漱石と翻訳


漱石夏目金之助は高等学校の英語教師から(多少のコネはあったとはいえ)官費で英国留学し、帰国後は帝国大学講師を務めている。漱石の英語力についてはあれこれ言う人がいないではないが、少なくとも当時としては日本でトップクラスの英語力だったと考えていいだろう。

帝大での漱石の前任は小泉八雲。八雲は学生から非常に人気があったためこの人事は強い反発を招いた。しかし漱石が授業を始めると、とりわけシェイクスピア講義はとたんに評判を呼ぶことになる。このあたりは漱石が狭義の英文学者にとどまらず、批評家としても優れていたことをうかがわせるエピソードである。

『我輩は猫である』はローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』から強い影響を受けている。また未完の遺作となった『明暗』に登場する小林はドストエフスキー作品からの影響が指摘されている。このように漱石作品には外国文学からの影響が強いものも多い。漱石は専業作家となった後も英語やドイツ語などで文学、哲学、心理学等を幅広く渉猟していた。


と、なぜこんなことを書いているのかというと、『エドガー・アラン・ポーの世紀』に収録されている井上健の「日本文学とポー」を読んでふと考えてしまったことがあったためだ。

漱石は明治四〇年(1907年)に刊行された『名著新訳』に序文を寄せている。ポーの「別世界の消息」について、「明晰に、緻密にあるときは殆ど科学的とも云い得べき程の描写」と評しているそうだ。明治四二年の『英語青年』の「ポー特集号」に漱石も寄稿している。ここではポーとスウィフトを比較し、「「numberの観念」を人に与える「mathematicalなclear head」について、「ポーはスウィフトを凌駕する」とし、「何うしてこんなに精密に、数学的に想像する事が出来たかと驚く」としている。
「科学的に描写するポーの手際を賞賛するこうした視座は、漱石自身のその後の心理小説への展開をはるかに予見させるとともに、ほぼそのまま、弟子たる芥川龍之介に継承されていく」のである(p.59)。

井上はさらに森鴎外が『諸国物語』においてポーの作品を訳していることにも触れている(鴎外によるポーの翻訳は青空文庫で読める。こちら)。井上は鴎外の翻訳に対する姿勢について佐藤春夫の、鴎外の翻訳はいつも「文壇を啓発しようとする意識の下に文壇の風潮と睨み合わせて原作が選択されている」という言葉を引用している。
鴎外はかなりの数の翻訳を残しているのだが、漱石はといえばほんのわずか、それも作家として名をあげて以降は翻訳を行っていない。

引き続き井上によると、ポー翻訳の嚆矢となったのは饗庭篁村による明治二〇年の「西洋怪談 黒猫」であるのだが、饗庭篁村は英語が出来なかったため(!)高田早苗や坪内逍遥らの口述を元にした「翻案に近い自由訳」であった。

このように当時の翻訳事情は重訳、翻案当たり前という状態であった。これは手っ取り早く目新しい物語を商品として提供するという動機もあったのだろうが、また日本の近代文学がまだその形成過程にあったということも大きいだろう。
日本の近代小説の言文一致体を切り拓いたのは二葉亭四迷の『浮雲』であるとされるが、しかし同時代人へのインパクトとしては同じ二葉亭による「あひゞき」などのツルゲーネフの翻訳の方が大きかったともされる。

二葉亭はあまりに翻訳を生真面目に捉えすぎ、ついにはロシア語と日本語とでは文法がまるで違うにも関わらず、正確に翻訳するためには句読点の数ばかりか位置までもそろえなければならないとまで思いつめ、苦闘するようになる。そして前述の通り鴎外は翻訳について「文壇を啓発しようとする意識」を持っていた。二葉亭や鴎外にとって翻訳とは、単なる余技や手遊びなどではなかった。
このような事例を考えると、英語に堪能であり欧米の古典から同時代の潮流にまで目を配っていた漱石が翻訳に本格的に取組むことがなかったのは、むしろ異様なことにすら感じられなくもない。


現在日本において作家の翻訳といえば村上春樹がすぐに浮かぶだろう。春樹と同世代の高橋源一郎や村上龍も若き日には翻訳を行っているが、時期も作品数も限られている。春樹は専業作家としての地位を確立した後も(つまり経済的動機から翻訳を行う必要がなくとも)積極的に翻訳を行い続けている。

春樹はデビュー直後はフィッツジェラルドやカポーティといった愛読してきた、影響を受けた作家の翻訳を行うことが多く、その後はティム・オブライエンやジョン・アーヴィング、そしてレイモンド・カーヴァーといった同時代の作家を多く訳した。そして近年はついにフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を訳し、そしてチャンドラーのような「準古典」作品に多く取組んでいる。このあたりは「小説家村上春樹」と「翻訳家村上春樹」との関係について思いをめぐらすなというほうが無理な相談であろう。

春樹はエッセイで小説の執筆は基本的には午前中に行い(店をたたんだ後は超のつく朝型の生活を送っている)、エッセイの執筆や翻訳などは午後から夜にかけて行うということを書いている。
春樹は自身が漱石好きであることにしばし触れている。春樹のこの生活が漱石の影響なのかは知らないが、漱石も晩年(といっても四十代だけど)はこのような生活を送っていた。小説は午前中に書き、時間がくるとそれまでとし、午後は手紙などの所要にあてていた。漱石は幼少期から漢詩に親しみ、漢詩を作り続けていたことも有名である(一時は英詩も書いているがこちらは長くは続かなかった)。春樹の翻訳にあたるものが漱石にとっては漢詩であったと考えることもできるのかもしれない。

漱石には漢詩があったために翻訳を行う必要性を感じなかったのだろうか。しかし漱石の漢詩はもっぱら趣味として行われたものであり、二葉亭や鴎外の翻訳は広く読まれることを前提とした文学的営みとは異質なものであろう。春樹もただ自己鍛錬としてのみ翻訳を行っているわけではないだろう。

作家の翻訳としてまた別の意味で名前があげられるのが大江健三郎かもしれない。大江はフランス語と英語が読め、また単に語学的に読めるというだけではなく広範囲に渡って文学作品を渉猟している。しかし直接に翻訳を行うことはなく、とりわけ80年代以降はイェイツやブレイク、そしてポーの翻訳や解釈を自作の中に取り込むというアクロバティックというかほとんどエキセントリックといってもい方向へと進むことになる。大江のこのような外国文学の取り入れ方は春樹的というよりは漱石的だともいえなくもないが、相当に独特なものでちょっと比較のしようがない手法だともいえるのかもしれない。


漱石はなぜ本格的に、継続的に翻訳を行わなかったのか、このような問いは悪魔の証明にも似たものかもしれない。単に翻訳という作業に興味が持てなかったというだけのことなのだろうか。しかし当時における翻訳(を行うこと)の重みを考えると、仮にそうだとするとその興味の持てなさはいったいどこからきたのかということも考えたくなってくる。特に理由もなく名前を出すが、浅田彰は語学力においても背景知識においても思想書や文学の翻訳に手を染めてもおかしくないのだろうが、この領域には手を出さない。浅田もただ単に翻訳という作業に興味がないだけなのかもしれない。ただ浅田が翻訳を行わない(興味がない?)ことと漱石がそうであったかもしれないということを同列に語ることはできないだろう。


なんてことをふと考えてしまったのだけれど、僕は漱石研究に通じてるわけではないのでそんなのとっくの昔に論じられているよ! ってことなのかもしれませんが。


ということでこうなりゃついでだ、と漱石全集第十三巻を手にとってみた。この巻には1892(明治25)年から1906年までの漱石の「トリストラム、シヤンデー」などの英文学論、シェイクスピアの『マクベス』の逐語的解説などの講義録、翻訳、英詩が収録されている。

