「ジャパニーズ・サイコ」としての『多崎つくる』の可能性

すでに無駄に長い感想はこちらにあるが、なにせ半徹夜で午前四時ころに書いていたもので変なテンションになっているところや同じことを繰り返しているところなんかもあるのだけど、その割りに書こうと思っていたことを書き漏らしていたりもする。さらにその後浮かんできたことなんかもあるもので、まだしつこくもうちょっと書いてみる。


『つくる』を読み終わったあと、この感じは何かに似ていると思った。ふと浮かんだのがブレット・イーストン・エリスの『アメリカン・サイコ』(91年発表)である。あのミソジニーとサディズムとに溢れた胸糞悪くなる小説とどこか? と思われるかもしれないが、似ていると思えたのはその「リアリズム」についてである。

ジョン・サザーランドは『現代小説38の謎』で『アメリカン・サイコ』について面白い読み解き方をしている(なお手元にないもので完全に記憶に頼っているもので間違ってたらごめんなさい)。

『アメリカン・サイコ』は一見すると音楽、食事、そしてなによりブランド品など「細部」がこれでもかと書き込まれている。しかしこの小説を「リアリズム」だと考えると非常に奇妙なものでもあるという。享楽的、強迫的ヤッピーの生活を描きながら、そこには「現実」が欠けている。ベイトマンの具体的な仕事の内容は明かされず、それでいて勤めている会社はトム・ウルフの小説『虚栄のかがり火』(87年発表)のマッコイと同じであるという。収入面にしても時代を謳歌した80年代ヤッピーとしては疑問がある。さらにはウォール街に大打撃を与えたはずの「暗黒の月曜日」について一切触れられていない。つまりこれは、「現実」に起こったことではなく、ベイトマンの見た「幻」であったのかもしれないのだ(「暗黒の月曜日」にショックを受け、ドラッグをオーヴァードーズして幻覚を見たのかもしれないとある)。そうであれば、「ネクタイを二本締める」というシュールな状況にも納得がいくのである。


すでに書いたように、『つくる』は「いかにも村上春樹的」イメージに溢れてているようで、その実『ノルウェイの森』を反転させた形の、極めて反「村上春樹的」物語となっている。

村上はエルサレム賞受賞講演で「壁」と「卵」の比喩を使い、自分は「卵」の側に立つと表明した。
80年代の村上作品への批判としてその「生活」の欠如がある。翻訳事務所を開けばうまくいき(『ピンボール』)、広告業に手を広げても成功し(『羊』)、すべてを失ったようで「文化的雪かき」によって十分に生計を立てられる(『ダンス』)。90年代だが、『ねじまき鳥』では主人公は失業中とはいえ叔父から家を提供され、妻がフルタイムで働く事実上の主夫となり、物質的には困ってはいない。
彼らは「組織」に属さなくても、少なくとも金銭的には困窮することはない。村上自身が大学在学中に店を始め成功したという個人的体験の反映や、「それが可能な時代だっただけだ」という見方もできるだろう。
いずれにせよ、一貫しているのは、作中の主要登場人物による抜きがたい「組織」(的なもの)への不信である。「壁」、あるいは「システム」への嫌悪と抵抗(とその不可能性)はデビュー時から村上の大きなテーマである。

つくるの両親、姉たちの存在(それも父親の具体的な職種まで重要な設定となっている)がはっきりと書き込まれ、そしてつくるはお堅く鉄道会社に務める身だ。一見するとかつてより「リアリズム」に近づいたかのように映る。
『つくる』を肯定的にも否定的にも「わかりやすい」とする意見がある。確かにここにはスーパーナチュラルな存在も現象もない。しかしこゆえに「わかりやすい」としてしまうのは、やはり表面的にはスーパーナチュラルな存在や現象が排除されていた『ノルウェイの森』を狭義の「リアリズム」と片付けてしまうのと同じくらいあやういのではないだろうか。

つくるの父親は不動産業を営んでいたが、彼はバブルとその崩壊の影響をまるで受けなかったかのようだ。つくる自身はここ20年の日本の経済状況の悪化の影響をモロに被った世代であるはずなのに、それはまるで生活に降りかかっていないようでもある。これを作者の無知とすることもできるし、あるいは経済的に成功した団塊の世代の父や安定した正社員職に就いたつくるの社会的無関心を表しているとすることもできる。
しかしこう考えると、終盤に地下鉄サリン事件という日本社会に起こったあまりに「リアル」な出来事への言及が唐突にあることが奇異に感じられる。ある部分ではリアリティを排除しながら、突然「現実」が入り込んでいる。これも「精神の澱」から開放されたつくるの視野が広がったためともとれなくもないが、そうするにしてもやはり異様とすら思える箇所がある。

