『稲の大東亜共栄圏』

藤原辰史著 『稲の大東亜共栄圏』





現在でも米は、稲作は日本(人)にとって特別なものだ、そのように思っている日本人は多くいるであろう。このような意識は日本は特別な国だ、日本人は特別な民族だという自民族中心主義に容易に結びつくことはすぐに想像がつく。しかもそれが、日本が膨張主義のど真ん中にあった時代であればなおさらであろう。

「収穫皆無のために小学校の児童は学校を休んで根餅(草の根)を堀りに山へ出かける」「義務教育を終へてやつと一五、六になると雀の涙ほどの前借金で丁稚とか酌婦に売出される」、これは「凶作地帯を行く」と題されて1934年の秋田の新聞に載った記事である。
そんな中救世主ともいえる品種となったのが耐冷性に優れた<陸羽一三二号>であった。その開発者であった寺尾博は、農林省農事試験場場長となっていた1942年にこんな発言をしている。「稲は大東亜共栄圏を特色付け」「東亜諸民族のホームであるこの地域は稲のホームである」「我国に於いては稲も亦大和民族なり」(p.7)。

このような発言をしていたのは無論寺田のみではない。
「内地」の食料不足解消のために朝鮮半島、台湾などへの日本の稲作技術の伝播や日本で品種改良された稲の拡大を行おうとする。そこには当然ながらその地域の環境に適応した農業を営んできた地元農民との軋轢が生じることになり、その結果としてまた農学者たちは自民族中心主義的視線を強化させていった。

永井荷風の弟である永井威三郎もその一人である。永井が1926年に刊行した『日本稲作講義』は宮沢賢治も愛読したという「当時の農学の基本書」であった。永井はその後朝鮮総督府で「朝鮮に適した新品種の育成とその指導」が期待されたが、これには華々しい成果を残すことはできなかった。永井が一般にその名をはせるのは、戦時中に食料問題の一般向けの啓蒙書を出してのことである。
永井の言葉がいくつか引用されている。「日本民族の発展する処、この日本の稲は必ず増殖される。朝鮮には在来種が既に同一型であるから、日韓は稲米から既に併合すべきであった」と「日韓併合」を正当化する一方、「大和民族は選ばれた民族である」と「無邪気な選民思想」も振りまく。そして「大東亜戦争」は「米食民族」対「パン食民族」とする図式を少年少女向け向けの本で語っている(p.100)。

その永井は戦後の1946年には一転してこう述べている。
「この日本稲の特徴は、日本人の性格にも類似が見出されるのではあるまいか。(中略)日本人は敏感である。もう少しあせらずに、自然のままにその特性の円熟を待つてゐたならば、もつと多くの実を結んだかも知れぬ。日本人が作り上げ得る文化の収穫も、日本人の「感光性」が「短日操作」によつて促進させられて、遂に一頓挫を来たしたのでは無かつたろうか」。
「倒れにくい日本稲に自民族の誇りを重ね合わせた永井が、戦後は、同じような育種技師のレトリックで日本人の拙速さ(「短日操作」)を悔やんでいる」のである(p.110)。


本書は農業史としても読めるが、もう一つの特徴が膨張主義下やさらには戦後の日本の農学者を「「緑の革命」の前史」として考察していることである。

多国籍バイオ企業の代表格であるモンサント社は「次世代の種子を植えても育たない「自殺する種子」の開発、モンサント社の種子が自生した農場相手に訴訟を起こしたカナダのシュマイザー事件、自社製の種子を登録せずに使用しているかどうかを調べる「モンサント警察」の存在、自社製の除草剤ラウンドアップに耐性を有する種子の販売」などを行っているが、「日本は、一部の熱心な批判者を除いて、驚くほど無関心である」(p.3)。