「ホイットマンの詩について」は1892年、漱石が帝国大学文科三年の25歳の時に書かれている。おそらくはホイットマンの死をきっかけに書かれたようだが、「注解」にもあるように漱石は主にイギリス文学を学んでいたことを思うとアメリカの詩人もしっかり押さえていた視野の広さというものにも注目できる。それにしても現在これを読むと、漱石の書く「日本語」よりも引用されているホイットマンの散文詩の方がはるかに読みやすいということに、日本語を母語としている人間の多くが愕然としてしまうかもしれない。

「英文学形式論」は1903年の漱石の講義を後に受講生のノートによって再現したものだが、ここで漱石は執拗といってもいいほどに英語を中心とした文学の文体の問題にこだわっている。注目すべきはスティーヴンソンの「バラントレーの総領」を引用し、その平易な文体への好感を告白していることだ。「自白すると、私はスティーヴンソンの文章を適度外に面白がる癖を持つて居るかも知れない。此章を読む度に恰も古い民謡(バラッド)を読むやうな感じがする」としている。
漱石の小説は様々な実験を経て、とりわけ『三四郎』あたりから以降は現在でもそれほど違和感なく読めるほどの文体を編み出していったことを思うと、文体へのこだわりという観点からこの講義は興味深い。
またこの講義ではスティーヴンソン以外にも多彩な引用が数多くなされているが、イギリスで頭がおかしくなりそうになりながらもこれらをかき集めていたのだとと想像すると泣けてくる(実際は日本で収集したのかもしれないけれど)。


そして漱石の翻訳。
まずは1892年、漱石25歳の時に訳したアーネスト・ハートの「催眠術(「トインビー院」演説筆記)」である。これは文学作品ではないことに目がいく。漱石はウィリアム・ジェイムズなどの心理学に強い関心を寄せていたことはよく知られているが、「メスメリズム」などの催眠を扱ったこの文章はそのような関心の延長(というか原点)であったのかもしれない。そして翻訳の文体はというと「なりけり」の文語調で、いかにも当時の文章である。
オウガスタス・ウード(ウッド)の「詩伯「テニソン」」は82年か83年に雑誌に掲載されている。こちらも内容的には漱石の関心を窺わせるものであるが、文体的には「催眠術」と同じようなものとなっている。

1904年に訳された「セルマの歌」、「カリックスウラの詩」はいずれもジェイムス・マクファースンの長詩の抄訳である。こちらは詩ということもあって意図的に擬古文調に訳されているように思えなくもないほどに「古めかしく」感じられる。もちろんだからといって文学的価値がないということではなく、小宮豊隆はこの訳を絶賛していたように(もっとも小宮の漱石礼賛は割り引かなくてはならないのだろうが)趣深いものではある。

ただ1904年が『我輩は猫である』を書き始める一年前であることを思うと、詩と散文という違いはあれど翻訳を通して新しい文体を開拓していくのだという意気込みとは無縁であっただろうという印象もしてしまう。1892年と1904年の間には二葉亭四迷による衝撃的であったであろう『浮雲』、及びツルゲーネフの翻訳が出ていることを思うと、少なくとも翻訳における文体という点では漱石は保守的というか実験精神が薄かったようにすら思えてしまうが、それは漱石が翻訳を実験の舞台とは考えていなかったことの証拠ともなろうか。この直後に夏目金之助から漱石へと本格的に変貌を遂げていき、後年の文体を獲得するまで様々な系譜の作品を書きつらねることになるように、漱石が日本語散文の文体への意識が低かったわけではなく、むしろ逆であろう。

そして本格的に創作を行うようになった以降は、本格的に翻訳を行うことはなかった。漱石にとって翻訳とは、二葉亭のような新たな地平を切り拓くための冒険の場でもなければ、鴎外のような啓蒙の場でもなかったということなのだろう。漱石は自身の創作においてそれに成功したために翻訳に意識が向かなかった、ということなのだろうか。




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