『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

村上春樹著 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』





ネタバレ云々という作品ではないと思うので、そこら辺は気にせずにいきますので未読の方はご注意を。

読むにあたっておさえておくこと」を簡単にまとめると、『多崎つくる』は村上春樹のここ数作の長編の文脈におくべきだということだ。その文脈とは過去作の、単なる自己模倣ではなく意図的な反転すら含んだ「語り直し」である。『海辺のカフカ』は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の、『1Q84』は『ねじまき鳥クロニクル』の「語り直し」であった。

では『多崎つくる』はどうかといえば、大学生であった二十歳前後の七ヶ月間に強く死を意識し、激しい自殺衝動にかられていたという書き出しからして『ノルウェイの森』を想起せずにはいられない。

主人公の「つくる」は高校時代に、「赤松」「青海」「白根」「黒埜」と色の名前を持つ同級生たち(つくるだけが「色彩」を持っていない)と「自分は今、正しい場所にいて、正しい仲間と結びついている」と感じられる「完璧な共同体」を築いていた。他の四人は地元名古屋の大学に進学したのだが、つくるのみが東京の大学に明確な目標を持って進学した。そして大学二年の夏、突然この「共同体」から理由もわからずに切られてしまう。36歳になったつくるは、恋人的関係となった沙羅にこの苦い記憶について告白してしまう。

『ノルウェイの森』は冥府下り譚である。死の世界を象徴する直子と、生の世界を象徴するミドリとの間で揺れるワタナベは、冥界に下りて直子を救い出そうするが、この試みは失敗に終わる。
色の名を持つ人物が頻出するが、『つくる』においても「ミドリ」は登場する。しかしそれは「生」ではなく、「死」の側に立ち、中年の男(!)として登場するのである(少々脱線すると、ミドリのモデルが村上の妻であることは有名な話だ。ミドリが書いた手紙の内容はかつて妻が村上にあてたものだといわれている。そのミドリが中年男性となって「死」をまとい現れるとは……)。
『つくる』は入れ子構造になっている部分がある。つまり連作短編として書くことも充分に可能であったばかりか、そちらの方が無理なく話を進められるようにすら思える。それでもあえて長編に仕立てたのは、この作品を長編の文脈に置く、つまり過去作を「語り直す」という意図を明白にするためであったのかもしれない。「入れ子」の中に登場するミドリと対峙するのは、60年代後半に大学をドロップアウトしかけて、肉体労働を行いながら放浪生活をしている灰田父である。この人物は明らかにワタナベを連想させる。しかしここでは、「ミドリ」が「ワタナベ」を死にいざなおうとするという、反転した形になっているのである。

他にも『つくる』のシロはレイコさんと直子を混ぜたようにも思えるが、レイコさんが受けた被害・加害関係がここでも反転した形で使われている。『ノルウェイの森』では「人生のある段階が来ると、ふと思いついた」かのような自殺が数多く発生するが、自殺の観念にとらわれたはずのつくるはそのように「ふと」死を選ぶことはない。
このように、明らかに『ノルウェイの森』の反転が意図されている。しかしそれだけではなく、この作品は『ノルウェイの森』以外の村上作品をも想起させる設定や人物が多数登場する。
つくるの受ける理不尽な仕打ちは『レキシントンの幽霊』収録の短編「沈黙」を思わせる(大沢さんが「対決」するのは「青」木である)。沙羅は『ダンス・ダンス・ダンス』における弓吉さんを思わせなくもない。『ダンス』との連想はさらにいくつかある。つくるたちは不登校の子どもたちを支援する活動をしていたが、『ダンス』においても「僕」は学校行っていない中学生のユキに暖かいアドバイスをしていた。「絞殺体」は『ダンス』の「キキ」の最後が、人のいいフィンランド人陶芸家エドヴァルトは詩人のディック・ノースの姿が重ならなくもない。夢の中でのセックス、真相不明のレイプ、妊娠、中絶、そしてプールでの夢想は『ねじまき鳥』にも登場する。「六本指」の話は『風の歌を聴け』の「小指のない女の子」が浮かんでくるようでもある。

さらにこのようなアリュージョンは村上の過去作品からのみではない。つくると灰田(息子)のあの場面は『ライ麦畑』のホールデンのホモフォビア的恐怖心の具現化のようにも見える。灰田(父)の語る「死」は、「トークン」の「引き渡し」という点では『羊』を思わせなくもないが、その寓話的内容はベルイマンの『第七の封印』を連想できなくもない。
そして何よりも、「赤」「青」「白」「黒」という色は、庄司薫の『赤頭巾』『青髭』『白鳥』『黒頭巾』という薫クンシリーズのタイトルに使われた色と一致する。

これらについてどう考えればいいのだろうか。コアなファンへのサービスとしての目配せにしてはあまりに溢れ返っている。作者の創造力の枯渇を疑うにはあまりにあからさますぎる。
「過剰さ」で作品が覆いつくされている。

仮に村上の過去作を読んでいなかったとしても、登場人物として「赤松」「青海」「白根」「黒埜」といった名前が与えられたことには少々違和感をおぼえる人もいることだろう。
「まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる」。
これはポール・オースターの『幽霊たち』の冒頭である。オースターはここで登場人物に色の名前を与えることで、この物語の虚構性と抽象性を読者に印象づけている。『つくる』が同様の意図を持っているなら、よりありふれた名前にしたほうがその効果があったことだろう。同じ色のつく名でも「青田」ではなく「青海」、「「白石」ではなく「白根」、「黒木」ではなく「黒埜」といった、より少数と思われる苗字をつけることで、読者は『天路歴程 』のような寓意物語のように、名前が象徴的役割を果たしているのではないかという推測を働かせてしまう。

ここで注意すべきは、80年代の村上は登場人物に名前をつけることを躊躇し続けていたということだ。一人称の「僕」の名は登場せず、「鼠」のような愛称や、「小指のない女の子」、「黒服の男」「博士」や「ピンクの女の子」といった記号的な呼び名が与えられていた。長編において初めて「僕」に名前が与えられるのは『ノルウェイの森』からであるが、ここで「僕」の名は「ワタナベ」というカタカナ書きで表記される。表意文字である漢字はローマ字とは違って「音」に対して「意味」が中立でいることができない。村上が「名前」を与えたがらなかったのは、名前に過剰な意味づけがされてしまうことを嫌ったためだされることもある。
ところが『つくる』の場合、むしろ逆にそれぞれの名前には過剰なほどの意味が加えられているかのような印象を与えてしまう。ご丁寧にもつくるは自分の名前の漢字についての考察を披露するのである。

「彼女はコーヒーを一口飲み、カップをソーサーに戻した。そして間を置くように、爪のエナメルを点検した。爪はバッグと同じえび茶系の色(少しだけ淡い)に美しく塗られていた。それが偶然でないことに、一か月分の給料を賭けてもいいとつくるは思った」(p.137)。
色が頻出するこの物語で、「えび茶系の色」はどんな意味を持っているのだろうか。牛丼一杯分をかけてもいいが、「えび茶系の色」そのものには意味はない。「色」が溢れかえることに意味がある(かのように思わせている)。過剰にあふれかえる「色」のイメージは、そこに解釈をもぐりこませるという欲望を刺激するために挟まれている。

