『セックスとナチズムの記憶』

ダグマー・ヘルツォーク著 『セックスとナチズムの記憶  20世紀ドイツにおける性の政治化』





原題はSex after fascism。邦題と合わせたタイトルからも想像がつくように、本書は性を中心にナチズムがいかに記憶されたのか、そしてその「記憶」こそがまさに政治的闘争の産物であることを明らかにしている。もちろんこれは現在でも、そして将来に渡っても進行形のものとなろう。

ドイツと日本との戦争責任や戦後処理の問題については、しばし「ドイツは反省しているが日本は……」といった単純化した比較がなされる。しかしドイツにおいてもナチズムとはいったいなんであったのかについては、一本の道を辿ってきての一枚岩の意見であったことはなく、揺れ動き続けている。言うまでも無くだからといって日本が免罪されるということではなく、日本人としてはむしろドイツですらこのような状況であった/あるということをより深刻に受け止める必要があろう。
またそれだけではなく、戦後(西)ドイツの歩みの中には、現在の日本の政治・社会状況と重なる部分も少なからずあったことが突きつけられる。そういった点でも本書は現在の日本でこそ読まれるべき点が多いといえるのかもしれない。


ナチスを近代ヨーロッパやドイツこそが生み出したものだという評価をする人もいれば、あれはヨーロッパやドイツの伝統からの逸脱だったのだという評価をする人もいる。一般論としては、伝統主義や保守主義に批判的な人は前者の評価に傾きがちであり、逆に伝統や保守を積極的に評価する立場の人は後者に傾きがちとなる。ナチスを批判するといっても、評価をする人の政治的、社会的立場によって根本的にその認識が対立してしまうこともままある。ましてやこれが「性」がからむとすればどうであろうか。


第1章や本書の訳者の一人でもある田野大輔の『愛と欲望のナチズム』に描かれているように、ナチスはカマトトぶった性に対する保守的な考えを嘲笑い、性を謳歌させようとしていた。
またナチスは教会をしばし攻撃していたにも関わらず、多くの教会は親ナチ的でもあった。教会の中にはワイマル期の「行き過ぎた自由」をナチスが是正してくれるのではないかという期待を抱いた人々もいたのである(教会が親ナチであった最大の理由はナチスがソ連の防波堤になってくれることを期待したことあろうが、本書ではそのあたりの性に関わらない部分はあまり取り上げられてはいない)。

性の「自由化」はナチスによって始められたのでもなければ終わったのでもなかいことを著者は指摘している。すでに第一次大戦開戦の前からその傾向はドイツに芽生え始めていたのであった。とはいえワイマル期に大きく自由化が進んだこともまた事実である。ワイマル期にはそれまで否定すべきものと考えられていたマスターベーションや避妊を積極的に評価しようという動きが広まった(そのような言論活動をしていた医者や学者にはユダヤ人も多かった)。
このような風潮への反発として、1920年代にはすでに「好色なユダヤ人がブロンド女性を狙っている」といったイメージを広めようとする雑誌が存在していた。1921年に出版された『血に対する罪』というベストセラー小説には、「ユダヤ人の一滴の精液ですらドイツ女性を永久に汚染する」という主張も含まれていたそうだ。このあたりはアメリカ合衆国における白人(男性)に多く見られた「黒人は白人女性を狙っている」といった類の被害妄想と共通するものがある。
このようにワイマル期には「ユダヤ人をセクシャリティと結びつける連想」がすでに存在していたのである。


ナチスと教会という相矛盾する勢力が結び合っていたのだが、両者を結合させた大きな要因に優生学や人種主義があったのだろう。
ナチスが性の自由を謳歌させたのは、あくまで「健全」な「アーリア人種」限定であった。つまりユダヤ人をはじめとする「非アーリア人種」、同性愛者、障害者らは性の自由からはじき出されるばかりか、収容所送りや「安楽死」の対象とされたことはご存知の通りである。

ヘルベルト・マルクーゼは「ナチズムの傲慢な人種主義が性生活を再組織化しようとする試みといかにわかちがたく結びついていたか、それまで私的な性格の強かった性の領域を政治化することがナチスの政治課題にとっていかに中心的であったか、また性的刺激がいかにして社会操作のメカニズムになりえたのかということを、最初に指摘した人物の一人であった」(p.12)。
アメリカに逃れ米国戦略情報局に勤務していたマルクーゼは、「ナチ文化の効力がとくにタブーの「廃止」と「性生活の解放」にもとづいていたことを明らかにしようとしていた」(p.21)。
マルクーゼはこう分析している。「家族の破壊、家父長制、一夫一婦制の規範に対する攻撃、この種の広く告知された企てはすべて、文明への潜在的な「不満」、その抑制と失敗に対する抗議をもてあそぶものである。彼ら(ナチズム)は「自然」の権利、健全だが卑しめられてきた人間の衝動に訴える。……彼らは「自然なもの」の復興を要求する」のであるが、「この新たな個人の自由はまさにその本質からして排他的な自由であり、健康で是認された者の特権である」(p.21)。

マルクーゼはまたナチズムが「男女の婚外関係」を奨励していることに注目している。「訓練キャンプで少年少女をわざと一緒にすること、人種的エリートに放縦を認めること、結婚と離婚の促進、婚外子の是認」が見られ、「もちろんこれらはすべて帝国の人口政策と適合している」のであった。さらに「その政策のさらに別の側面はずっと見えにくく、ナチ社会の根底にかかわっている」ことにも注意を払っている。「性的タブーの廃止は、こうした欲求充足の領域を公認された政治的領域に変える傾向がある。……個々人は自分の欲求充足を体制への愛国的な奉仕と見なし、それを実行して報酬を受け取るのである」(p.22)。


性の領域に関しては、第三帝国の崩壊によって揺り戻しがすぐに起こったわけではなかった。
1946年に『リーダーズ・ダイジェスト』誌は「なぜこれほど多くの米兵がドイツ人を好むのか」という記事を掲載している。「その答えは簡単」で、「多くの女性がきわめて従順だった」ためである。フランスではセックスの相手となるのはプロの売春婦だけであったのに、ドイツでは「一般女性が思いのまま」であり、「その気のあるドイツ娘たちの海に沈没した」のであった。『リーダーズ・ダイジェスト』誌によるその理由の説明は後の目から見ると疑わしいものであるようだが、しかしそれゆえに1940年代半ばには「第三帝国のセックス奨励的な側面がいかに常識的なものと感じられていたかをも明らかにしている」ものとなっている(p.61)。
「多くのドイツ人――とりわけ女性――は自分たちがみじめであるという評価を受け入れるどころか、戦後を心地よい「性愛の寛容さ」の時代とみなしていた」のであった。
第三帝国時代と戦後との連続性という点では同性愛嫌悪もまた同様であった。戦後間もなくは寛容な時期もあったとはいえ、男性同士の「性交に類する」行為を違法化した「一七五条」はそのまま引き継がれ、1950年にはフランクフルトで大規模な摘発が行われ700人が取り調べを受け140人が訴追され、「この訴訟は多数の懲役刑と少なくとも六人の自殺をもって終わった」(p.83)。


しかし1950年代初めから半ばにかけて、今度は「突如として性的保守主義への転換」が起きる。「性の問題についてリベラルな発言をしていた人々はあっという間に守勢に立たされ、保守政治家や宗教指導者、ジャーナリスト、法律や医学の権威者たちが攻勢に出て、性や家族の関係についての規範的な考えを推進するようになった」(p.93)。そして1952年には、「ポルノ的な画像や文章の展示・販売に対する全国的な検閲法」が成立し、また「同性愛行為で罪に問われた男たちに対しても、戦争直後の少しの間、法の裁きは相対的に寛容で曖昧だったのに、一九五〇年代になると、警察の追及も刑罰の言い渡しも厳しさの度を強めていった」。

保守主義が優勢となったのは政治のみに起こった現象ではなく、「大衆向けメディア」は「性別役割や家族関係、性道徳についての保守的な考え方を作り出すうえで大きな影響があった」。「政治や教会の指導者たちが、女が再び男に従い、子どもたちが年長者に敬意を払うようになることを肯定する演説をおこなったり、大衆雑誌が夫を喜ばせることに無私の喜びを見出す妻を理想化したりしたことも、あいまって効果を発揮した」(p.94)。

