『風立ちぬ』

『風立ちぬ』

ネタバレは気にせずにいきますので未見の方はご注意を。


この作品にはどこか語りにくいものがある。
僕は宮崎駿の熱心なファンというわけではないのでフィルモグラフィの中でうまく位置づけするのは難しい。原作も未読である。ミリオタでも航空機マニアでもないので堀越二郎についてもゼロ戦についても当時の航空機事情についてもよく知らない。堀辰雄もきちんと読んでいない。
しかしこの語りにくさはこのようなことにあるのではない。


一般論としては映画にしろ文学にしろ、作者その人に引きづられ過ぎる読み解き方には慎重であるべきだ。しかし『風立ちぬ』は宮崎駿というあまりに強烈な存在を抜きにして考えることは難しい。
その象徴ともいえるのが作品のクオリティを度外視して主人公の二郎役に庵野秀明を起用したことだろう。『トトロ』以降のジブリ作品では素人を声優に起用することはまま見られるが、主役に演技経験がほぼない人物を配するというのは、その中でもとりわけ異質なものだといっていいだろう。これは宮崎と庵野の関係を抜きにしては有り得ない。その結果として、観客は二郎=庵野が声を発するたびに、宮崎駿という存在を常に意識せざるをえない。

この作品は堀越二郎を描いたものであるが、堀越の生涯について知識のある人からは史実との違いが多く指摘されている。もちろん古今東西の伝記映画を見ても、史実通りに作られるほうが珍しい。とはいうものの、一般的には無名の堀越二郎の名前をそのまま登場させる必然性はあったのだろうか。むしろ堀越の生涯に着想を得たフィクションとした方がより自由に物語を構成できたはずだ。これも密かな目配せといったものを避けた、「分りやすさ」を狙ったようにすら思えてしまう。堀辰雄からの引用にしても、出展を明確にしたこれ見よがしのものとも映る。

少なからぬ観客が事前に「堀越二郎」で検索し、青空文庫などで堀辰雄の『風立ちぬ』や『菜穂子』をあわてて流し読みしたことだろう(というか僕がそうなのですが)。観客は現実の宮崎駿と堀越二郎と堀辰雄の三角形を意識しながらこの作品を見ることに誘導されている。
二郎が宮崎の分身であるというのは誰でもすぐに浮かぶ連想であるばかりか、パブリシティなどの段階からそれが隠されるどころか強調されている(典型的なのが『文藝春秋』での宮崎と半藤一利との対談だろう)。


しかし、見ていて次第に疑問に感じてきたのが、これは宮崎が本当に「正直」になって作ったものなのだろうかということだ。

確かにこの作品には宮崎の欲望がストレートに表出されているように見える。ミリオタの宮崎が航空機を思う存分に描く。二郎と妹との関係。菜穂子は100パーセント無条件の愛を二郎に注ぐ。また菜穂子の実家は金持ちなうえに父親はやたらと物分りがいい。若さと美しさを保ったまま愛する人が消え去るというのは、グロテスクにして身勝手な願望とも取れる。

宮崎といえばしばしその政治的左翼性とミリオタ的趣味性の矛盾が指摘される。
「あの時代」を描こうとすれば政治から目をそらすのは有り得ないということが期待(あるいは懸念)されていたのだが、ここではそれを回避したといっていいだろう。二郎が貧しい姉弟に「シベリア」を買い与えようとする場面や特高のくだりなどは、それを登場させただけで政治的だと感じる人もいたかもしれないが、実際にはこれらのエピソードは深められることなく後景に退いていく。

二郎を厳しく評価するならマッドサイエンティストの系譜にあるキャラクターだといえよう。ここでいうマッドサイエンティストとは、自らが生み出すモノや技術を社会的、政治的文脈に置くことができず、それがどのような結果を生むかということへの想像力が欠如しているということだ。現実として考えた場合、一介の技術者にどのような抵抗が可能であったのか、そもそもそのようなものを求めるべきなのかについては様々な意見があるだろう。しかしこの作品において、二郎は「美しい」飛行機に魅せられ、それを作ることをひたすら夢見ていることが強調される。イタリアの未来派をはじめ、ファシズムや戦争に美学的見地から魅せられるという例は枚挙にいとまがない。二郎のこのような姿勢は、宮崎が意図的に二郎のマッドサイエンティスト性を浮かびあがらせようとしたものだとも取れる。

日本では幼い頃からジブリ作品を擦り切れるほど見て育ったという人がもうすでに成人を迎えている。ではこのような育ち方をした人々が宮崎の理想とするような人間像に近いのかといえば、宮崎はそうは感じていないだろう。宮崎はインタビューで、子どもに毎日のようにジブリ作品を見せていますなどと言う親に対して苛立ちを露にし、アニメなんぞ見せないで子どもは自然の中で遊ばせろ、というような発言をしばしする。このようなアニメ作家としての自らのみならずアニメというジャンルそのものへの自己否定は、宮崎の中にある様々な倫理的葛藤を表していると考えていいだろう。

『風立ちぬ』はそのような倫理的葛藤をふっとばし、「俺はただ作りたいものを作る。自分にできるのはそれだけだ。文句があるなら勝手に言ってくれ」と開き直っている、かのように思えなくもない。そうであればこれは「正直」な作品であろう。しかしそれには疑問が湧く。

その疑問とは死についてだ。菜穂子の運命や関東大震災をはじめ多くの人々が命を落としたであろうことが暗示される場面は多いが、死を直接には描いていない。
宮崎は『ラピュタ』でムスカに「人がゴミのようだ」という名(迷?)セリフを言わせたが、これは宮崎のある種の本音であるといってもいいだろう。