ロックフェラー財団やビル・ゲイツ財団を受けて、「バイオ企業が自社やその関連企業に都合の良い情報を組み込んだ種子を世界各地の農地に播く」(p.4)という状況は最近になって始まったのではない。
1960年代に起こった「緑の革命」は確かに「開発途上国の、単位面積あたりの農業生産力を飛躍的に増大させ、低所得者に現金収入をもたらし、彼らの生活水準を上昇させた」のではあるが、「一方で緑の革命は、新種子に必要な肥料・農薬・水への依存度を高めた。この依存構造から抜け出すことは、薬物依存と同じほど困難である」(p.145)という負の側面もあったのである。これらを押し進めたバイオ企業はロックフェラー財団やフォード財団から莫大な資金援助を受けていた。

磯永吉は戦時中は台湾で蓬來米の普及に力を注いだ。磯は戦後、杉山龍丸と共にインドで蓬來米の普及に取組んだがその試みは失敗に終わった。杉山はインドでは砂漠の緑化に尽力し、「グリーン・ファーザー」と呼ばれているそうである。この杉山の父は夢野久作、つまり祖父は玄洋社の杉山茂丸である。「蓬來米は、大日本帝国によるアジア諸国の軍事的な征服とは異なる次元で、杉山茂丸や孫文らが抱いた西洋文明からのアジアからの解放という理念と結びついて語らやすい品種とも言えよう」(p.157)。

磯は好人物と評判であったが、また同時にデータの恣意的な解釈も厭わないという面もあった。「蓬來米と磯永吉を、「緑の革命」の前史として位置づけることに私が抗えないのは、こうした磯農学の「善意」に固着する「力」への意思ゆえである。この場合の力というのは、軍事力とは異なり、暴力を伴わない。言論の力とは異なり、相手を言葉で説得させるわけでもない。磯永吉の力は科学の力である。この力は、ちょうど緑の革命がそうであったように、収量が増すという現実によって現場を圧倒する。そのあとに生まれる利益を、科学肥料の作り手および売り手たちが吸収していくのである」(pp.141-142)。

後にコシヒカリを生み出すことになる高橋浩之は、「技術が中立であることを前提」とし、戦時中の研究について「自分のやっている仕事が、人を殺すことにまったく関係がないという信念によって、迷うことなく仕事に専念することができました」と述べている。
「育種技術は「人を殺すこととまったく関係がない」。しかしこれは事実ではない。ここで、総力戦耐性は科学も動員するから当然だ、というような還元主義的な議論は無意味であるにしても、育種技術そのものの孕む魅力は、これまで述べてきたように、主体的に帝国支配に関わってきた」(p.161)。


「蓬來米だけではない。<陸羽一三二号>も<銀坊主>も、朝鮮と満州に増収をもたらした。これらは、言わば日本帝国版「緑の革命」を担っていた。もちろん、アメリカが意識的に日本のやり方を真似ようとしたわけではない。だが、ロックフェラー財団やフォード財団の莫大な援助を受け一九六〇年代から本格的に始まる「緑の革命」は、「小帝国」日本のなかにも萌芽があったという世界史の構造の連続性を見逃してはならない。帝国日本が、内地および外地の低開発地域を開発し、内地の化学肥料産業の市場にすべく、現地の矛盾を棚上げし、目に見えるかたちで成果を残す魅力的な品種改良技術を統治の先遣隊として用いた構造は、アメリカが冷戦のなかで世界の低開発地域の共産主義化を防ぐために「緑の革命」を用いた構造と、規模こそ異なるが類似している。アメリカの肥料・農薬・機械などの農業関連産業が、アジア・アフリカ・ラテンアメリカにその市場を開発するあめには、有無を言わさずにその商品を購入させる品種改良技術は、非常に都合がよい科学技術だからである」(pp.170-171)。

ここまで読み進むと、日本におけるモンサント社などのバイオ企業の動向への関心の薄さはまた別の意味をも孕んでいるかのように思えてくる。
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佐藤太郎(仮)

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