ニューレフトの作家で教育学教授のウルフ・プロイス=ラウジッツは1950年代の青少年がどのようなものだったのかをこう振り返っている。「戦後の子どもは、「そんなことはするものではない」というモットーのもとで、禁止と差し止め、正常さという虚構への強迫観念によって包囲されていた。……戦後ドイツの家族(あるいはその残りかす)は同じであること、目立たないことに執着していた」(p.94)。

「戦争の後に成人に達した子どもたちは、この時代の「身体と性への敵意に満ちた、ファシズム以前の「非政治的」価値の復興」にたえず直面していたのである。だが、一九五〇年代の西ドイツの保守主義者たちが回帰しようとした「ファシズム以前」の伝統とは、ワイマルの性的にラディカルな伝統ではなかった。また、第一次大戦前のヴィルヘルム期時代の文化でもなかった。むしろ五〇年代の保守主義者たちは、過去の安全性と安定性についてのある幻想――一度も存在したことはなかったにもかかわらず、時を超えた価値あるものとして表象される幻想――を構築しようとしていたと見る方が、わかりやすいだろう」(p.94)


ありもしなかった理想の過去への回帰願望、このあたりはいつの時代どの国であろうともこういう類の人間はいるものだと嘆息してしまうところでもあるのだが、今の日本でまさに起こっていることではないかと思うとぞっとしてしまうところでもある。

「実際、いかにぞっとする話であろうと、一九五〇年代におこなわれたことは、ナチスによって最初になされ、結局は守られなかった約束を実行することだったのである。ナチスはワイマルが作ったものを昔のとおりに直すと約束したが、実際には彼らはワイマルの流れの主要な要素をさらに発展させ、同時に国家を壊滅的災厄に追い込んだ。戦後のいまこそ、やっと「大掃除」ができるようになったのだ」(p.97)。

保守側の主観としては、ナチスとは堕落したワイマル共和国の延長であり、自分たちがその伝統からの悪しき逸脱を修正していると映っていたのであった。しかも「戦後のキリスト教の代弁者たちが結婚まで男女は純潔を守るのが道徳的義務だと厳しく主張したことは(この点は確かにナチ的規準の明らかに反転だった)、優生学や避妊、中絶、同性愛などの問題をめぐる価値観という面でナチスと戦後キリスト教徒との間に存在した連続性から、巧みに注意をそらせる方向で作用した」(pp.97-98)とあるように、自らの責任を回避することでもあった。

そして1953年には、「青少年有害出版物の流通にかんする法」が成立する。この法案について、当初反対側は楽観視していた。ワイマル期の1926年に成立した反ポルノグラフィ法が古典として認められていた文学作品まで検閲の対象とすることに利用され、ナチス時代にさらに厳しくされた検閲法からも「健全な民族感情」のような「おおざっぱな用語がいかに恐ろしいものであり、濫用の可能性があるかは明らかだと主張」していた。リベラル派は「当初、民主主義社会でそのような検閲が制度化されるとは信じられずにいた」が、結局は「戦争犯罪や人種憎悪を賛美するような」題材も法の対象とするという修正を施しただけで成立してしまうこととなる。この法律がどのように運用されたのかというと、「一九六〇年まで、「戦争を賛美」したとして検閲を受けた本はなかった。代わってこの法はもっぱら、露骨に性的な題材の宣伝と流通を禁止するのに役立った」のであった(p.102)。
「同時代の人々は、法の制定後に、すべてのヌードがどれほど突然に(しかも徹底的に)公共の場から姿を消したことを憶えている」。そして「道徳性についての公的言説が、国家の直近の過去における人種差別と大量虐殺から、現在生じているとされる性的問題の方へと、徐々に、だが効果的に方向転換」を遂げていったのであった(pp.102-103)。

「健全」を旗印にポルノへの過剰な攻撃が発生する社会、このような時代が、とりわけ若者にとっていかに息のつまるようなものであるかは容易に想像できる。そしてその不満は爆発寸前の火山のマグマのように鬱積していっていた。
男性の同性愛を違法のままにしておくという刑法改正案への反論として1963年に『セクシュアリティと犯罪』という論集が編まれる。保守寄りの寄稿者も含まれていたが、20人以上の反対意見が集められ、「とくに台頭しつつあった若い世代のニューレフトの活動家にかなりのインパクトを与え、インスピレーションとなった」(p.126)。

