民主主義、物語、神話をめぐって 『アミスタッド』再訪

スピルバーグ監督の『リンカーン』を見に行く前に、予習というか復習というかで『アミスタッド』を見返してみた。





奴隷輸送船が反乱に合い乗っ取られるという1839年に実際に起こった「アミスタッド号事件」、乗っ取られたアミスタッド号を発見したアメリカ軍、スペイン、奴隷主、奴隷廃止論者が四つ巴の戦いを繰り広げる。
この作品はスピルバーグらしいスペクタクルが冒頭にあるものの、以降法廷劇が中心となっている。史実を元にしているので観客はあらかじめその結末を知っている。結末を知っている法廷劇はなかなか興味を引きにくいものだろう。そのせいか興行的には成功したとは言いがたい。

そのような興行上のリスクを冒してでも、この作品が描きたかったのはまさにその「法廷」の役割であろう。
民主主義が成立するためには単に投票のみが行われればいいのではない。三権分立、普遍的人権、そして法の下の平等、それがもたらす正義があって初めて民主主義が成立する。その点で本作のテーマは民主主義の基本となる価値観を再確認しようとしたものだといえよう。

この物語のみを取り出せばアメリカに法の下の平等があったかのように見える。しかし現実の歴史においてはこの約三十年後に(この作品の中で多くの人が怖れていた)南北戦争が起こり、一応は奴隷は解放されるものの政治的平等には程遠い結果に終わり、公民権法が成立するまでにはさらにおよそ百年の時を要するのである。こう考えるとこの作品は、アメリカの歴史の暗部を隠蔽するものにもなりかねない。


奴隷たちのリーダーであるシンケはある場面でこう語る。

「味方がいます/祖先のことです/過去に呼びかけます/この世の始まった過去に……/そして祖先に助けを――/求めます/彼らの力をもらいます/彼らは来ます/今の私のために彼らは存在したのです」

この物語において、アメリカ人がこの言葉を反復している。
弁護士のボールドウィンは不動産などの所有権が専門で、この件もあくまでプラグマティックに勝つことのみを目的としていた。しかし次第に理想に目覚め始め、強迫に屈せず、依頼人を失おうとも奴隷たちをアフリカに帰すために戦うようになる(当然ここにアメリカそれ自体の姿も重ねられている)。彼を助けるのが「建国の父たち」の一員で大統領でもあったジョン・アダムズの息子で、自身も元大統領にして下院議員のジョン・クインシー・アダムズである。元大統領のアダムズは、スペインとの外交問題に発展することや内戦の勃発に怯え裁判に介入してくる現大統領のビューレンと戦うのである。

文字通りに「建国の父たち」の息子である老いたアダムズが、若き弁護士のボールドウィンと共に過去に呼びかけ、彼ら(建国の父たち)から力を得て、正義を、アメリカに民主主義を、奴隷たちに自由をもたらすために戦う。


もっともこの「物語」に違和感を憶える人も多いだろう。「建国の父たち」はそんなに立派だったのだろうか。その理想主義的内容が世界中に影響を与えた独立宣言の起草者であるジェファーソンは奴隷所有者で、さらには奴隷女性との間に子どもを設けていた。これをもとにスティーヴ・エリクソンは『Xのアーチ』という小説を書いている。この作品を絶賛したトマス・ピンチョンは『メイスン&ディクスン』にて独立前のアメリカを舞台に、後に「建国の父たち」となる人物を陰険な姿で描いている。

アメリカは若い国であり、それだけに「神話」の創作過程が歴史によって検証される。「建国の父たち」の理想化はまさに「神話」の「捏造」であり、エリクソンやピンチョンの作品はその欺瞞を暴き、アメリカの「原罪」とでもいうべきものを直視するものである。
このような立場をふまえるとスピルバーグらの立場はなんともヌルい。ヌルいどころか「神話の捏造」に加担するものですらあるようにも映りかねない。

ではここでスピルバーグらが目指したものとは一体なんであったのだろうか。
アダムズは序盤、奴隷たちの弁護を頼まれるがはぐらかしてしまう。その彼が中盤で弁護団にアドバイスを与える。それは「物語」が必要だということだ。「法廷ではよい物語を語る者が勝つ」と。

この作品にはキリスト教の宣教師が奴隷貿易に協力しているも同然のカットが短く差し込まれている。そしてキリスト教の教えに基づいて奴隷廃止論者となったある人物は、奴隷制の廃止は求めても奴隷その人を一人の人間としては見ていないことが暴露される。キリスト教徒によってアフリカから連れ去られた奴隷が聖書の教えを理解し始めるというのはグロテスクなことでもある。

「神話」は権力が自らの正当性を誇示するために作られる「物語」である。キリスト教に限らず、宗教一般も一種の「物語」であるといえよう。その「物語」は暴力的に人々を抑圧し、苦しめる元にもなりうる(奴隷制や人種差別は聖書を根拠に正当化された歴史を持つ)。ではそのような「物語」に対抗できるものは何か、それもまた「物語」であろう。人間は良かれ悪しかれ「物語」を必要とするのである。悪辣な「物語」に対抗するためには、単にそれを批判するだけではなく、肯定的な「物語」を掲げなければならない。まさにそのような肯定的な「物語」として、民主主義の基本原理を確認し、「建国の父たち」を讃えるこの作品は作られたのだろう。

もちろんこのような立場を批判することはできるし、僕自身もそこに危うさというものを感じないではない。しかしまた民主主義という脆弱にして矛盾を孕んだシステムをどう擁護し、理想に近づけていくのかということを考えると、このような立場を一概に否定することもまたできないのではないかという気分に最近はよりなってきてもいる。


昔見たときは少々間延びしてるかなあという印象があったし、改めて見返しても、この作品を映画単体で取り出すともう少しタイトな構成をとってもいいのではないかとも思うのだが、とはいえスピルバーグが『リンカーン』をなぜあのような形で(といってもまだ見ていないんだけど)撮ったのかということを考えるうえでも、『アミスタッド』はふまえておくべき作品であろう。





左翼的見地からアメリカのある種の面を肯定的に評価していこうというローティの『アメリカ 未完のプロジェクト』あたりも似たような立場といえなくもないか。




プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR