寺田寅彦の映画論

寺田寅彦全集第八巻には寺田の絵画論と共に映画論、映画批評が収められている。面白かったところをいくつか書き出してみる。


まずは『思想』(昭和五年九月)、「映画時代」から。

本当を云えば映画では筋は少しも重要なものでない。人々が見ているものは実は筋でなくしてシーンであり、あるいはむしろシーンからシーンへの推移の呼吸である。この事を多くの観客は自覚しないで、そうしてただつまらない話のつながりをたどることの興味に浸っているように思っているのではあるまいか。アメリカ喜劇のナンセンスが大衆に受ける一つの理由は、つまりここにあるのではないか、有名な小説や劇を仕組んだものが案外に失敗しがちな理由も一つはここにあるのではないかと思う。/連句には普通の言葉で云い表せるような筋は通っていないが、音楽的にはちゃんと筋道が通っており、三十六句は渾然たる楽章を成している。そういう意味での筋の通った連句的な映画を見せてくれれる人はないかと思うのである。 (pp.122-123)


「筋は少しも重要ではない」というのは寺田の映画論の一つの核とも言えるものだろう。
同じく「映画時代」にはこんな部分も。

未来の映画のテクニックはどう進歩するか。次に来るものは立体映画であろうか。これも単に双眼的効果によるものでなく、実際に立体的の映像を作ることも必ずしも不可能とは思われない。しかしそれが出来たとしたところでどれだけの手柄になるかは疑わしい。映画の進歩はやはり無色平面な有声映画の純化の方向にのみ存するのではないかと思われる。それには映画は舞台演劇の複製という不純分子を漸次に排除して影と声との交響楽か連句のようなものになって行くべきではないかと思われるのである。 (pp.126-127)


昭和五年に3D映画を予言していた人ってどれくらいいたのだろうか。寺田は「立体映画」には懐疑的であるようだが、このあたりは3Dを実際に目にしている僕としても同意見である。


『日本放送協会調査時報』(昭和六年十二月)、「ラジオ・モンタージュ」から。

例えば昔からある絵巻物というものが今の映画、しかもいわゆるモンタージュ映画の先駆のようにも見られる。またいわゆる俳諧連句と称するものが、このモンタージュの芸術を極度に進歩させたものであるとも考えられるのである。そうしてまたこのモンテーという言葉自身が暗示するように、例えば日本の生花の芸術やまた造庭の芸術でも、やはり色々のものを取り合わせ、附け合せ、モンタージュを行って、そうしてそこに新しい世界を創造するのであって、その芸術の技法には相生相剋の配合も、テーゼ、アンチテーゼの綜合も勿論暗黙の間に諒解されているが、ただそれらが何ら哲学的な述語で記述されてはいないのである。/ところが面白いことには、日本ではエイゼンシュテインが神様のように持て囃されている最中に、当のエイゼンシュテイン自身が、日本の伝統的文化は皆モンタージュ的であるが、ただ日本映画だけがそうではないと云ったという話が伝えられて来た。 (pp.135-136)


エイゼンシュテインに代表されるモンタージュ理論を絵巻物や俳諧連句に重ねているが、寺田はモンタージュ理論の文献(未邦訳の欧語文献も含む)も相当に読み込んでいたようである。


こちらは『思想』(昭和七年)、「映画の世界像」。

時が逆行しても本質的に変わらないものは、完全な週期的運動だけである。しかしそんなものは実際の世界にはどこにもない。如何なる振子の運動でも若干のエネルギーの消耗がある限りその運動は必ず減衰して行くはずである。それが時を逆転した映画の世界では反対に、静止した振子がだんだん揺れ出し次第に増幅するのである。もっと一般に云えば、宇宙のエントロピーが次第に減少し、世界は平等から差別へ、涅槃から煩悩へとこの世は進展するのである。これは実に驚くべき大事件でなければならない。もっと言葉を変えて云えば、すべての事柄は、現世での確率の大きいと思われる方から確率の僅少な方へと進行するから不思議でないわけにはゆかないのである。 (pp.149-150)


「時間」と振子のエネルギーなどは物理学者の映画評の面目躍如という感じだが、さらにはここでエントロピーにまで言及している! 熱力学そのものは物理学者には常識的知識であったのだろうが、ピンチョンがその名もずばり「エントロピー」という短編を書くのが1960年、文学批評など人文学でエントロピー概念が持て囃されるようになるのもこの前後あたりからだったと思うのだが(間違ってるかもしれないけど)、寺田のエントロピーへの言及は当時どう受け止められたのだろう。


そして「映画の世界像」を元に英語の論文、 Scientia, (Jan. 1933.) 'IMAGE OF PHYSICAL WORLD IN CINEMATOGRAPHY'では……

For example, a uniform mixture of rice and wheat contained in a vessel is seen gradually separating out into two neatly distinct layer of the two kinds of grains under the mysterious influence of a hand immersed and moving in the mass of mixed grains. This hand, or rather the assistant movie man at the projector, is playing the role of the famous demon once evoked by James Clerk Maxwell.
(pp. 283-284)


「マックスウェルの悪魔」も登場! 寺田がもしピンチョンを読んだらどんな感想を持ったのだろう。それどころか、漱石がピンチョンを読むとすれば当然寺田にあれこれ尋ねたことだろうなあ……という妄想はいくらなんでも無理があるが、寺田のような人は五十年遅く生まれていたらさらに文名高くあったのかもしれない。まあそうであったら漱石とは出会えなかったのだから、やはりいい時代に生まれたとするべきなのだろうけど。


『セルパン』(昭和十年二月)、「映画批評について」ではこんなことを。

以前は何か一つ好い映画が出ると、その映画の批評について自分見解だけが正しくて他の人の批評は皆間違っているかのように大そうな見幕で他の批評家の批評をけなしつけ、こき下ろすという風の人もあったものである。(中略)今はそんな人もいないであろうが、しかしよく考えてみると、こうした気分は実を云うとあらゆる芸術批評家の腹の底のどこかにややもすると巣くいたがる寄生虫のようなものである。そうして、どういう訳か、これは特に映画批評家という人達のとかくすると罹りやすい病気のように思われる。これは、映画がまだ芸術として若い芸術であるという事が一つ、それから映画の成立に色々なテクニカルな要項が附帯しているために、それに関する知識の程度によって批評家の種類と段階の差別が多様になるという事がもう一つの原因になるのではないかという気がするのである。 (p.346)

百年後に読む人にも面白くて有益なような映画評をかくということはなかなか容易な仕事ではないのである。/こんなことを考えていると映画の批評などを書くということが世にも果敢ないつまらない仕事のように思われて来る。しかしまた考え直してみると自分などの毎日のすべての仕事が結局みんな同じような果敢ないものになってしまうのである。/しかし、こういうことを自覚した上で批評するのと、自覚しないで批評するのとではやはり事柄に相違がありはしないか。この点についても世の映画批評家の教えを受けたいと思っている次第である。 (p.347)


具体的な作品に対する映画評に関してはいかんせんその作品のほぼ全てが未見なでけでなく聞いたことすらないようなものが多い有様で、映画評論家寺田寅彦についてはどうこう言えないのだけれど、映画理論家寺田寅彦は今読んでもいろいろと興味深いところが多いかもしれない。



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佐藤太郎(仮)

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