宮崎が本当に「正直」にこの作品を作ったのなら、「人がゴミのように」死んでいくことを描くことにためらいがあったであろうか。「ゴミのような」人間どもが美しい技術の結晶である飛行機でむざむざと命を落としていくことをなぜ描かなかったのか。二郎は「人がゴミのように」死んでいくのを前に哄笑することもなければ、現実に復讐されることもない。戦闘も死もあくまで夢の中なのである。

逆に考えるなら、人が「ゴミのように」死んでいかない『風立ちぬ』は「正直」な作品ではなかったのではないだろうか(少なくとも『ナウシカ』や『ラピュタ』と比べると)。ここで「ゴミのような死」を描かないのは、「正直」ではない作品におけるせめてもの誠実さであったとすることもできるのかもしれない。

二人が再会したときに先に気づくのは菜穂子であって二郎ではない。菜穂子とお絹に貸した服などが学校へ届けられると、二郎は明らかにお絹に会えることを期待した。このように、二郎は出合ったその瞬間から一途に菜穂子を思い続けたのではないのだが、あたかもそうであったかのように語ってしまう二郎を信用することはできない。二郎はその言動ほど浮世離れしたかのようなウブな人間ではなく、菜穂子との関係ではしたたかな計算すら働かせていたとすら思えるところもある(菜穂子に告白する前に菜穂子の父にそれを伝えるなど)。
「信用できない語り手」を主役に配置することで、これが「正直」な映画ではないということを暗示しているかのようでもあり、また宮崎が自分の言っていることなど信用するなとしたともとれる。


どの角度からこの作品を語るにしろ、宮崎駿という要素なしで語ることに観客は困難を覚えるのであるが、このような困難自体が意図的に作り出されたものであるのかもしれないということも含めて考えなくてはならないことに『風立ちぬ』のある種の語りにくさがある。
ゼロ戦の設計者の形を借りた宮崎の擬似精神的自伝であるというメタ構造へのベタな誘いがあるが、そこに乗るにしろ距離をとるにしろ、さらなるメタ視線を導入し始めると無限後退に陥り、正解のない問いをひたすら立て続け、作品そのものから遠ざかってしまう。まさにそれこそが「二郎=宮崎駿」のイメージを強調する狙いなのではないかとすら思えなくもない。言葉を変えると、作品そのものでは勝負していない、逃げをうったとも考えられる。

この作品のプロット上の弱点を指摘するのはたやすい。なんといっても二郎がなぜ美しい飛行機に魅せられたのかが描かれていないことは致命的であろう。従って観客は、普通であれば感情移入することが難しいのであるが、「二郎=宮崎」説に立ってくれればこのあたりを観客側から好意的に埋めてくれることになる。
また『魔の山』からの引用があるが、教養小説、あるいは反教養小説という文脈からも弱い。確かに菜穂子との関係はあるが、父親は二郎のような人物を病弱な娘の夫としてあっさりと受け入れるであろうか。「やめておけ、同期はライバルになるぞ」という意味有りげなセリフも回収されないままに終わってしまうように、当然生じるであろう試練が起こらない。二郎は試練を受けようとも「成長」することがないのだということを表しているのなら、それこそまさに「人がゴミのように死んでいく」のを描くべきだっただろう。作画においても二郎は年齢を重ねていっているようには見えないのだが、これは二郎のみならず他の人物においても同様だ。ここで日本全体が子どもじみていたのだとする読み込み方はあまりにも好意的すぎるだろう。
このようにかなりの部分を観客の好意に頼ろうとしている。そしてそのような好意を呼び起こすために、いささか過剰に「二郎=宮崎」が強調されているのではないだろうか。

宮崎の(あるいは鈴木敏夫をはじめとする製作陣の)「意図」を探るにしろ、あるいは作者の存在を括弧にいれて考えるにしろ、常に過剰さと過少さとに覆われる。歪んだレンズを通して世界を見るような隔靴掻痒たる感覚がつきまとってしまうのであるが、そんな感覚は単に乱視なだけだと片付けるべきなのかもしれない。

個人的に一番残念であったのは、宮崎作品ならではのガジェット的楽しさというのが希薄だったことだ。見終わった後に罪悪感を覚えさせるほど戦闘機に興奮させられるのかといえばそれは難しいであろう。
隣に小学校低学年くらいの男の子が座っていたのだが、冒頭過ぎで完全に飽きてしまっていた。小さな子どもがプロットにはついていけなくとも、「センス・オブ・ワンダー」を与える瞬間を作り出すことができるからこそ、宮崎作品は宮崎作品であったはずだ。その極北ともいえるものが『ポニョ』であったのだろうが、製作側からするともう一度『ポニョ』的作品を作ることには二の足を踏んでしまうことだろう。現在の宮崎が「正直」になったら、おそらくは『ポニョ』のような作品が生まれてしまう。
宮崎駿は『風立ちぬ』でやりたい放題やった、という肯定的にも否定的にもよく見られる評価は慎重である必要があるのかもしれない。むしろこれは首に縄を付けられた作品であったのではないだろうか。

『ナウシカ』や『ラピュタ』のようなウェルメイドな活劇と宮崎の自らの欲望とが共振したような作品を生み出すには、もう「10年」はとうに過ぎてしまっている。ではその後はどうしたらいいのかというのは、宮崎のみならずジブリが抱える問題でもある。『風立ちぬ』には「リアル」なキスシーンやセックス直前の光景まであったのだが、あれは本当に必要な描写であったのだろうか。「子ども向けではない」というエクスキューズであるとすら感じてしまったのだが、あそこに様々な立場の苦しさが集約されているように思えてしまった。


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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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