「空は薄く曇って、青空はどこにも見えなかったが、雨の降り出しそうな気配はなかった。風もない。緑の葉を豊かにつけたヤナギの枝は、地面すれすれまで垂れ下がり、深く考えごとをしてるみたいにぴくりともうごかなかった」(p.157)。
「幽霊の正体みたり枯れ尾花」ということわざがあるが、ススキが幽霊に見えてしまう現象が問題となのではなく、なぜススキが幽霊に見えてしまうのかをロールシャッハテスト的にその心理を解読する欲望が刺激されるのである。「緑」の葉を茂らせたヤナギの描写に何か意味はあるのか、と。
「色」が溢れかえり、過剰に意味を付与したくなるがゆえに、かえってこの物語世界は「色彩」を失っているようにすら思えてしまう、という読解の欲望すら刺激されているかのようだ。
村上作品の細部をパズル的ゲームとして「謎解き」をするというのは「春樹本」の定番であるが、ここではむしろそれを逆手に取り、「枯れたススキが幽霊に見えてしまう現象についての解釈」を誘発することで、作品のトーン(色調)を隠そうとしているのではないか。それは、実はこの物語世界が非常に「のっぺり」としたものだということだ。


繰り返すが、村上は明らかに過去作を念頭に「語り直して」いる。これは過去作をただなぞっているのではなく、ズレを生じさせ、さらには全く正反対といっていいほどにまで反転させてさえいる。
『1Q84』にはカルト教団が登場したことから、オウム事件に関心を寄せていた村上がついにカルト的なものと正面から対決するということを期待した人は多かっただろう。ところがBOOK3ではカルト問題は後景に沈み、物語はラブストーリーへと変容してしまう。ミュージカル作品で瀕死のはずの人物が今際に突然声を張り上げて歌いだしたかのような脱力感を憶えた人もいたことだろう。しかし『ねじまき鳥』においてすでに綿谷ノボルという「悪」との対決を物語の軸にすえていたことを思えば、村上は『1Q84』において意図的に物語を脱臼させたと考えるべきかもしれない。

『つくる』は過剰なほど過去作との連想を働かせる仕掛けが施されながら、決定的な差異も存在している。それはやはり「悪」の存在である。村上は「羊」や「やみくろ」といった抽象的に描かれていた「悪」を、80年代後半から90年代半ばにかけて具体的な形に仕上げようとしていた。それはレイコさんを陥れた少女、永沢さんや五反田君といった「深刻な人物」をへて綿谷ノボルへと収斂していく。
ところが、『つくる』には明確な「悪」の存在はない。悪役にふさわしいように思われたカルト的自己啓発セミナーの主催者も実は「いい人」であることが判明する。つくるを死の際まで追い詰める引き金を引いた人物も同情を寄せられるべき存在である。これは「絶対的な悪など存在しない」という相対主義というよりは、むしろこの世界の「軽薄」さを表しているのかのようだ。

『つくる』におけるフィンランドのパートは異様といってもいいほどの印象を受ける。つくるはグロテスクな事実を発見し、それがまだ解決などしていないにもかかわらず、この旅をリラックスして楽しんでいる。16年という歳月はあそこまでの深い傷を癒してしまうほどの力を持っていたのだろうか。逆に考えるなら、つくるは本当に、かつて死をリアルに意識するほど追い詰められていたのだろうかという疑問すら湧いてくる。

『ノルウェイの森』では、直子はキズキによって冥界へと引きずられていく。ミドリを事実上選んだワタナベは身勝手な男であったかもしれないが、それでも冥界まで下りて直子を救い出そうと必死の努力をする。しかし『つくる』にはそのような「切実」さを感じさせる人物は登場しない。
クロは決定的に人を傷つける決断を行ってまでシロを守ろうとするのだが、中途半端なままフィンランドへと渡ってしまう。誰も直子のように冥界に囚われはしない。一方深く傷ついたはずのつくるにもあっさりと「癒し」が訪れてしまう。ワタナベにもたらされる失調感覚(「あなた、今どこにいるの?」「僕は今どこにいるのだ?」)とは間逆だ。
だいたいなぜフィンランドなのだろうか。「ノルウェイ」ではあまりに露骨すぎるということかもしれない。仮に灰田の「死」のエピソードが『第七の封印』を意識したものだとすると、ベルイマンの祖国スウェーデンでもいいだろう。村上が見ているのかどうかは知るよしもないが、フィンランドといえば荻上直子の『かもめ食堂』がある。『つくる』における異様とも思える「癒し」の到来は荻上的な安易さを思わせるものでもある(すべてはまるくおさまりましたとさ!)。


80年代の村上の長編作品は、名前と並んで(あるいは関連してというべきだろうか)家族の登場もできる限り避けていた。『つくる』ではつくるの両親と姉たちへの言及があり、とりわけ父親の存在の大きさにはしばし触れられる。これは「ウェルカム・トゥー・リアル・ライフ」ということなのだろうか。

つくるたちは36歳を迎えている。しかしこれはもちろん、80年代の村上作品における30代とは大きく意味が異なる。具体的に年月日を特定させる記述はないが、ツイッターやフェイスブックが日常的に使われていることなどを考えると、作品の「現在」は執筆、発表時の現在(つまり2013年)あたりだとしていいだろう。ちなみに僕はつくると同世代の30代半ばであるが、僕の母と村上は同い年である。つまりつくるたちは、ちょうど村上の子どもの世代であるのだ。

つくるの人生は「 リアル・ライフ」とは程遠い。彼の父親は不動産業で成功した人物で、名古屋以外に東京にも物件を所有しているほど手広く商売をしている。この世代で不動産業を営んでいるということは当然バブルとその崩壊の影響をモロに受けているはずなのだが、そのような言及は一切ない。つくるは70年代半ばの生まれであると考えられる。つまり大卒時の就職事情はかなり厳しかったはずだが、なんの苦労もなく就職先を見つけたようである。アオはトヨタのレクサスのセールスマンとして成功していて、ライバルは日産やホンダではなくメルセデスやBMWだと鼻息荒い。「もちろん世の中の景気はあまり良くないが、それでも金を持っている人間はしっかり金をもっている。不思議なくらいな」と語るのだが、リーマンショックなど「蜂に刺されたようなもの」だったのだろうか?
これらを解決するのはそう難しくはない。父親は慎重にリスクヘッジを行っていただとか、理系で専門的な知識を身につけたつくるは就職は苦労しなかったというような簡単な文を挿入すればすむことだ。アオには不景気をもっとボヤかせればいい。村上のことだから、登場人物の年譜を頭に入れ、この間どんな出来事があったのかくらいは当然考慮していることだろう。企業向けの怪しげな研修を請負、メディアの寵児になりつつあるアカの姿は、「ブラック企業」を支えるゲスな「コンサルタント」の姿からヒントを得たと推測できるように、ここ十数年の日本社会の動きにまったく無知無関心であるとも思われない。つまりこのような「リアリティ」の排除も意図的なものだとしたほうがいいのではないか。


この作品の最大のポイントは「名古屋」にある。現実の都市名古屋ではなく、「名古屋的」ありようだ。
名古屋は日本有数の巨大都市であり、東京と大阪の中間地点にある。一方で揶揄的に取り上げられるような「独特」の文化を築いてきた都市でもある。ちなみに村上は『地球のはぐれ方』で名古屋のなんだかすごい(とよそから見ると映る)食文化等を取材している。『カフカ』にホシノを登場させることにしてもそうだが、作家当人とは縁もゆかりもないはずの名古屋に村上はかなりの興味を抱いているようだ。

作中のある人物はこう言う。「とにかく二人とも現在、名古屋市内に職場を持っている。どちらも生まれ落ちてから、基本的には一歩もその街を出ていない。学校もずっと名古屋。職場も名古屋。なんだかコナン・ドイルの『失われた世界』みたい。ねえ、名古屋ってそんなに居心地のいいところなの?」(p.145)。