寄稿者の一人であるアドルノは「現代西ドイツの性道徳の自由化を促進するために、ナチズムとその遺産に言及した」。
アドルノは「「親衛隊の繁殖場」や「自らをエリートと宣言した者たちとかりそめの関係を結ぶようにという娘たちへの命令」のように、ナチズムに性を鼓舞する局面があったことを思い出させ」つつも、「だがそれと同時に、第三帝国は「エロティックな自由の王国」ではなかったことも明らかにしている」(p.127)。
アドルノは戦後西ドイツの知識人が性の話題になると腰が引けてしまうことに対し、「性の自由を擁護することをきっぱりと宣言した」のであった。そして「倒錯」や「不自然なもの」に対するタブーが強まっていることにもふれている。
「純粋な生殖」が強調されることによって性が「萎縮し」、「退屈」なものとなってしまうが、そればかりでなく、「こうしたタブーが真に恐ろしいのは、それらが娼婦や同性愛のようなマイノリティに対する敵意をかき立てるやり方である。同じく奇怪だが示唆的でもあるのは、婚外のセクシュアリティに対するタブーは実際には時代遅れになりつつあるにもかかわらず、依然としてこうしたタブーがいつ何時でも動員される可能性があるという事実である。性にかんして保守的で、懲罰による攻撃さえ辞さないというメッセージは、依然として広範な聴衆を獲得している」と警告している。そして「戦後のこの瞬間にも依然としてはびこっている性的タブーは、「ナチズムの大衆的基盤を作り出すのを助けた一連のイデオロギー的、心理的偏見」と同じもので、「まごうことなきその中身は、脱政治化された形でいまも生き続けている」としている(pp.127-128)。


そして西ドイツは短期間のうちにその姿をがらりと変えることになる。
「性革命は一九六〇年代半ばの西ドイツに登場し、六〇年代後半から七〇年代前半にかけて規模と激しさを増していった」。68年までには「西ドイツ国民は、世界中のどこの国民よりも多くの全裸やセミヌード画像を購入していた」のであった。
この過程で、「一九六〇年代前半から半ばまでにリベラル派の知識人やニューレフトの活動家は、第三帝国は性に対して残虐だったばかりでなく、全面的に性を抑圧したという統一見解を新たに作り上げ、それは広く受け入れられて議論の余地のないものになっていった」(p.136)。

「自分たちの反権威主義に権威を与えるため、六八年世代はしばしばフランクフルト学派一般、とくにその指導的メンバーであるテオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーを引き合いに出」すことになる。しかしアドルノやホルクハイマーは、すでに引用したように、「第三帝国の矛盾に満ちた性・家族政治や性的保守主義と政治的保守主義の関係について、非常にニュアンスに富んだ評価がなされていた」のであるが、ニューレフトは「フランクフルト学派の考えを取捨選択して流用していた」。もっとあけすけにいってしまうと、都合よくつまみ食いをしていたのであった。

「たとえばホルクハイマーは、第三帝国は個人と国家の間を媒介する環としての家族をなくそうと務めたことをはっきりと強調し、父親の権威がしだいに弱まっていたところにファシズムがアピールしたと論じていた。しかしニューレフトは、親の心理的権力についての彼の考えだけを引用し、核家族の構造自体がどのように服従を教え込んだか、圧倒的な力を持つ親への憎しみを直接表現することができないために、どのようにそれが抑圧されると同時に、より弱い者たちへの攻撃に向かっていったかについて述べている。また、アドルノらによる『権威主義的パーソナリティ』(一九五〇年)は、政治的には反動的だが性的には積極的な人格という現象が存在しうるとはっきりと述べているが、六八年世代はこの研究のうち、もっぱら性的抑圧とファシズムの可能性とのつながりにかんする部分だけを引用したのである」(pp.153-154)。

