても――を見つけているということです。もし若い女性が、きわめて大きな犠牲を払ってでも妊娠するならば、そこにはだれかの能動的な意志が反映されているはずです。」(pp.160-161)

このような事例を「面白い」と感じる人もいれば、生身の人間を使って社会実験をするかのような手法に嫌悪感をおぼえる人もいるだろう(「経済学批判」としてしばし人間を実験台にするなというものがある)。
山形浩生が「訳者解説」で触れているように、本書は「ランダム化対照試行」の実践例でもある。「たとえば同じ地域の似たようなA村とB村をランダムに選び、片方には介入してみる。片方には何もしない。それで両者に何か有意な変化が生じるかを見てみようじゃないか」といったことは、「実験台」にされた当事者からすれば(あるいは彼らにシンパシーを寄せる人にとっては)「たまったものじゃない」という印象を持つかもしれない。しかしまた、このような「実験」の積み重ねがないことにはどの援助が効果がありどの援助が効果がなかったのかの検証は不可能でもある。このような検証を回避してしまえば、まさに一つの結論を理念によって導くという、一理はあるが一理しかないというサックスやイースタリーのような、あるいはもっと雑な印象論に基づく援助肯定/否定論から一歩も進歩がないという結果に終わってしまうであろう。

「かわいそうな貧しい人たちを助けたい!」という善意によって世の中は良くなるのだという確信を持つ人たちにとっては本書は必ずしも気持ちのいいものではないかもしれないが、ではその「かわいそうな貧しい人たち」の生活をいかに貧困から引き上げるのかを具体的に考えるならば、本書のような取り組みを否定することもできないだろう。





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佐藤太郎(仮)

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