「ユリイカ」山口昌男特集

「ユリイカ」6月号の、先日亡くなった山口昌男特集をパラパラと。





山本貴光による「山口昌男主要著作目録+重要著作解題」に『本の神話学』について「山口ワールドへの(……)入門に最適の一冊」とあるが、僕が初めて読んだ山口の本もこれだったような気がする。




中沢新一との対談で高山宏はこう言っている。
「高山 (……)これは半分皮肉にも聞こえるけど、実際彼はそういう啓蒙のレベルをものすごく意識していた。たとえば『本の神話学』の最後の文献目録なんて読書案内以外のなにものでもないんだから」(p.63)。
こういった意図を持った文献目録のある本というのは僕も大好きで、これを手がかりにいろいろと本を読み進めていくのは楽しい。とはいえあまりにも充実していると、僕のような怠惰な読者は途中で「もうこのへんでいいか」ということになりがちなのだけれど。

それにしても『本の神話学』(やその他の書評などが収録されている本)を読んでまず思ってしまうのが、「この人どうやってこんなに本読んでいるの?」というしょうもないことでもある。これが例えば浅田彰のような人であれば、すさまじく本を読んでいるということでも、「すごいなあ」とは思っても「いったいどうやって」というような不思議だという感じはしないだろう。山口はアフリカ等でフィールドワークを重ね、海外の大学で教鞭を取りつつ日本語英語仏語など様々な言語の多彩な本を読みまくる。


菅啓次郎は「そこにすわれ、本を読め」で、「知人から聞いた又聞きの話だが」と断りつつこう書いている。
「山口先生の場合、木陰に腰をおろし、あるいはハンモックを吊るして、いつも本ばかり読んでいる。それを地元の人たちもそのままに受け入れ、あいつは変わったやつだけれどもおもしろいと好感を持って見ているという。この話が本当かどうかは知らないけれど、それは光景として目に浮かぶようで、しかも好ましい」(p.148)。

こんな感じでフィールドワーク中も読書を重ねていたのだろうか。


今福龍太の「素描精神の鉱脈」では、山口の「アフリカでの初期フィールドワークにおける似顔絵の効用を山口はこんな風に語った」という話が引かれている。
「ザラ紙にパーっと描くでしょ。それから何も言わずに描かれた長老に見せると、みんな一回笑う。これで敵意はおしまい。一度笑うと、もう敵意はみせられない。手に芸を持っている奴は悪い奴じゃないということなんですね。芸は身を助けるじゃないが、スケッチすることで、ぼくは大分助けられた。土地の人間と仲良くなる早道だった」(p.114)。

山口の文化人類学の本は自身の手によるイラストも魅力的である。確かなデッサン力がありつつも単に写実的なだけではなく、暖かさをや親しみやすさといったものも感じさせてくれるテイストの絵である。今福は大型のスケッチブックに山口が書き残していた自筆年譜から始めて、「素描家」としての山口昌男の姿を描いている。この自筆年譜によると山口は東大在学中の1954年に「東大学生新聞に政治漫画」が二回掲載」されたそうだが、これは残念ながら発見されていないようだ。

今福は『山口昌男著作集3』から川本三郎のこんな回想を引用している。
「この先生は、はじめから少し、いや、だいぶ変わっていた。授業の時に、黒板いっぱいを使って漫画を描く。手塚治虫ばりに、縄文人や弥生人の絵を描く。もちろん想像の絵だが、教科書からどんどん離れていってしまうその自由さが、中学生には物珍しく面白かった」(p.113)。

川本が「先生」と書いているのは、山口が大学卒業後に麻布学園で二年間日本史の教鞭を取り、その時の教え子であったからだ。ちなみに当時の教え子には山下洋輔などもいる。さらにちなみにの話では、河村伸秀による「山口昌男略年譜」によると、1982年には山口は筒井康隆と共に山下洋輔トリオのコンサートに出演し、フルートを吹いたそうである。


大澤聡の「固有名ネットワーク」の註にはこうある。
「『へるめす』創刊と同じ一九八四年に、ニューアカデミズムを体現する雑誌『GS・たのしい知識』が創刊された(一九八八年に九冊目で終刊)。創刊号に山口昌男は「痴の最前線① ポスト・コゾウ主義の怪」と題した一頁のイラスト記事を寄稿している。浅田彰/蓮実重彦を童謡「牛若丸」の義経/弁慶に見立てた他愛もない替え歌とそのイラストだ。やはり同年、『朝日ジャーナル』五月一一日号の「読書特集 連休だ、本を楽しもう」に寄せた記事「大学の外に「知」の愉しみがある」には、「ニュー・アカデミー・サーカス」と題したイラストを添えている。林達夫の頭上に山口昌男、その上に浅田彰が曲芸的に折り重なる(各者の視線の先にはヘルメスがいる)」(p.211)。

これって見たことないんだけど、見たいような怖いような。「素描精神の鉱脈」には山口があるシンポジウムで参加者の発言のメモとともに発言者の似顔絵をも描いていることに触れ、その図も掲載されている。「学会での、厳密な言葉がたたかわされる現場にいて、山口はノートを言語的概念によって埋め尽くすかわりに、発言者たちの特徴を一瞬にとらえて、お得意の似顔絵やいたずら書きをノートの端々に書き散らすのが常だった」(pp.118-119)そうだが、こういった小学生マインドというか遊び心を自らの関心領域にフィードバックさせるというのは風刺家には欠かせないものであろう。

1999年には山口のスケッチ100点と杉浦日名子らによるインタビューとコメントからなる『踊る大地 フィールドワーク・スケッチ』という本が出版されていたということは不勉強にもこの「著作目録」で知った。そのうちチェックしてみよう。





という感じで『踊る大地』を知らなかったように、僕は必ずしも山口の熱心な読者とまでは言えないわけだけれども、こういうすごい人というのはいつの時代であってもいてほしいものである。
「年譜」によると1973年に「パーティーで偶然ローマン・ヤコブソンと知り合う」とあるんだけど、これって本当に偶然なのだろうかというのは疑わしくも思える。本当に偶然なのだとしたらこれはすごいし、ヤコブソンと知り合いにになりたくて偶然を装って近づいたのだとしてもこれもやはりすごい。こういう性格というのは先天的なものなのか後天的に獲得可能なものなのかはわからないが、超人見知りにして超出不精の僕には文化人類学という学問ジャンル同様に縁遠い話であり、それだけにこういう人はうらやましいという思いはまるでなくって、すごいなあというところで止まってしまう。

もう一度中沢高山対談に戻ると、中沢は山口が「自分のなかに少しでも嫉妬心が湧くとそれをそのまま相手にぶつけるし、怒りが湧けばそれをぶつける」と言っている。そして「柳田に弟子なし」という山口の言葉にふれ、「柳田には弟子なんかいないんだと、弟子というのは先生に激しい嫉妬心を持ち、先生も弟子に嫉妬してときにはいじめたりしながら、切磋琢磨してやっていくのが師弟関係なのに、柳田にはそんなのいないじゃないかと」としている(p.58)。

「年譜」によれば1972年には「高等研究院でのレヴィ=ストロースのゼミで「ジュクン族の王権と二元的世界観」を発表。このときの出席者にはド・コッペ、モーリス・ゴドリエ、ピエール・ブルデューなどがいた」とあるんだけど、こんな経験してる人に嫉妬心なんてかきたてられないわいというのが普通の反応だろうけど。
最後にやはりこの対談から。

中沢 あんな豊穣な日本人はかつてなかったし、これからもないでしょう。
高山 回りもそれを許していたし、時代がよかったんだろうな。心から本当にハッピーなひとだったと思うね。彼の存在は天啓、天の恵みですよ。戦争や世界、知識人との関係から言ってもちょとしたエアポケットに幼な神が入ってしまった奇跡的な四〇年だよ。本当に珍らかなひとというか、珍らかな風景を見せてもらったなあ。いいアートを堪能できたって感じだよ。
 (p.67)


確かにあと10年、いや5年早く生まれていても戦争に行っていた可能性があったわけだし、10年遅く生まれていたら大学界隈がさらに世知辛くなっていくのを体験しなくてはならなかった。若き日にネットで簡単に洋書や古書が買い漁れる時代を迎えていたら、それで幸せだったのだろうかと考えるとこれも否定的にならざるをえないだろう。やはりあの時代だったからこそ山口昌男は山口昌男でいることができたのだろう。

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佐藤太郎(仮)

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