『リンカーン』

『リンカーン』




リンカーンといえばなんといってもまず浮かぶのがゲティスバーグ演説であろうが、作中の現在ではこの演説はすでに終えられており、「引用」の形で登場することになる。暗殺という悲劇的最後も直接には描かれない。そしてスピルバーグがリンカーンを撮ると聞いて少なからぬ人が期待したであろう『プライベート・ライアン』ばりの戦争描写も控え目なものとなっている。このようなスペクタクルやカタルシスをあえて避けるかのような作りはもちろん意図的なものであろう。

『リンカーン』は1997年公開の『アミスタッド』と対になっている。『アミスタッド』では、奴隷輸送船で反乱を起こした奴隷たちの処遇を巡っての法廷闘争が延々と描かれる。そして『リンカーン』が描くのは奴隷制を禁止する憲法修正13条をめぐる議会工作である。

『アミスタッド』を見返しての感想にこう書いた。「民主主義が成立するためには単に投票のみが行われればいいのではない。三権分立、普遍的人権、そして法の下の平等、それがもたらす正義があって初めて民主主義が成立する」。
確かに普遍的人権の尊重や法の下の平等は民主主義の基本条件であるが、逆もまた真なりで、民主主義政体においてこれらのみが投票とは無関係に存在することもできない。そして法を作るのは行政府とは分立している立法府である。

議会工作は反対者に手練手管で翻意を迫るのみではない。ここではリンカーン側が「現実」を前に理想主義者をいかに妥協させるかが大きなポイントとなっている。南北戦争が終結すれば多くの人は奴隷制への関心を失う。そうなれば奴隷解放宣言も有名無実化されてしまう。戦争終結前に安全弁として憲法修正を果たさなければならない。しかしそのためには理想を捨て、妥協に走らなければならない。

理想主義者は美しい。そして「現実」を口実に妥協を厭わない政治家は醜悪な存在とされがちである。しかし理想を掲げ続けたがゆえに「現実」を一歩も前に進めることができずに終わるのと、妥協をしようとも少しでも「現実」を変えるのとではどちらがよりマシな選択であるのかを比較すると考えこまざるをえない。

『アミスタッド』がそうであったように、『リンカーン』も民主主義を擁護したものだといえよう。しかしそこに描かれているのは対照的な光景である。『アミスタッド』ではプラグマティストが理想へと目覚め、法の下での平等により正義が実現する。『リンカーン』では理想主義者がプラグマティスティックに振る舞わなければならず(現実のリンカーンが人種問題において本当に「理想主義者」であったのかはここでは置いておく)、そしてリンカーンの暗殺によって暗示されるように、アメリカにおける人種問題は解決とは程遠いままとなってしまう。
考えようによっては、リンカーンがここで妥協的に振る舞ったことが人種問題の解決を遠のかせたとすることもできるだろう。しかしもしあれだけの犠牲を払った南北戦争で奴隷制の廃止が実現しなかったとすれば、「アメリカの理想」はさらに深い傷を負ったことになったとすることもできる。

民主主義は不完全で危ういシステムである。リンカーンの取った行動には民主主義の原則を踏み越えかねない部分もなかったわけではないが、それでも民主主義の側に留まり続けた。「独裁者」という批判も浴びたが、独裁者であれば話は簡単であった。あくまで民主主義の側に踏みとどまりつつ、この危ういシステムを御し、「理想」に近づけるために「現実」を少しでも前進させるにはマキャヴェリ的「老獪」さが必要とされる時があることも否定できまい。

不適切を承知でこんな例をあげてみよう。
実態はともかく一般的には若き理想主義者とされがちなケネディ兄弟をヒーローとするのはたやすい。一方で公民権法を通したリンドン・ジョンソンは議会工作に長けた腹芸の得意な「ワシントン」にどっぷり浸かった政治家であった。確かにジョンソンはヴェトナム戦争を泥沼化させた張本人である。しかし、もしジョンソンが副大統領に起用されず、ジョン・F・ケネディ暗殺後に大統領になっていなければ、あの機会に本当に公民権法を成立させることができたのであろうかということを考えてみたらどうだろうか。もっともこのような問いを立てること自体が理想主義者にとっては耐えられないことであろうし、個人的にもあまりそうは考えたくはないのであるが。


と、このように民主主義とは、アメリカとは何かといった部分にばかりに目が行きがちになってしまうのだが、さて、では映画としてはどうだったのだろうか。
豪華な俳優陣の演技合戦も見所であるし、撮影監督のヤヌス・カミンスキーも本領を十分に発揮できた作品であったのだろうとも思う。採決の結果を待っていたリンカーンと溺愛している息子のタッドが部屋に差し込む陽光の中カーテンに包まれるところは近年のスピルバーグ作品の中でも一番好きなシーンであった。

ということで基本的には素晴らしい作品だと思うのだが、「惜しい」という気持ちにならなくもない。
箴言めいたことをしばし口にするリンカーンは政治家というよりは宗教的指導者のようにも見えてくる。このようなカリスマ性を持っているからこそあのような議会工作が可能であったとすることもできるだろうし、またドロドロとした政界の内幕との対比ともなっている。そしてリンカーン夫妻の息子を失った悲しみ、それゆえに息子を兵役に就かせたくない母親と末の息子を溺愛する夫という人間ドラマも描かれている。とりわけリンカーンの妻は伝記ではいい描かれ方がされることがあまりないようにも思うが、この作品ではむしろ彼女に感情移入してしまうという人もいることだろう。
ただこのような要素を詰め込んだ結果としてやや焦点がブレてしまったのではないかという印象もなきにしもあらずでもある。

「政治家リンカーン」を描きたかったのか「人間リンカーン」を描きたかったのかといえば、両方だということなのだろうが、これは少し欲張りすぎかなあという気にならなくもない。とりわけゲティスバーグ演説等を劇的に描くのをあえて避けたことを合わせるとなおさらである。
『アミスタッド』よりは「洗練」されてはいたとは思うが、ここらへんは覚悟を決めてスパっといってしまうというのも一つの手ではあったのではないかという気もしてしまうのだが、逆にこのようなある種の「野暮ったさ」こそがスピルバーグらしさといえばそれもまたそうなのかなあとも思う。スピルバーグというと「ハリウッド」を象徴する監督と思っている人もいるかもしれないが、むしろそこから微妙にズレたところにある監督なのですよね。

ここらへんはアカデミー賞を争ったベン・アフレック監督の『アルゴ』が、センシティブなはずの元のエピソードを、政治的バランスを切り捨てて「王道」のハリウッド娯楽作品に徹した姿と比べてみるといいだろう。政治的には圧倒的にスピルバーグが「正しい」のであるが、映画としてどちらがいいのかというとこれも難しい話ではあるのですが。





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