村上がオウム事件に関心を寄せ、地下鉄サリン事件の被害者にインタビュー取材をしたものが『アンダーグラウンド』である。満員の地下鉄で出勤していた被害者たちは、「組織」に背をむける「いかにも村上春樹的キャラクター」とは対照的であるが、村上はこの作業を通して彼らへのシンパシーを発見する。

まだ日本がバブルであったころにアメリカの新聞に、ぎゅうぎゅう詰めの駅の中、陰気に下を向いて歩く通勤客の写真が掲載され、「多くの日本人はこのように俯いて不幸そうに見える」という論評があったことをつくるは思い起こす。しかし通勤客が顔を下に向けていたのは彼らが不幸だったからではなく、単に混雑した駅で階段を踏み外さないように、靴を踏まれないように足元を気にしていただけなのだと思い当たる。
ここを取り出すと、つくるは通勤客を不気味な「マス(塊)」として片付けるのではなく、一人ひとりが日々の生活のささやかな「やるべきこと」に支えられているということにシンパシーを抱いているかのようだ。とはいえ、彼らがひどい環境の中長い通勤時間をかけていることもまた間違いはなく、「それはどの程度人々を疲弊させ、すり減らしていくのだろう?」と疑問も感じる。

ところが「地の文」によってこう進められるのである。
「しかしそれは鉄道会社に勤務し、主として駅の設計にあたっている多崎つくるが考慮すべき問題ではない。人々の人生は人々に任せておけばいい。それは彼らの人生であって、多崎つくるの人生ではない。我々が暮らしている社会がどの程度不幸であるのか、あるいは不幸ではないのか、人それぞれに判断すればいいことだ。彼が考えなくてはならないのは、そのようなすさまじい数の人々の流れをいかに適切に安全に導いていくかということだ。そこには省察は求められていない。求められているのは正しく検証された実効性だけだ。彼は思索家でも社会学者でもなく、一介のエンジニアに過ぎないのだ」(p.351)。

他者からどう評価されようとも自分がなすべきことをなす、これは村上の主人公の多くが行動規範に掲げていることである。加藤典洋はこれをカントの「格率」と比較している(こちらを参照)。ここでの「地の文」は一見するとこの「格率」の延長であるかのようにも映る。しかしここで「地の文」はつくるを押しつぶされるようになりながら満員電車で通勤する側にてではなく、「組織」の側に立たせている。確かに何をもって「幸福」と感じるのは人によって千差万別であり、それを「上」から押し付けるべきではない。しかし「地の文」はそのような自由を重視しているのではなく、「人々の流れ」をいかに効率的にコントロールするかという功利主義的発想に立つ。これは「エンジニア」という専門職(「職人」的あり方は「組織」への不信感を抱く人間がしばし称揚するものである)の尊重ともとれなくもないが、またはテクノクラートによる傲慢なパターナリズムともとれる。

これは「地の文」であって、つくるがそう考えているとはされてないことに注意が必要だ。比較的控え目で中立的だったように見えた「地の文」がなぜここでしゃしゃり出てきたのだろうか。ここがこの物語世界の裂け目であったのかもしれない。「リアリズム」を装った人工的空間を、地下鉄サリン事件という「現実」が綻びさせたのではないか。


一般論として、小説を考えるうえで現実の作者と「作者」は区別して考えるべきだ。わかりやすい例としては「信用のできない語り手」がある。一人称で語られる物語において、語り手は本当に「事実」を語っているのかどうかについては疑いの眼差しを向けなくてはならない。
しかし『つくる』は三人称である。少なくとも、「事実」に関してはとりあえず「地の文」は信用することができる。ではこの「地の文」を作者、つまり現実の村上春樹とイコールで結んで構わないのだろうか。ここでヒントとなるのが『地球のはぐれ方』(こちらを参照)で村上が書いたエッセイである。村上はここで名古屋をコナン・ドイルの「失われた世界」に例えているが、『つくる』においてこの比喩はそのまま沙羅が使うことになる。村上の「分身」は「地の文」ではなく、非「名古屋」的人物である沙羅だとすることもできる(彼女の存在がなければ物語は進まなかった)。

村上は2004年刊行の『地球のはぐれ方』で、名古屋を舞台にした小説を書くとすればそれは「 だんだんもうカフカの世界になってくる」と語っている。名古屋は「一種ポストモダンの世界」であり、そこを「 物語性を拒否した場所ということで、いわば再構築して読みこ」むのである。もちろんこれはリラックスした鼎談であり、冗談めかしていることを考えれば真剣に受け取りすぎることには慎重であらねばならない。また基本的には「著者の意図」は括弧に入れておくべきことである。しかし『つくる』において、この「地の文」の扱いを「リアリズム」とする単純な読み方に疑問があるとすると、この村上の言葉は示唆的である。

