『ホームズ翻訳への道  延原謙評伝』

中西裕著 『ホームズ翻訳への道  延原謙評伝』






『Empty Holmes』というシャーロキアンの人が発行している雑誌に1990年から2005年にかけて断続的に連載したものに加筆訂正をした延原謙の評伝。

子ども向けにリライトされたものではないホームズ・シリーズを初めて読んだのは、新潮文庫の延原謙訳だったという人は多いだろう。著者もそうだったようだし僕もそうである。そして今でも延原訳で初めてホームズに触れるという人は多いのかもしれない。
ホームズ・シリーズは、「今日までに翻訳にかかわった人物は相当な数に上る」ものの、「クリスティなどに比べると作品の数がずっと少ないにも関わらず、そのすべてを訳した翻訳家の数はそれほど多くない」(p.1)のだそうだ。
僕はミステリーに詳しいわけではなく、ましてやシャーロキアンなどではないのでその事情は知るよしもないのだが、その理由の一つには延原訳の水準が高かったことにあるのかもしれない。

延原謙は名翻訳家であり、また日本のミステリー史を語るうえで欠かせない人物なのでもあろうが、かといって人口に膾炙するような伝説的な奇人変人エピソードがあるのではなく、また一時は創作に手を染めたとはいえそれも長くは続かなかったため、やはり翻訳家、編集者として「裏方」というイメージが強いのかもしれない。つまり、証言の類が豊富に残されているわけではない。また当人も日記等をつけてはいなかったようなので、その生涯を追うことはかなり難しかったであろう。実際いくつか空白が残されていたり、推測に頼らねばならなかったところもある。


延原の父、馬場種太郎は「同志社を卒業し、キリスト教宣教師として短い一生を終えた」。著者はこの種太郎の生涯にかなり惹かれたようで謙が生まれるまでに結構な紙数を費やしてしまい、謙の養子の展からも苦言を呈されてしまったようだが、種太郎の生涯は同志社時代の「精霊降臨」をめぐる事件や、卒業後に新島襄に推薦されて札幌独立教会の伝道師になるなど確かになかなか面白い。

種太郎は謙が生まれて間もなく亡くなるが、母の竹内文は教育もあり、教師と下宿屋を営みながら謙を育て、とりたてて悲惨な子ども時代ということではなかったようだ(「謙が「延原」性なのは戸籍上養子に入ったため)。
15歳のころに一家で東京に出てきて、謙は早稲田大学で電気工学を学ぶ。卒業後は大阪市電鉄部や逓信省の電気試験所などめまぐるしく職を変わる。どうもサラリーマン生活は性に合わなかったようである。
翻訳業を始めたきっかけについてははっきりとはしないものの、27歳の頃、暇つぶしか英語の勉強のためだかで「四つの署名」と推測されるホームズものを訳し、それを友人が「新青年」編集部、もしくは森下雨村に持ち込んでくれたのがきっかけになったことは確かなようだ。

それまで特別に英語を学んだとかミステリーに通じていたということではなかったようだがセンスがあったのだろう、この翻訳は評価され、そのまま翻訳を数多く手がけることになる。あとの人生をざっと追うと、博文館に入り「新青年」などの編集長を務め、戦中は中国へ渡るなどもしたが、戦後は再び出版業界に戻り、そして翻訳家として生涯を終える。

本書で個人的に一番興味を引かれたのは夫人の克子であった。
克子は勝伸枝というペンネームで創作活動もしていた。その一つ「墓場の接吻」はこんな感じなのだそうだ。
「主人の死んだことを信じない「私」は、死者が火葬にならずに土葬になるのを幸い、墓穴に新鮮な空気と食物とを送ることを考える。早朝になると、墓から三間ほどの土手から毎日二時間トンネルを掘り進める。こうしてドンネルが完成すると、「私」は主人の好む生物をせっせと運んでいく。この生活がもう半年も続き、「私」はこれ以上の幸福は望んでいない……」(p.135)。

この他にもあらすじが紹介されている「嘘」という作品もなかなか狂気じみていて面白そうだし、またユーモアのある洒落た作品もあるようだ。ちょっと読んでみたくなったのだが、これらを今読むには雑誌のバックナンバーでも漁るしかないようなのが残念。

延原が中国に渡ったと書いたが、時局がら探偵小説に見切りをつけざるを得ず、すでに中国に兄がいたことや岸田國士の勧めもあったようだ。なぜここで岸田國士が出てくるのかというと、克子は岸田國士の妹なのである。つまり岸田今日子は姪にあたり、「岸田家の人たち」として写真も載っている。これは有名な話なのかもしれないが、僕は初めて知ったものでへえっと思ってしまった。

海野十三のデビューのきっかけを作った話なども面白かったが、これを含めて延原に関する話は横溝正史や江戸川乱歩などの書いたものに脇役的に登場するものから再現しなければならないことが多く、ほんとによく資料を見つけてきたものだというものも多かった。


延原謙の伝記が書かれたというのは書誌的にも貴重なものであると思うが、少々複雑な気分にもなった。
本書には小栗虫太郎もちょろっと登場する。昭和13年に「JOAK」で放送されたというホームズのパロディの文士劇は、ホームズ役を乱歩が努め、延原謙、勝伸枝夫妻も出演したのだとか。そして作者の小栗虫太郎も牧師を演じたそうだ(テープなどが残っていたら超貴重なのに!)。
僕が不勉強なだけかもしれないけれど小栗虫太郎の本格的な伝記って書かれていないのではないだろうか。かなり興味深い人だと思うし、日本のミステリー史に残る人であることに異論はないだろうし。そういう人の伝記がないというのはまずいような気がするのだが、ミステリー・ファンからするとどうなのだろうか。



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