『ル・アーヴルの靴みがき』

『ル・アーヴルの靴みがき』




アキ・カウリスマキ監督の2011年の作品。

若き日には作家になることを目指してボヘミアン的暮らしをしていたこともあるマルセル・マルクスは、現在ではル・アーヴルで靴みがきをしながら妻のアルレッティと愛犬ライカと慎ましい生活を送っている。アルレッティは体調を崩し、医者からは長くないことを告げられるが、彼女はマルセルにはこのことを内緒にしておくことに決める。貨物にまぎれてガボンからロンドンへ密入国しようとしていた一家は、その途上のル・アーブルの港で警察に発見されてしまう。ここでイドリッサは祖父から逃げるように促され、脱出に成功する。妻が入院中で一人暮らしに戻ってしまったマルセルは、ただ一人逃げ出し行き場もないイドリッサと出会う。



一目見ただけでカウリスマキ作品だとわかる独特の映像世界であるが、この全面的に異化作用を展開しているかのようなおなじみのショットが物語りとよく絡み合っている。
西ヨーロッパにおいては(不法)移民問題は社会を分断させている深刻なテーマである。あらすじからするとこの作品はそのような「現実」を描いたものであるかのように思われるかもしれないが、極めて寓話的な作品となっている。マルセルの靴みがき仲間のチャングはヴェトナム人だが、中国人だという偽造身分証によってフランスに残ることができた。よき市民であるかもしれない男が密告屋となる(この密告屋はジャン=ピエール・レオーが演じている)。警視モネは警官としての義務と人間としての感情の間で揺れることになる。このような人間模様を手持ちカメラのブレブレ映像で「リアルに」描くことはもちろんない。暴力で幕を開け、観客の誰もが覚悟した悲劇的結末に向かうかと思わせておいて、最後には唖然とするほどの奇跡が待っている。

カウリスマキ自身がこの作品を「非現実的」としている。移民に良からぬ感情を持っている人ならば、「移民がみんなイドリッサみたいないい子なら問題ないよ、でも実際には……」と感じるかもしれない。もしイドリッサが生活習慣のまるで異なる信仰心篤いイスラム教徒であったら、マルセルは彼を受け入れただろうか。しかしこのような批判や懐疑はこの作品においては意味をなさないだろう。この作品が描こうとしたもの、それはデウス・エクス・マキナよろしく奇跡によって全てが解決することではなく、奇跡の存在によってもたらされる可能性だ。


夜中に玄関の戸を叩く音がする。様子を窺うと見知らぬ人物(それもどうやら外国人のようでもある)が一夜の宿を求めている。あなたは戸を開き、その人物を歓待するであろうか。もちろん現実においては家に招き入れる人などいないだろう。しかしそこで思考を閉じてしまっていいのだろうか。我々は、この見知らぬ異国風の風体をした人物を前に完全に扉を閉ざし、何も見なかったことにすべきなのだろうか。ジャック・デリダの「歓待」の概念は決して道徳的説教ではない。また同時に現実世界とは無縁の思考実験でもない。アルジェリア出身のユダヤ人であるデリダにとっては二重三重の意味でこの問題はシリアスなものであり、また西ヨーロッパ(だけではもちろんないが)の社会が向き合あわなければならない問題でもある。
デリダの入り組んだ論理を要約することはできないし、理解できるとも思わないが、ここでデリダが語ろうとしていることの一つに不可能なことを希求するということがあるのではないだろうか。不可能なことは不可能であるがゆえにその可能性を閉ざすべきなのではなく、不可能なことの可能性を希求することによって倫理的に峻厳な思考を展開し、その可能性を広げていくこともまた可能なのではないか、デリダの「歓待」については個人的にはそのように受け止めている。


奇跡はあくまで奇跡である。現実にそのままの光景が起こることはない。ただ夢見るだけでは何も変わらない。しかしまた、その不可能性ゆえに奇跡を思い描くことを忌避すれば、世界は貧しく味気ないものとなり、世界に潜む可能性がまた一つ失われてしまう。
リトル・ボブと妻との人間臭い小さないさかいと和解。そしてその和解がもたらす祝祭。これもまた奇跡の一つの形である。観客はマルセルとアルレッティと共にささやかに咲く花を見上げ、イドリッサと母親との再会を思い描く。



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佐藤太郎(仮)

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