「完璧な共同体」のつくる以外のメンバーに使われている色、「赤」「青」「白」「黒」はそのまま庄司薫の薫クンシリーズの『赤頭巾』『青髭』『白鳥』『黒頭巾』と一致する。
『赤頭巾ちゃん気をつけて』は日比谷高校三年の庄司薫クンの一人称であるが、ここで薫クンは自分が「実は兄の書いた小説の主人公なんかじゃないかって気もするほどなんだ」と考える。そして薫クンのこの「疑惑」はおそらく正しい(このあたりはこちらを参照)。
庄司が『赤頭巾ちゃん』の下敷きにしたのはサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(もちろん村上自身が訳していることに注意)であるが、このホールデン・コールフィールド君の一人称小説も、兄のD・Bが執筆者である可能性がある。(『赤頭巾』の設定はこれをふまえている)。そして『つくる』には、『キャッチャー』のある場面を想起させる部分もある。さらにいえば『赤頭巾』は薫クンが「男の子」から男になることを決意する小説であるが、これはまたエリートによるパターナリズムを擁護したものともとれ物語であることにも注意すべきだ。


『つくる』には過去の村上作品を連想させる設定や言葉が山のように、過剰なほどある。しかし(反転させることを意図した)特権的な地位にある『ノルウェイの森』を除けば、村上自身の過去作への連想への誘いはこのメタフィクション性を覆い隠すレッドヘリング(偽の手がかり)であったのかもしれない。

過去の村上作品では、異界への侵入へのポイントの切り替えはかなりわかりやすいものであった。『羊』の「不吉なカーブ」や『世界の終わりと』の東京の巨大な地下へ降りる梯子、『ノルウェイの森』の阿美寮への長い道のり、そして何よりも初期のころから頻出し、ついにはそこに降りることになる「井戸」である。
しかし『つくる』にはそのようなポイントが切り替わったことを窺わせるものがない。それゆえこれは「狭義のリアリズム」だとしてしまいそうになるが、そもそもこの物語が当初から、つまりつくるの激しい自殺願望の回想からして、すでに「異界」の出来事であったとしたらどうだろうか。
庄司やサリンジャーへの目配せはこの作品のメタフィクション的構造のほのめかしであり、「地の文」の暴走はこの世界の人工性を示すものであるのかもしれない。

『つくる』を過去の傷と向き合い、それを克服するという「癒しと救済の物語」であると考えると極めて問題がある作品だ。これは「共同体」のメンバーを守るためには「共同体」を離れた人間を犠牲にするのもやむを得ず、そしてその守るべき対象であったはずのメンバーですら、「共同体」を離れてしまえば関心が薄れていってしまうという、「共同体」の「防衛」をめぐる物語でもある。彼らが守ろうとしていたのは「個」ではなく「共同体」なのである。このような「個」を犠牲にしてでも「共同体」を守ろうという発想は「村上春樹的キャラクター」がもっとも嫌悪してきた「ムラ社会」の発想である。このような「共同体」の論理と、「地の文」が語るような功利主義的テクノクラートとの融合はファシズムである。さらには、「大儀」のためには相対的に小さな犠牲はやむをえないというのはまさにオウムが起こした一連の事件の論理でもある。


果たして「作者」のみならず、現実の村上春樹も反動化し、ミイラ取りがミイラとなってしまったのだろうか。一方で、すでに示したように、これを「癒しの物語」にはらまれる暴力性を暴露したポストモダン的ディストピア小説と読むこともまた充分に可能なのである。


サザーランドによる『アメリカン・サイコ』の読み解き方には、著者による設定の詰めの甘さや編集者のチェック不足への揶揄もこめられていることは言うまでもない。『アメリカン・サイコ』は発表前から大きなスキャンダルとなり、原稿は複数の出版社を転々とした。裏を返せば多くの編集者の目に触れ、用心深く読まれ、またエリスが手を入れる機会もそれだけあったということだ。それだけにサザーランドが指摘する「隙」の大きさが目につく。
だが同時に、そのような「隙」の存在が新たな解釈を誘発し、「作者の意図」を超えた可能性が広がることもある。もちろん何も無理に「救い出す」必要はないが、しかし『つくる』を肯定的にも否定的にも「わかりやすい」として片付けてしまうことは、「小説」というもののあり方についての可能性を読者の側で狭めてしまっているのではないかとも思えてしまう。別に村上春樹だからということではなくて、少なくとも個人的には、『海辺のカフカ』や『1Q84』あたりと比べるとはるかに「開かれて」いる作品だと思う(だからこれだけうだうだと書いている)。まあこのあたりが不幸な受容のされ方をしてしまうというのも、『ノルウェイの森』現象的な意味でまた村上春樹らしいといえるのかもしれないけど。







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