『神は死んだ』

ロン・カリー・ジュニア著 『神は死んだ』





「神は死んだ」と聞けば反射的にニーチェが思い浮かぶだろう。「訳者あとがき」によれば作者はニーチェよりもドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のこちらも有名な一節、「神がなければすべてが許される」からインスピレーションを得たとしているそうだ。しかしだからといってニーチェは無関係であるとはできないだろう。ニーチェとドストエフスキーは広くは同時代人であるし、また信仰を持つドストエフスキーが不安にかられたことをニーチェは哄笑した、つまり同じ状況を別の角度から言い表していたと考えることもできることを思えば、やはりこの作品はニーチェの影に覆われているという連想は避けられないであろう。

乱暴にまとめると、ニーチェが言わんとした「神の死」とは、そもそも「神」なるものは人間が作り上げたものであり、その「神」の存在を前提とした世界はキリスト教による欺瞞の象徴であるということだ(……と思う)。

ではこのカーリー・ジュニアの世界はどうであろうか。ここでは神は受肉した存在としてスーダンはダルフールに女性難民の姿で現れる。「神」はモロコシを無限に作り出すことができ、それを難民たちに配る。しかし自らはそれを口にせず肉体的には衰弱していく。そして無力なまま、あっさりと死を迎えてしまう(このあたりは創造主としての神というよりはキリストを思わせる)。

そして以降神を失った世界が連作短編として描かれていく。
それにしても神を失ったこの世界はどうなってしまったのだろうか。確かに人々は混乱し、絶望にかられる。しかし「それから奇妙なことが起こった――何も起こらなかったのだ」(「偽りの偶像」p.81)。

神のいた世界はそれほどすばらしいものだったのだろうか。神が存命中にダルフールにやって来ていたコリン・パウエルは、アメリカ合衆国の黒人としてはかつてないほど政治の位階を這い上がりながらも、依然として強い人種差別にさらされている。ダルフールではキリスト教徒とイスラム教徒の間で殺し合いが行われている。もし本当に神がいるのなら、なぜ神はこのような悲惨な世界を作ったのか、誰もが思う疑問であろう。

これも「訳者あとがき」によると、著者はT・C・ボイル、チャールズ・ブコウスキー、ウィリアム・バロウズらを「パクった」としているそうだ。確かに個々の作品のテイストは異なりながらも、それぞれにどこか既視感を憶えさせるものが多い。これはつまり、すでに我々(読者)が「神が死んだ世界」にあまりになじんでいおり、それが自明となっている世界に住んでいることの暗喩ともなっているのかもしれない。
将来への前向きな出発を前にした不吉な影、絶望にかられ自暴自棄に破滅の坂をころがり落ちる若者たち、そして新たに信仰を、あるいは狂信を生み出そうとする、生み出さずにはいられない人々。これらは神が生きていようが死んでいようが知ったことなく繰り返されているのではないか。

ある作品では「ポストモダン人類学」と「進化心理学」とが文字通りに血で血を洗う戦いを繰り広げている。「神の死」を告げたニーチェ直系の子孫ともいえる「ポストモダン」と、神を相対化するともいえる「 進化心理学」の争いの中でなにが生まれるのか。それは「ナノテク」という全能とも思える「原子サイズのロボット」であった。結局我々は、やはり神なしでは生きられないのだろうか。それとも、もうそれは「神」が神である必要はないということなのだろうか。


かつては知的で懐疑精神の強い青年はニーチェにはまるのが一つの通過儀礼であった。しかしそのような(新しい)伝統はすでに失効しているだろう。進化生物学者のドーキンスは「神は妄想である」と戦闘的無神論の立場から論陣を張っているが、これを聞いた現在の我々は、その意見に賛成だろうが反対だろうがニーチェによる神の死の宣告ほどの衝撃を受け、自らのあり方が根本的に揺さぶられるような思いをすることはないだろう。
神は死んだ、だから何だ? まさにそんな時代の精神史を描いた作品である。


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佐藤太郎(仮)

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