『ゾンビ経済学』

ジョン・クイギン著 『ゾンビ経済学  死に損ないの5つの経済思想』





ゾンビ、それは死してなお蘇る。自らの死を自覚してないかのごとく蘇り、人間を襲い続ける。

本書では次の5つの「ゾンビ」と化した経済思想を批判する。

「大中庸時代:一九八五年に始まる時期は、前代未聞のマクロ経済の安定の時期だったという発想」
「効率的市場仮説:金融市場がつける価値はあらゆる投資の価値に関する可能な限り最高の推計なのだという発想」
「動学的確立一般均衡(DSGE):マクロ経済分析は、貿易収支や債務水準といったマクロ指標など気にすべきではなく、個人の行動に関するミクロ経済的モデルから厳密に導かれるべきだという発想」
「トリクルダウン経済:金持ちにとって有益な政策は、最終的には万人の役に立つという発想」
「民営化:いま政府が行っているあらゆる機能は、民間企業のほうがうまくこなすという発想」

これらはつまり、「イギリスでは「サッチャリズム」、アメリカではレーガニズム(レーガノミクス)」、オーストラリアでは「経済合理主義」、発展途上国では「ワシントン・コンセンサス」、学術論争では「ネオリベラリズム/新自由主義」として、主として「侮蔑表現」として語られてきた経済思想である」。
「政治的な支配層にいるエリートたちは、自分たちがイデオロギー的に動いているとは考えていないし、イデオロギー的なレッテルを貼りをされると、かなり逆上した反応を見せる。イデオロギーは内部から見れば、通常は常識のように思えるのだ。こうした侮蔑語で表現された思想群を表現する用語として、私が発見したもっとも中立的なものは、「市場自由主義」だったので、本書では今後この用語を使うことにする」とある(p.14)。

2008年の金融危機でこれらの市場自由主義は完全に死を迎えたはずであった。いや、その前からすでに理論的には死んでいてもいいはずだったのに、生き延びていたのだ。そして2008年以降もやはりゾンビとして生き続けている。
著者はそれぞれの章でその「誕生」「生涯」「その死」「復活」「ゾンビ以後」という節を立て、今度こそ葬り去ろうとする。

本書の最大の特徴は経済学者である著者が、経済学の論理を使ってこれらを批判していることだろう。日本では「経済学批判」「資本主義批判」「ネオリベ批判」の本は溢れ返っているが、これらの多くは拝金主義や強欲といったものを倫理的な観点から批判するものとなっている。著者は経済学から降りることなく、いやむしろ経済学者であるからこそこのようなゾンビ経済思想を批判するのである。


経済学的素養がゼロの読者への懇切丁寧な入門書というわけではないので、経済学に通じていない読者にとっては(僕もそうである)用語等で細かい議論が掴みにくい箇所もあるかもしれないが、それでも著者の主張の大枠を理解するのに困ることはないだろう。

例えばトリクルダウン経済学を批判したこの部分を引用してみよう。

「トリクルダウン仮説を支持する証拠は昔からほとんどなかったが、それを実証するのはむずかしい。特に、その支持者たちは成長の便益が貧乏人にまで浸透するのにどのくらい時間がかかるか、決して言明しないからなおさらだ。(中略)トリクルダウン理論は軽量経済学のツールで検証できる。だが、少なくともアメリカに関する限り、そんな高度な分析など必要ない。所得分布についての生データを見れば、所得分布の下半分にいる世帯が市場自由主義の数十年から何も得ていないことがわかる。市場自由主義の弁明をしたがる連中は、生データが実情と違う印象を与える理由をあれこれ挙げているが、どれも精査に耐えない。どの証拠を見ても、貧乏人を犠牲に金持ちに利益を与えるよう設計された政策が、予定通りの成果を上げているという常識的な結論は証明されている」(p.200)。