精神分析家のゾフネッテ・ベッカーは、西ドイツのニューレフトは「ひたすら善でありたいという圧倒的な願望」を示していると述べいる。
「西ドイツの六八年世代には、殺害されたヨーロッパのユダヤ人に対する強い情緒的な同一化と、この上ない鈍感さという相矛盾するものが、混在していた」のであった(p.170)。
そして子どもたちを徹底した反権威主義によって育てようとする試みは、「ファシズムの過去とホロコーストという事実」ではなく、「たまたまホロコーストを生き延びた一握りの子どもたちは、核家族は不要だと言うためのうってつけの証拠」とされたように、いささかグロテスクな形をとることになる。分析対象となってもいいはずの共産主義コレクティブの実験は無視され、「その子どもたちはうまく生きていけるということについて、道徳的に受け入れられるような証拠を提供できるのは、ニューレフトの親の世代の主たる犠牲者であるユダヤ人だけだった」。そしてここには「無意識の願望」があると、自身もニューレフトであったライムート・ライヒェは指摘している。それは「六八年世代自身の親たちを殺せたら、ということだったからだ」(p.170)。

ニューレフトや六八年世代の、少なくともその一部がフランクフルト学派などをつまみ食いしていたのは、ナチズムの分析や批判のためではなく、50年代の息のつまるような空気を作り出した親たちへの反発であったという面があったことは否定できないであろう。アイヒマンの逮捕、裁判などナチの戦犯に注目が集まるようになると、その反応によって西ドイツに以前として強く反ユダヤ主義がはびこっていることも明らかとなった。「ナチスの蛮行」としてすぐに浮かぶ焚書は保守化の時代にまた行われるようにもなっていた。このあたりも連続性を感じてしまうのもやむをえないところであったのかもしれない。その結果としてニューレフトや六八年世代にはまさにこの親の世代は第三帝国時代を無反省に継続していると映ったのであった。
一方のその親の世代が、ワイマル期の自由主義的雰囲気をナチス時代の放埓さと同一視しようとしていたというのはその裏返しの関係にあるともいえよう。
こうしてある人にとってはナチスとは伝統からの逸脱であるとされ、また別の人にとっては伝統や因習こそが生み出したのだとされることになる。そこには自身の社会に対する感覚も反映されていたのである。


本書はまた東ドイツの戦後の性意識の変遷についても1章が割かれている。
戦後直後のソ連兵によるレイプが多発したことからの中絶の合法化、そして再度の違法化、さらに容認へというように、こちらでも揺れ動き続けた。教会の影響力を排除する一方で性道徳という点で教会の主張に類似する形となったり、ナチスを連想させるような産めよ増やせよ的な方針や、同性愛を病気と考えたり犯罪と結びつけるようなことも行われた。
しかし1960年代半ばには裸での水浴が広まりだし、70年代には湖や海などの浜辺では全裸でいることが当たり前のこととして受け入れられるようになるように、この流れには変化が生じ始めていた。「この行動を阻止しようとした自治当局による初期の試みは、衣服を脱いで動こうとしない毅然とした大衆によって一蹴されてしまった」のであった(p.201)。そして「家で家族全員が裸でいることもまた、とりわけドイツ民主共和国の誕生とともの成長した世代にとっては、ごく普通の振る舞い」となる。
このように東ドイツでは西ドイツはもちろん、他の共産国とも異なる独特の性やジェンダー意識も育まれることとなる。

東ドイツでは1980年代には多くの女性組織が設立させたものの、「自らをフェミニズム的と自任することはまれであった」という。というのも「一九七〇年代に西ドイツのフェミニストたちが闘争を通じて勝ち取らざるをえなかった目標――中絶の権利、保育施設、経済的自立、そして職業上の承認――は、同時代の東ドイツの女性たちにとってはほぼ自明のことであった」のである(p.203)。
「東ドイツでは国家が後押しして、男性は仕事上の上司である女性を敬うべきであり、女性パートナーの手助けをして家事や育児の責任を負うべきであるという主張」までがなされていた(完全に実現されることはなかったようだが)。

