『野生の探偵たち』

ロベルト・ボラーニョ著 『野生の探偵たち』




マルカム・ラウリーの『火山の下』からエピグラフが引かれている。確かにメキシコという作品舞台以外にも様々な視点からある出来事を描いた『火山の下』と本書は重なるところは大きい。しかしこの作品におけるそれはより過剰なものとなっている。
文学青年ガルシア=マデーロの日記であるⅠとⅢに挟まれるⅡには、50人以上の証言者が登場する。それも一篇の短編小説として成立しそうなものから短く漠然としたものまで様々だ。テクストを引用の織物と考えるのは最早文学を語るうえで避けられないものであるが、この作品はそれを徹底させた構成となっている。

Ⅰにおける妄想的と思えなくもないガルシア=マデーロの日記からして誰か(作者)が引用しているものと考えられる。
この作品の「主人公」は誰なのかといえば、あえていえばアルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマの二人になるのだろう。しかしこの二人の内面が一人称やそれに近い形で語られることはない。メキシコを飛び出してヨーロッパ、アメリカ。中東、そしてアフリカにまで渡って繰り広げられる二人の足取りを、時間を行きつ戻りつしながら描かれる様は、多種多様な証言がある出来事を多角的に光をあて浮かび上がらせるというよりは、いくつもの並行世界があるような気にもなってくる。このあたりは「引用」というものに宿命的にはらまれる不安や不安定さを表しているようにも思える。

しかし次第に二人がなぜ1975年の大晦日に北へ向けて出発したのかが明らかになってきて、Ⅲで再び登場するガルシア=マデーロの日記においてその経過が語られる。
このあたりの展開はラウリーの『火山の下』と比べると「わかりやすい」ものになっている。しかしそもそも「日記」にしろ「証言」にしろ、その信用性を担保するものはなんであろうか。こう考えるとこの「わかりやすさ」を素直に受け止めていいものだろうか。

「「話をしている八人のメキシコ人」とリマが言った。/「八人のメイキシコ人が寝てるんだ」とルペが言った。/「八人のメキシコ人が見えない闘鶏を見物しているのかも」と僕は言った」。
この場面はすごく好きなのだけれど、この作品全体を現す場面といえるのかもしれない。

「わかりやすい」と書いてしまったが、この作品を本当に「わかる」のは難しい。登場人物からしばし否定的に言及されるオクタビオ・パスが1970年代半ば(あるいは90年代)のメキシコなどでどういう扱いを受けていたのか、そして彼を肯定/否定するということがどのような属性を帯びるのかというのはメキシコ文化史に通じていない人にはよくわからないだろうし(従って僕にはよくわからない)、厖大な証言者たちは虚実入り混じっているのだろうが、ここらへんもわかる人が読めば思わずにやりとしてしまうような仕掛けも施されていることだろう。こういう種類の小説を読むたびに詳註版も出してほしいと思うのだが、この作品なども強くそういう気にさせられる。

しかしそういった知識の多寡によって読者を選別するようなものではなく、小説を読むということの快楽を十分に味あわせてくれ作品である。




プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR