『ザビーナ・シュピールラインの悲劇』

ザビーネ・リッヒェベッヒャー著 『ザビーナ・シュピールラインの悲劇 フロイトとユング、スターリンとヒトラーのはざまで』





日本語で読めるザビーナ・シュピールラインの伝記としては最も信頼性が高いのではないだろうか。
シュピールラインといえばどうしてもユングとの愛人関係に目がいってしまうのだが、多くの場合ユングに批判的な人はユングに厳しくユング派はユングに対して甘いという、当たり前といえば当たり前なのだが、そういう状況であったためなかなか「真実」というものが見えてこなかったのだが、その点本書はかなり公正に書かれているのではないかという印象を持った。

また「訳者あとがき」によると、シュピールラインの死についても従来の1941年とする説(著者は以前はこの説に基づいていた)から42年8月にナチスによって虐殺されたと変更されている。その他にも夫との結婚生活についてや革命後のロシアへなぜ帰国したのかなど、「ユングの愛人ザビーナ」としてではなく、ザビーナ・シュピールラインその人の生涯が膨大な資料に依拠して描かれている。


それにしても、本書を読んでいると精神分析について思いをめぐらしたくなってくる。
現在では治療法としての精神分析の有効性を信じている人は多くの国でかなりの少数派になっている。一方で批評のツールとしての精神分析は依然として盛んである。かくいう僕自身も、精神科にやっかいになる事態が生じたとしても、たとえ金と時間が豊富にあろうとも精神分析を受けたいとは思わないが、同時にまた精神分析を援用した批評をそれだけを理由に毛嫌いして受け付けないのかと言うそうではない。それどころか精神分析を用いた優れた批評は非常に魅力的だとすら感じることも少なくない。

なぜ精神分析が批評のツールとしてこれほど積極的に使用されるのかといえば、誤解をおそれずにいえば何にでも説明がつけられてしまうからだろう。ある指摘を認めればそれは精神分析の勝利であり、逆に否定すればそれこそまさに精神分析の勝利でもある。従って精神分析を援用した批評こそ最強となる。
ここで気をつけねばならないのは、精神分析によってテクストを読み解く行為を通して得られるのは、あくまで精神分析というフィルターを通過しての「真実」だということだ。精神分析的批評は快楽を与えてくれるが、これはまた論じる側に一種の全能感が生じてしまうことにもなりかねない。精神分析に好意的な精神科医が著名人や社会現象を「診断」してしまうという職業倫理上いかがなものかということがまま見受けられるが、これはテクスト(「人」や「社会」を含む)を解読する全能感に酔ってしまい、抑制心が効かなくなってしまうせいなのかもしれない。……なんてことを思うと、これこそがまさに精神分析の対象であるかのようにも思えてきてしまったりするのであるが。

フロイトとユングの関係に代表されるように、精神分析にたずさわった人々の振る舞いの多くが極めて精神分析的である。これは卵が先なのかニワトリが先なのかについて考えこんでしまう。つまり精神分析に妥当性があるからそうなるのか、それとも精神分析に触れたからこそあのような言動に及んでしまうのではないかという疑問である。

そしてザビーナ・シュピールラインとユングの関係こそ、その典型のように思えてしまう。シュピールラインと愛人関係になった後のユングの振る舞いを一言で表すなら醜悪であり、人間としてはもとより医師として、研究者としても倫理的に危うい行動に及んでいる。なぜあのような言動に及んだのかとういのは極めて精神分析的でもある。
シュピールライン自身も精神分析に「感染」していったようにも思えてしまう。少女期の記憶である、弟が父親にむきだしのおしりを叩かれているのを見て興奮を覚え、それ以降父親の手を見ただけで性的な連想が働いてしまうというのは典型的なものであろう。また足の踵でお尻をおさえてまで排便を我慢するなどというのも、肛門期という概念を知る側からするとかえってできすぎな記憶のように思えてしまう。そもそもこれらは当然ながらシュピールラインの内面のことで第三者からは検証のしようがなく、弟の折檻や便秘であった記憶を大幅に潤色している可能性を疑わずにはいられない。シュピールラインは、精神分析を知ることがなかったらはたしてこのような「記憶」を抱いたのだろうか。

ではそのような「疑惑」を抱いたからといって興ざめするのかといえばそうではなく、それを含めて精神分析とは何かについて考えさせてしまうのが、ザビーナ・シュピールラインというすぐれて精神分析的であり、悲劇的な生涯を送った女性なのだと思えてしまうのである。


ソ連やナチス政権の誕生といった、まさに時代によって運命が大きく翻弄された悲劇的な生涯でもあり、このあたりは精神分析云々ということを置いておいても興味深いものでもある。
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佐藤太郎(仮)

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