そして「恋愛の成就」というファンタジーを社会主義のための活動と結びつけるようなメディア戦略がとられる。これには70年代から80年代にかけてはジークフリート・シュナープルが大きな役割を果たしていた。シュナープルは多くの論文を発表し、彼のアイデアは映画化もされた。夫と妻がオーガズムについて率直に言葉を交わし、妻がそれは滅多にないということを言わずにいたのを夫は残念がり、夫婦は二人に合った体位を試すことになる、といったものだ。シュナープルは「夫婦間セックスでの避妊」や「婚外性交」のみならず、「異性間の性交を伴わない刺激……、同性愛的な関係、マスターベーション等々」を擁護したのであった(p.209)。彼は60年代から70年代初めにかけての「西ドイツのニューレフトやリベラル派ときわめて似通った調子で、キリスト教とナチズムを結びつけた」のであった。

1980年に出版された『私たちの結婚』では、主として男性視点からの女性の性にまつわる数々の「神話」を否定し、「女性のオーガズムを昂進させること」が強調されている。その結果なのか、1988年に行われた東西ドイツの女子学生の性体験の比較調査によると、「(西の学者を驚かせたことに)東ドイツの異性愛の女性たちは西の女性たちよりもセックスが好きである(そしてオーガズムをより頻繁に経験している)ことが明らかとなったのである」(p.212)。

他の東ヨーロッパ文化圏の男性たちの「社会主義的マッチョさ」は悪名高かったが、「東ドイツの男性たちが家庭的であり、強い女性たちと自信を持ってうまくやっていた様子は、どちらも伝説的ですらあった。売買春はワルシャワやブダペストではごく普通だったのに対し、ドイツ民主共和国では比較的まれであった。同性愛の男性はソ連やルーマニアでは共産主義の消滅にいたるまで投獄されていた。こんなことはドイツ民主共和国では一九五七年以降起きてはいなかった。ポーランドの教会は徹底的に同性愛嫌いであったが、ドイツ民主共和国のゲイやレズビアンたちは――もちろんシュタージによって厳重に監視されていたとはいえ――一九八〇年代には教会の庇護のもとで組織を形成することが可能であった。売買春とポルノを拒否した点において、ドイツ民主共和国は西側の規準に照らせばお堅く見えた。しかし性の市場化のこの二つの手段が欠けていたことこそが、他の面での自由を開花させることになった。社会主義統一党が押しつけようとした道徳主義と禁欲主義の基盤が、同じく社会主義統一党が進めようとした世俗化の過程そのものによて掘り崩されたのである。結局のところ、旧東ドイツの人々が必ずしもそれを認識していたとは言えないにせよ、東ドイツについては何かしらのドイツ的なものが存在していた。裸でいることや性的な事柄に対する屈託のない態度は、少なからずワイマル時代やそれ以前にさかのぼる独特の伝統から来ていたのである」(pp.216-217)。

もちろん1950年代から60年代前半にかけては「他の面ではきわめて悲惨な状態にあった」し、社会主義統一党にとっては「厳選された消費物資と管理された自由のレシピが見つかりさえすれば、大衆の支持を得られるのではないかという飽くことのない希望が存在し続けた」ように、東ドイツを理想化すべきでも安易に肯定すべきでもないだろう。「しかし大衆の大多数は、はてしなく語られる社会主義そのもののロマンスを真に受けることはけっしてなかった。そのかわりにやがてオルタジーの対象となたのは、ドイツ民主共和国がそのための重要な前提条件を作り出したとはいえ、結局は人々が自分たち自身で獲得したロマンスであった」(p.217)という、それほど関心の払われてこなかった点には注目できるだろう。


西ドイツではゲイやレズビアン、女性運動がインパクトを与え、性の政治化をもたらした。ニューレフトにすら含まれていた女性蔑視や反ユダヤ主義をさらに問い直す声があがる一方で、「行き過ぎ」に対する反動も生じるようになる。

80年代後半にはユダヤ人の苦難が「大げさに」強調されすぎているといった意見や、作家のマルティン・ヴァルザーの「ドイツ人にはホロコーストが「道徳的こん棒」となっていることにうんざりする権利がある」といった発言が公になされるようになり、また政治家からも挑発的な発言が繰り返されるようになる。
一方でまた1995年には激しい抵抗を押し切って『国防軍の犯罪』という展覧会が開かれた。これは「戦後長く続いてきた国防軍は「清潔な」軍隊という神話を打ち破り、世代間の対話の必要性を生み出した。そしてそこでは、普通の兵士が反パルチザン戦争と大量虐殺のどちらにも関与していたことが認められるようになった」(p.252)。歴史家のハネス・ヘーアは展覧会がもたらしたのは「記憶に対する歴史の勝利」だと言った。これは一般のドイツ人がナチズムの共犯者であったことを隠蔽し、「うまく利用してきた記憶管理のためのさまざまな戦略に対し、一般のドイツ人がホロコーストに関与していたという歴史的j事実がついに取って代わることができたということだった」。

90年代から2000年代前半にかけて、これまで以上に残虐行為などについての「新分野を切り拓く研究が見られた」。しかしまた「新しく明らかにされたことがある一方で、ごまかしのための古いテクニックが新たな装いで登場するのも見られた」のである。

1997年に『シュピーゲル』誌は、「プロのモデルで西ドイツの若い(そして年寄りの)男性たちの欲望の的だったウシー・オーバーマイアーがトップレス姿で、恋人で当時第一コミューンの指導的メンバーの一人として有名だったライナー・ラングハンスと一緒に写っている」、60年代に撮られた写真を掲載した。そこにはある大学教授が別のニューレフトのメンバーについて言った「彼らは全員、強制収容所がふさわしい」という言葉がキャプションとしてつけられていた。一見するとぎょっとするイメージを使い保守派を馬鹿にしているようだが(『シュピーゲル』は60年代にも同様の手法を用いていた)、しかし同時に「元ニューレフトたちに心地よい回想の機会を提供しながらも、彼らをからかいの対象にしてもいたのである」。オーバーマイアーは政治に無関心であることで悪名高く、ただラングハンスと付き合うのを楽しんでいただけであった。しかも彼女がモデルとして稼いでいたお金だけが、第一コミューンの唯一の資金源であったこともあった。つまり当時のニューレフトの理想主義を嘲笑したものともとれるのである。
「この写真が含まれている連載というより広い文脈を見れば、このとげのあるメッセージが意図的なものであったことがわかる。『シュピーゲル』は、一九六〇年代後半には第一コミューンとニューレフト全体に非常に共感していたが、一九九〇年代半ばから後半にかけてネオリベラリズムへと転向し、左翼運動を馬鹿にする機会を逃さずにに利用してきた」(p.260)。

このあたりの著者の分析については様々な評価があろうが、『シュピーゲル』のこの特集に見られるように、過去をノスタルジー化させることによって記憶を脱政治化させ、その実それはきわめて政治的な意図にもとづくものであるというのは、まさにナチズムと性をめぐっての「記憶」をめぐっての戦いとも絡んでくる問題であり、このような歴史と記憶をめぐる戦いはドイツに限らずあらゆる場所で(もちろん日本でも、というより日本でこそまさに)終わることなく常に試みられているのである。


と、長く書いてしまったが、個人的に関心のある領域から、東ドイツの性事情のようにまったく知識の欠けていたことまで扱われており、非常に面白く読めた。とはいえ本書にいくつか不満がないではない。書き手の人はよく「あれが書いていない、これを取り上げていない」といった批判ほどどうでもいいものはないということをよく言うし、僕もそれには同意しないこともないのだが、それを承知のうえであえて一つ。60年代後半にはマルクーゼはカウンターカルチャーの世界的なヒーローとなる一方で、アドルノは授業中にトップレス女性が闖入して妨害を受けるという有名なエピソードもあるように、ニューレフト(の一部?)から敵視されることになる(これは60年安保反対陣営の代表格であった丸山真男が60年代後半の全共闘からは吊るし上げの対象とされたことを想起させる)。このあたりのドイツにおけるニューレフトの知識人への評価の変遷といったものがあったほうがより当時の空気というものを理解しやすくさせてくれたのかもしれない(というかそのあたりは僕がそれなりに興味がありつつもよく知らないということなのですが)。


あと今検索して知ったのですが、2007年にはオーバーマオアーの半生を描いた『愛の涯 私は風になった』という映画が作られていたのですね。あのころのドイツを描いた作品はそれなりにあるが、こちらはどんなものなんでしょう。






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