独自の進化を遂げるガラパゴス都市「名古屋」。そこにはなんでもある。自足することができ、一歩も外へ出る必要がない。しかし「名古屋」はそんなにスタティックに安定している都市で、ずっとそこにとどまっていることができるものなのだろうか。名古屋はトヨタという一私企業の存在なしには考えられない。これはむしろおそろしいほど不安定かつ歪んだ成り立ちともいえ、一私企業の命運が巨大都市全体の運命をも左右する。しかしその中にいる分には極めて落ち着いた、満足のいく街のように感じられる場所でもある。そして地元の私立女子大の仏文科を出て、地元の企業で秘書を務め、前途有望な若手社員を見つけるか見合いをするかし、そうして誕生した子どもを有名私立学校に行かせることに専念するような、「レクサスの受付にいたのと同じ、名古屋でしばしば見かけるタイプの女性」を排出し続けている。繰り返すがこれはあくまで「名古屋」であって現実の都市名古屋ではない。現実の都市のランドマーク的なものは排除されている。

「ひとつわかってほしいんだが、おまえは東京に出ていき、あとの四人は名古屋に残った。何もそのことをどうこう言うつもりはない。ただ、お前には新しい土地で新しい生活があった。その一方でおれたちは、名古屋で身を寄せて生き続ける必要があった」(p.196)。
「名大の教授というのはここではちょっとしたブランドだからな。でもそんなもの、東京に出たらまず通用しない。洟もひっかけられやしない。そう思うだろ? (……)おれたち四人がここに残ることにしたのには、そういう現実的な理由もあったと思う。いわばぬるま湯の中に浸っていることを選んだわけだ」(p.197)。

『つくる』におけるリアリズムの欠如は、このような「名古屋的」感覚によって世界が覆われているためなのだ。「名古屋」は「のっぺり」として生暖かい「ぬるま湯」だ。そこでは人は深くは傷つかず、またそれゆえに「切実」な感情が生まれることもない。「名古屋」では冥界に囚われてしまうほど人に強く思いを寄せることはない。「名古屋」を去った人物が「名古屋」に留まっている人間のために犠牲にされるのは仕方のないことだ。しかし冥界はすでに「名古屋」ではないので、シロは「名古屋」圏から離脱した形となり、忘れられ、見捨てられても構わない。シロは「名古屋」ではなく浜松で命を落とすことになる。まるで死期を悟った象が群れから離れるていくのように。そうなると最早つくるをパージする必要はない。しかし「名古屋」を離れているつくるに対して積極的な名誉回復は行われない。放蕩息子の帰還よろしく「名古屋」圏に舞い戻ったつくるは、また「ぬるま湯」的暖かさに迎えられる(実はみんな良い人!)。

つくるは非「名古屋」的人物である沙羅への思いを確信するが、その代償も承知しているようだ(「沙羅が俺を選ばなかったなら、おれは本当に死んでしまうだろう」)。しかしもし沙羅から拒絶されれば、今度こそ「完全に色を失」うことになりかねないが、そのことを本当に理解しているといえるのだろうか。


80年代の村上作品は、一般的にはその「閉じた」世界が、社会に背を向けた微温的保守主義、ミーイズムだと批判されることもあった。しかし本当に村上作品の世界は閉ざされていたのだろうか。
『風の歌を聴け』は成金の父親を憎みながらもそこから抜け出ることができない鬱屈した「鼠」、望まない妊娠と中絶をした貧乏な「小指のない女の子」、恋人を自殺という形で失ったばかりのミドルクラスの「僕」の物語である。ここに60年代の理想主義の限界(「鼠」)と時代によって深く負わされた傷(女の子」)と「シラケ」ともとれる「クール」にならずには生きていけない「僕」という三角関係を見ることができる。
『羊をめぐる冒険』は戦後の日本は新たな出発をしたのではなく、その経済発展、それを支える権力構造が戦中と地続きであり、その欺瞞に満ちた体制に一泡ふかせることはできようとも、結局は山は削られその土で海が埋め立てられる故郷に涙するしかないという無力感に覆われる。 
『ノルウェイの森』は躁病的軽薄さを感じさせるクリスマスカラーのカバーとは逆に、切実に相手を求め、しかし目の前にいる大切な人が失われていき、絶望的な努力も報われることのないという陰鬱な世界である。

