『小津安二郎周游』

田中真澄著 『小津安二郎周游』





小津安二郎が当時としては比較的大柄だったことから「ボクサーのようだ」と評されたことから始まり、松竹入社の頃からその死まで様々なエピソードが紹介、検証されていく。
小津の個人史は必然的に日本映画史ともなり、そして個人史や映画史を描くためには社会史でなくてはならない。個人的に興味を惹かれたのは小津の戦争体験について扱った部分である。

小津は1924年に「一年志願兵」として入隊している。「一年志願兵とは、中学以上の学校を卒業したものは、一年分の食費と被服費を前納すれば、通常二年の兵役を一年で除隊できる制度」である。
その後1933年に、予備役伍長としてて演習に召集されている。この年は防空意識を高めるためとして本格的な灯火管制を含む大演習が行われている。「空の悪魔」というラジオドラマが放送されたように、マスメディアも動員された。そしてこの時また、「化学戦、中でも毒ガス兵器の話題」も浮上していたのである。
小津は演習中につけていた日記に「そんなことどうでもいいんだ ほんとのとこ早く除隊さしてくれ」と書き付けている。さらには「僕はゴムの防毒衣を着て撒毒の斥候長を一役」という記述もある。この「日々の体験の意味に彼が直面するのは四年のち」のことである。

1936年には小津の紹介としてすでに「巨匠」という表現が使われるようになっていた。その有名映画監督のもとに37年、召集令状が来る。小津の軍隊生活はメディアの注目を集め、「異例の頻度でジャーナリズムに浮上する特異な存在」となる。
小津と銃後の人々との手紙のやりとりも多く報道されている。『オール松竹』一九三八年二月号には田中絹代らに宛てた手紙が紹介されている。その中には「二十日○○入城いたしました」という部分がある。この伏字にされた地名は、前後の文脈から南京である可能性もある。もしそうだとすれば、「松井石根対称を先頭とする南京入城式は、一七日に挙行されたが、“皇軍”兵士による虐殺、蛮行は継続中であり、小津伍長は風聞としてでも全くそれを知らなかったのだろうか(山中貞雄の部隊はおそらく知り得たであろう)」。

1938年8月には、朝日新聞に溝口健二に宛てた手紙が掲載されている。そこには溝口のもとに「無」の一字が書かれたものもあった。溝口はこれを禅問答と解釈し、住職に「有」の一字を書いてもらいそれを答えとして送った。小津が「無」の書を送ったのは溝口一人ではなかったようだ。「とすれば、その文字は個人的な表白というよりは、多数に共有される性格を持ってしまう。そのことが、その一字が自らの墓に刻まれる未来と、この段階で結びつけることを躊躇させる」。

小津は1939年には修水河渡河作戦に参加し、極めて厳しい行軍を強いられたことを日記に残している。「目の前で追撃の梅本隊の兵隊が戦死する」という記述からもうかがえるように、激しい戦闘が起こった。しかしこの修水河渡河作戦には「小津の文章、当時の新聞報道、後世に編纂された公式の戦史、以上三つの文例が敢えて、または故意に触れていない問題がこの戦闘には存在」していたのである。小津が予備役時代から所属していた部隊は、毒ガス戦を行うための部隊であり、この戦闘では毒ガスが用いられていたのであった。もちろんこれは国際協定に違反するものであり、「特に戦時中は国内的には一切秘密にされていた」。

小津の日記には「特殊弾」や「特殊筒」という記述があるが、これは毒ガス弾などの婉曲表現であった。さらに小津は「資材red8を携行」とも書いている。日本軍は「きい」「みどり」「あを」などの呼称を持つ毒ガスを製造していた。ここで小津が「red」と表記しているのは「あか」のことであった。
「あか」は効果が一時的で、それ自体では致命性の毒ガスではなかったため、「使う側にとって、比較的危険が少ない」ものでもあった。裏を返すと、兵士が自らとどめを刺さなくてはならないということでもある。
ある兵士は八路軍との戦闘で「あか」が使用された時をこう振り返っている。「頃合をみて突撃にかかった。歩兵の何人かが城壁をよじ登り、中から城門を押し開いて味方を引き入れた。ガスにむせ逃げ遅れた八路軍がいる。非戦闘員もいる。猛り立つ日本兵たちは軍民の別なく「グスリ」「ブスッ」と次々に銃剣で刺し殺していった。「てこずらせやがって」。戦闘が終わり、死体を数えると約一一〇人に登った」。

また別の兵士はこう回想している。「あか」を用い、もがきくるしむ敵兵を「手当たり次第「突き刺し、ぶち斬り」少しでも息をしているものなら「こいつも生きていやがるか?といって軍靴でけりちらし「このくたばりぞこねが」と嘲るようにして、軍刀をのどに、あるいは腹に突き刺した」。

小津自身は毒ガス戦については沈黙し続けた。しかし戦後にこのような発言をしている。「かうした支那兵を見てゐると、少しも人間と思へなくなつて来る。どこへ行つてもゐる虫のやうだ。人間に価値を認めなくなつて、たゞ、小癪に反抗する敵――いや、物位に見え、いくら射撃しても平気になる」。この小津の回想は、前述の兵士の回想と重なるところがある。

それにしても小津の戦争体験、及びその後の反応というのは後から見るといささか奇異にも写る。小津は戦時中にもファナティカルな軍国主義に陥ることはなかったが、同時に積極的にはもちろん消極的な抵抗を試みたという形跡もない。おそらくは前線で凄惨な戦闘を体験したが、除隊後はトラウマ的後遺症を感じさせることなく国策映画に協力している。当時としては映画監督を続ける以上国策映画を撮るより他なかったのだが、その内容はまた軍が望んだような大スペクタクル作ではなく(そのせいで撮影に取り掛かることができなかった)、しかしかといって「反戦」的メッセージを忍び込ませようと密かな抵抗を行ったのでもなかった。戦後も積極的に戦争体験に触れることは少なかったが、かといって完全に沈黙したのでもなかった。小津の戦後の映画には明らかに戦争の影に覆われているものがあるが、あの時代を直接的に肯定したり否定するものではなく、どちらかといえば抽象化された戦争の記憶といってもいいものであろう。小津があの戦争について、そして自身も参加した戦闘についていったいどのような感情を持っていたのかというのは今ひとつ判然としないところである。


本書には戦争関連以外でもいろいろと面白いエピソードも多い。
それにしても、口絵写真として収録されている1930年代、つまり小津が30代半ばの写真を見ると不思議な気分になってくる。現在僕自身も30代半ばであるのだが、写真の小津はとても同年代には見えない。もちろん80年前と現在とでは服装その他が異なるので違って見えて当然ではあるのだが、それを指さし引いても小津はたいそう年上に見えてしまう。とりわけ1933年の写真など50も後半だと言っても誰もそれを疑わないのではないのだろうか。
小津は晩年になると著しい体力の低下におそわれ、日記に「草疲れるスタミナはもう何もない」「披露甚だしく 仕事もうどうでもよくなる」「もうどうにもスタミナはない」などと書き付けている。この頃すでに癌が広がっていたのであろうが、「晩年」といってもこれを書いたのはまだ60歳手前のことである。時代がそうだったというよりも、小津は肉体的にも早く老成してしまったということなのだろうか、なんてことも思ってしまった。



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Author:佐藤太郎(仮)
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