『フロイトのウィーン』

ブルーノ・ベッテルハイム著 『フロイトのウィーン』





「訳者あとがき」によるとベッテルハイムは1903年ウィーン生まれ、ウィーン大学で芸術史、哲学を学んだあと心理学専攻に、そして精神分析の研究を行う。38年には逮捕されダッハウ強制収容所などで約15ヶ月に及ぶ囚人生活を経験。翌年釈放されるとアメリカへ亡命、44年からはシカゴ大学で教鞭をとり、養護学校の校長として長年自閉症児の教育にたずさわる。90年に自ら命を絶っている。

本書には1956年から89年までに書かれた18篇のエッセイが収録され、「フロイトと精神分析について」、「子どもたちとわたし」、「ユダヤ人と強制収容所」の三部構成になっている。


ソヌ・シャムダサーニの『ユング伝記のフィクションと真相』にはユングが自伝というものに否定的であったことが触れられているが、このような考えはフロイトからきたものかもしれない。アーネスト・ジョーンズとエーリッヒ・フロムのフロイトの伝記を扱った「二つのフロイト観」で、フロイトの伝記を書きたいというアルノルド・ツヴァイクの申し出に対する1936年80歳のフロイトの言葉が引用されている。「誰であれ伝記を書くことを引き受けた人は、いやでも嘘、隠蔽、偽善、追従、さらには自分自身の無理解を隠すことに汲々とせざるをえなくなる」。


83年執筆の「ある秘められた非対称性」ではカロテヌートの『秘密のシンメトリー』を取り上げている。
ユング派の精神分析家であるカロテヌートは偶然にもザビーナ・シュピールラインの残した資料を発見し、『秘密のシンメトリー』としてまとめた。この本は「ザビーナ・シュピールラインがユングの生活と思想の発展に及ぼしていた無比の影響力、ユング派の精神分析とフロイト派の精神分析双方の発展において彼女が演じた役割、およびユングがフロイトとかかわりをもつようになり、のちに両者が不仲になるいきさつに彼女の存在が終始深くからんでいた事情」が当事者たちの手紙や日記などによって明らかにされている。

このエッセイのタイトルにあるように、ここでベッテルハイムが注目するのはユング、シュピールライン、そしてフロイトの三角関係のおりなす「非対称」であり、そして『 秘密のシンメトリー』という本に表されている「非対称性」でもある。
ユングがシュピールラインにあてた手紙の掲載はユングの相続者によって拒否されたために引用は部分的なものとなっている。そしてユング派の分析家であるカロテヌート自身も非対称性を演じている。カロテヌートはユングのプライバシーには慎重な配慮を示しているがシュピールラインへはそうではない。何よりシュピールラインをしばし「ザビーナ」と呼ぶ一方でユングのことを「カール」とは決して呼ばない。「これは公平な扱いの欠如で、不公平かつ迷惑であるばかりではなく、彼の議論がこれらふたりの人物を公平に扱っていないのではないかと疑わせる」。
カロテヌートはユングとシュピールラインとの関係が「プラトニック」なものであったことを読者に信じさせようとしているのだが、他ならぬカロテヌート自身が脚注においてふたりが性交していたことを隠喩的に表現してしまっているのである。これなぞまさに典型的な精神分析的例であろう。ベッテルハイムはシュピールラインという名前が「spiel(きれい)」と「rein(あそび)」であることも取り上げているが、精神分析について語る時、人はどうしても精神分析的にならずにはいられないのだということを痛感させられる。


という感じで精神分析関連の第一部が目当てで読み始めたのだけれど、第三部の「ユダヤ人と強制収容所」も興味深いものであった。
コルチャック先生を扱った「ヤヌシュ・コルチャック」は、その感動的にして悲劇的な生涯が紹介されている。コルチャックは医学部入学後、「子どもたちのカール・マルクスになる決心をしている気狂いの息子です」と自己紹介をしていたそうだが、これはイデオロギー的なものというよりは、めぐまれない子どもたちのために生涯をかけて戦う覚悟を示したものであろう。そしてその覚悟の通り、彼の命を救い出そうという試みがなされる中、それを拒否して子どもたちと共に強制収容所へ向かうことになる。

また「人類への希望」ではアンネ・フランク一家を助けるために危険を冒したミープ・ヒースの物語と、そして『アンネの日記』が残された事情における「彼女の勇気と人間性と品性」に「人類への希望」を見出している。

56年に書かれた「ダッハウにもどってきて」は自身が収容されていたダッハウ強制収容所を再訪した経験が綴られている。
ダッハウの住民たちの多くはヒトラーを憎んではいたが、それは人道的理由ではなく個人的な、卑近とすらいってもいい理由からだった。また道義的問題はシベリアへの強制連行によって相殺されたと感じている人々や、収容所をどう残していくのかという問題などは、戦争責任と記憶の問題を考えるうえで日本人も読んでおくべきものであろう。

しかし62年の講演である「ゲットー的思惟からの解放」はどうだろうか。
アイヒマンの逮捕は、「ナチによるホロコースト後に生まれた世代の者たちに、その犠牲者たちのことをもっと詳細に理解させ、彼らと自分たちが同じユダヤ人であるこという自覚を促す」という目的であったが、それが達成されたのかは怪しいのだという。「イスラエルの子どもたちは、何百万ものユダヤ人がヒットラーによって皆殺しにされたという話を聞かされると、容易に信じようとしなかった。彼らの反応は、「この人たちがユダヤ人であったはずはない。ユダヤ人は虐殺されるままになどなっていやしない。抵抗もせずに殺されていくようなまねは絶対にしない」というものであった」。このような論理は、皮肉なことにその後ホロコースト否定論者が持ち出すことになるものでもある。

ベッテルハイムはハンナ・アーレントから教えてもらったエピソードを紹介している。フランスで数千人のユダヤ人女性がドイツ軍に引き渡される前にある収容所に集められた。フランス人地下組織のメンバーが偽造身分証明書を用意し、それを使えば脱出も可能であった。このままでは彼女たちの前途に何が待ち構えているのかも説明されたが、それでも圧倒的多数はそれを本気にせず、実際に脱出したのはごくわずかであったという(アーレントはその中の一人である)。
ユダヤ人はなぜ戦わなかったのか。「勇気が欠けていたのではないかという問題ではない。欧米の軍隊においてユダヤ系軍人は、どの民族の軍人にも劣らず勇敢に戦った。イスラエルではこのうえない勇敢さをもって戦った。とすれば、ヨーロッパのユダヤ人はなぜヒットラーと戦わなかったのであろうか。その理由は彼らの内部から生じたのだとわたしは信じている。彼らの自己観はゲットー的人間観だったのである。彼らは自分たちを圧倒的に強大な敵に包囲されている無力な少数者として見ていた。事実彼らは少数者であったし、敵に包囲されてもいた。だが彼らは抵抗できないほど無力でも、孤立無援でもなかったのである」。
ベッテルハイムは「ゲットー的思惟は犯罪ではない、破滅的誤りである」と語っているが、イスラエルという国家がパレルチナ人に何をしているのかを考えると、この言葉には苦い気持ちにならざるを得ないところでもある。



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佐藤太郎(仮)

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