「いかにも80年代的」に思われがちな村上の作品だが、その世界は一般にイメージされるような閉じられ方をしていたのではない。世界は閉じられていたのではなく、時代に背を向けていたのだ。長編においてはバブルのユーフォリア的世界とは無縁な、「反時代的」ともいえるものであった(村上自身はバブルへ向かうまさにその時に日本を離れる生活を選ぶ)。

『つくる』は一見すると「村上春樹的」世界を総動員しているようでいながら、実はそれを反転させている。自己肯定に満ちたここは反「80年代村上春樹」的な世界ですらある。80年代の村上が「反時代的」であったとすると、『つくる』は「名古屋」化した世界(というとあの本みたいだけど)に寄り添いすぎている。

「でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず。何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何かまちがったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中なんです。何の責任も取りやしないんです。本当に怖いのはそういう連中です」。
これは「沈黙」の大沢の言葉である(『レキシントンの幽霊』 単行本版 p.92)。

「共同体」のメンバーを守るために、「共同体」から離れかけている人間を犠牲にしても構わないというのは、いかなる理由があろうとも恐るべき発想である。つくるは会うことが拒絶されることを恐れ、「共同体」のメンバーに「アポなし」で会いに行く。しかし彼らは意外なほど素直につくると向き合う。これは「共同体」のあの行動がつくるを「決定的に傷つけた」かもしれないということへの想像力を働かせていないためであろう。悔恨にまみれていたら、もっとばつの悪さを感じてもよかったはずだ。彼らは濡れ衣であることをうすうすは勘付きながら、真相の究明や謝罪の機会を設けることはそう難しくはなかったにもかかわらず(すでにシロは亡く、またつくるの実家は同じ場所にある)、つくるを放置し続け、それにたいしてほとんど罪悪感もおぼえてはいない。
一方でつくるもそのような「共同体」の論理をそう違和感なく受け入れてしまっている。「名古屋的」ディストピア、ほとんどファシズムの世界観を内面化しているかのようだ。

村上が一人称から三人称へ移行しようとしたのは、一人称で描く世界に達成感と限界とを感じていたからだろう。そして『つくる』も三人称で語られるのだが、しかしこの作品は一人称であってもまったく支障がない物語である。ではなぜ一人称ではないのか。それは「信用できない語り手」を回避しようとしたためかもしれない。つくるは自分では十人並みの顔立ちだと思っていたが、実は異性からも好意的に評価されるハンサムさであったということがわかったり、「完璧な共同体」の中で、「色彩を持たない」自分はおまけ的位置にいたのかと思えば、実は当人の認識以上に周囲から重要視されていたという唐突にも思える「真実」の開陳は、一人称であればとても信用できるものではない。これが三人称で語られることによって、この作品の「名古屋的」特性が浮かび上がる。これは多崎つくる個人の問題ではなく、この世界が「名古屋的」な「のっぺり」としたものに覆われ、その「ぬるま湯」の中で「共同体」が充足してしまう物語でなのある。


……ということを村上春樹が意図しているのかどうかはまた別問題であり、これが「正しい」読み解き方だというつもりも毛頭ない(むしろかなり特殊な読み方であろう)。しかし少なくともこのように読むことも可能な物語ではある。作品としては「開かれて」いる。『ノルウェイの森』には「羊男」も「計算士」も登場しない。『つくる』もスーパーナチュラルな展開が回避されている。しかしだからといってこれらの作品を狭義の意味での「リアリズム」だと受け取るのは早計であろう。この物語はほんとうに「わかやすい」のだろうか。

いささか奇妙な話である『ノルウェイの森』を「ナイーブ」に表面的展開だけを追って「感動した」とか「安易でご都合主義すぎる」という感想があるように、そのいささか奇妙な話をさらに「語り直した」『つくる』も、「癒しの物語」や「安直さの極み」といった形で「ナイーブ」に受容されてしまうのだろうけど。



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