あるいは民営化についてのこれらの箇所。

「もっと重要なのは、民営化支持の主要な理論的政治的理由づけが、検討してみるとすべて崩壊したことだった。資産売却で政府は即座に現金を手にできるといった主張は、早い時期にナンセンスだと認識されたが、本書で論じたもっと大型のゾンビ思想と同様に、何度も何度も蒸し返された。民営化が自然独占とされた産業に競争市場を作るといった理由づけは、もう少し長持ちはしたものの、最終的には根拠レスだと証明された」(p.243)。

「政治家には民営化が大人気だし、それが実にしょっちゅう推奨されたことを考えれば、この種の評価がほとんど行われていないのは驚くべきことだ。IMFは、二〇〇〇年にこうした問題の調査がほとんどないと指摘したが、そうした実証的な証拠がないことで自分たちの民営化推奨提言を留保すべきだとは思わなかったらしい」(p.248)。

「民営化はほとんどの場合政府にとって損だという証拠にもかかわらず、それは相変わらず短期的な財政難の解決策だとして推奨される。私の住むオーストラリアのクイーンズランド州で、州政府は財政危機をつかって民営化を正当化した。オーストラリアを代表する経済学者二〇人以上(中には民営化の強力な支持者もいた)が、政府の挙げた理由がまったくいい加減だと指摘する声明を発表しても、このとんでもない議論の推進は止まる様子がなかった」(p.251)。


ただつまみ食いには注意が必要で、ケインズ主義のもとで70年代にスタグフレーションに陥った反省から高インフレをいかに抑制すべきかという議論があるのだが、このあたりはとりわけ日本では「ほれみろ、インフレはやっぱりよくないんじゃないか」とかいうようなミスリードに使われないように気をつけなければならないだろう。


著者は最後に「二一世紀の経済学が留意すべき点」として次の三つをあげている。
「厳密性より現実性を重視」
「効率性より平等性を重視」
「傲慢さより謙虚さを重視」

現実からかけ離れた机上の空論への固執、あるいは美しい数学的モデルを優先させること、また政治的バイアスや権力者や富裕層の代弁者となることから、死を迎えたはずの経済思想はゾンビとして生き続ける。
想像がつくように著者はケインズを高く評価する。しかしまたかつてのケインズ主義にただ立ち返ればいいとするのでもない。ケインズ主義の失敗も教訓として、現実に即した経済理論を構築しなければならないとしている。


著者のような立場は日本では左がかった人にこそ読まれるべきなのだろうが、そういった人にはこの手の本はなかなか届かない。ただそれが日本の「リベラル」な人たちばかりのせいかというと、そうとも言い切れないだろう。日本ではケインズの影響を受けているような経済学者でも、本書で取り上げている「ゾンビ経済学」に正面から立ち向かっている人があまりいないようにも思える。そればかりかむしろゾンビに食われ、自らもゾンビと化してしまっているような人まで見かける(ケインズの入門書を書いている吉川洋の言動を見よ!)。その結果として「リベラル」な人は経済学を全否定したり、あるいは「経済学批判」をしてくれる経済学者(っぽい人も含む)に引きづられてしまう。一方の経済学者の側ではあんな連中相手にするだけ無駄、となってしまい、相互の関係は負のスパイラルに陥ってしまっているのではないだろうか。

もっとも、「財政刺激政策の支持は、おもにポール・クルーグマン、ブラッド・テロング、ジョセフ・スティグリッツといった経済学者が主張していたが、かれらはマクロ経済学の学会における専門家ではない。むしろ経済地理学や経済開発などの分野で活躍する人々で、これは歴史的な理解が必要だし、また過去の経済的な変動についてケインズ主義的な見方を基礎にしている」という箇所がある(p.154)。著者も農業経済・資源経済学が専門である。マクロ経済学者が「ゾンビ化」してしまうという傾向は日本に限ったことではないのかもしれない。このあたりの理由はなんなのだろう。


日本で「ゾンビ経済思想」と正面から戦ってくれる一般にまで影響力のある経済学者は現れるのか、またそのような可能性を持った人が現れたとして、「リベラル」な人に届くのかということを想像すると、この二つはどっちも望み薄なんだよなあ、という僕の諦念に近いものをいい意味で裏切ってくれる日が来てくれればいいのだけれど。

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佐藤太郎(仮)

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