『カフカ、映画に行く』

ハンス・ツィシェラー著 『カフカ、映画に行く』






著者のツィシェラーはヴェンダーズの『さすらい』、ゴダールの『新ドイツ零年』、スピルバーグの『ミュンヘン』などに出演している俳優であるが、瀬川裕司による「訳者あとがき」によればデリダの著作を最初にドイツ語に翻訳するなど哲学にも造詣が深く、「もっとも知的な俳優」とも呼ばれているという。

「訳者あとがき」にはこんな箇所がある。
訳者は文学に関心のある若い世代とカフカについて話す機会が少なくないが、「そんなときに気づくのは、彼らがなんとなくその作家を現代社会とは繋がりのない<昔の人>だと思っており、世間の華やかな面には背を向け、陰鬱な顔をして室内にこもって小説ばかり書いていた人物といったイメージを抱いていることだ。しかし、じっさいにはカフカはテクノロジーに強い関心を持つ好奇心旺盛な若者であった。本書にもあるようにしばしば大規模な外国旅行に出かけ、映画や芝居、サーカスその他の娯楽の魅力を語り、鉄道、市電、自動車といった乗り物を愛した彼は、かなり行動的でフットワークの軽い人物だったとさえいえる。映画に関しては、私たちは膨大な日記や手紙の類のなかで、カフカが映画ポスターの貼ってある風景が好きで、市内のどの映画館でどんな映画がやっていいるのかをすべて暗記しているといった記述に出会うこtができる。彼は毎晩、かなりの時間をかけて街を散歩する習慣があった。創作の熱に浮かされた若き作家がさまよう迷路のようなプラハの旧市街で、そこだけ明るく輝く映画館の看板は、灯台の明かりのごとくに安心感をもたらす存在だった。映画館の前にさしかかると、カフカは貼られているポスターやスチル写真を飽くことなく眺め、想像力をめぐらせることに喜びを見出してていたのだが、もちろん映画館のなかにじっさいに足を踏み入れ、さまざまな刺激を受けとることも生活の重要な一部となっていた」(p.198)。

カフカというと『審判』、『城』等での官僚機構の不気味な暴走などが予言として受けとられる一方で、その抽象的作品は神学的に受けとられ、カフカの生きた歴史的、地理的文脈から切り離して考えてしまうことも多いのだが、その作品に時代の予言を見るか普遍性を見るかはさまざまでも、作品が同時代の空気にも大いに影響されていたことは押さえておかねばならないだろう。

そのあたりを嗅ぎつけていたのが本書に引用されているベンヤミンに宛てたアドルノの書簡かもしれない。
「ここでブロートは映画に関する陳腐な想起において、彼自身が予期ししていたよりもはるかに核心をついていたように思えます。カフカの小説は実験劇場のための脚本ではありません。というのは、そこには実験のなかに入りこめる観客が存在しないからです。むしろ彼の小説は、無声映画(それがカフカの死とほとんど同時期に消滅したことは偶然ではないでしょう)へとつながる、消滅しつつある最後のテクストなのです。身ぶりの曖昧さは、(言語の破壊を伴って)沈黙の状態に没入することと、そこから浮上して音楽のなかへと入ることとのあいだの曖昧さです――それゆえに、身ぶり―動物―音楽の組み合わせに関してもっとも重要な作品は、『ある犬の記録』からの、沈黙しながら音楽を奏でる犬の集団の表現でしょう。私はためらうことなくこれをあなたのサンチョ・パンサと同列に扱いたいと思います」(p.95)。


アドルノもベンヤミンもカフカに深い関心を寄せていたことは有名であるが、とりわけベンヤミンとカフカの関連ではユダヤ性やシオニズムなどの点に注目してしまうのだが、カフカがまた旅行者であり散歩者であり、観察者であり記述者であるという点に注目するとまた違った面も見えてくるのかもしれない。

カフカはブロートと共作を試みていた作品において『白い奴隷女』(1910年)のほんの一瞬画面を横切る通行人からインスピレーションを受けていたことが明らかにされる。そしてブロートらと訪れたパリではカフカはモナリザ盗難事件の「犯行現場の調査」に出かけ、また「その屈辱的な事件をパロディー的に扱った」、『ニック・ヴィンテールとモナリザの盗難』を見ている。


三十歳を目前にしたカフカがフェリーツェとの結婚問題のこじれに悩んでいるころ、しばし「意識を失うほどの孤独」を感じ、それを埋めるために映画館へと通った。そして婚約が解消されようとし、それと歩調を合わせるかのように1914年ころには「極度に生産性の高い時期」が始まるが、ここには「キネマトグラフが技術としてもイメージとしても題材とされることがなく、奇妙なまでに排除されている」(p.172)。

1920年にカフカはこんな手紙をしたためている。「毎日午後には、僕は街でユダヤ人への憎悪を浴びています。ユダヤ人が<疥癬人種>と呼ばれるのも耳にしました。人はこれほど憎悪されている場所からは、逃げ出すのが当然というものではないでしょうか?」
第一次大戦後の反ユダヤ感情の高まりにさらされ、カフカはプラハからパレスチナへの移住を考え始めていた。1921年に、カフカは日記に「午後 パレスチナ映画」と記している。これは『シオンの帰還』という「ユダヤ人によるパレスチナ建設と開拓者たちの熱心な作業の様子を提示する作品」であった。

カフカのそのころの手紙には、パレスチナ移住への憧れと同時に「あきらめきった調子」も同時に含まれていた。「カフカにとってパレスチナは、到達不可能な、踏み込むことのできない領域、手にとれるほど近くもあれば、遠くでもある領土――想像のなかの空間、一本の映画であり続ける」のであった(p.187)。

カフカは結局パレスチナへ渡ることはなく、最後の伴侶となったドーラと共にベルリンへと向かう。本書の最終章「追伸」は、死の5カ月前、1924年1月の妹エリへの手紙の裏に書かれた家政婦のヴェルナーへチェコ語で書かれた文章の引用によって締めくくられている。「土曜日に訪問客がありました、ドレースデンのブーグシュ嬢が、朗読家だという友人と一緒に来たのです。そのお友達は、当地で朗読会を開くということでした。もし僕がそれに行っていれば、ベルリンでの最初の夜の外出となるところでした、僕はまったく家のなかで飼われている動物みたいなものです。映画についてもなにも知りません、ここではそれについての情報も少ないのです、ベルリンはずっと以前から貧しい街です、いまになってやっと『キッド』を買い入れることができたのですから。もうずっと何ヶ月も、それは上映されています」

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佐藤太郎(仮)

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