映画『コズモポリス』

早稲田松竹でクローネンバーグ監督の『コズモポリス』『危険なメソッド』の二本立て(6日までやってます)がかかっていて、ちょうど両方とも見逃していたものでこの機に。

まずは『コズモポリス』から。




原作の感想はこちらに書いたが、基本的なプロットは原作をほぼそのまま生かしている。
しかし映画版ではエリックのプライベートな部分(詩や素数を愛していること、名家の娘にして詩人の女性と結婚したことなど)を引継ぎながらもあまり前景には持ってこずに、リムジンの内部があたかも外界と断絶された空間であるかのような印象を与えているように、エリック個人の物語というよりは抽象化されている作品世界になっているとしていいだろう。

「ネズミが通貨の単位となった世界」、それは「カネ」が根拠を失った世界だ。「カネ」はネズミ算のごとく増えていき、殺鼠剤によって簡単に消滅もする。「カネ」が増えていることにも、「カネ」を失いつつあることにも、最早そこに物語は存在しない。資本主義の最前線に立っているかのようなエリックと資本主義を葬り去ろうとしているアナーキストたちが共振してしまう世界、それが「ネズミが通貨の単位となった世界」だ。

エリックは作中で数度のセックスを行うが、これは全て幻覚のようにすら思えてしまう。毎日健康診断を受け、健康を異様なほど気にするのは、「肉体」が「根拠」を与えてくれる確固たるものに思えるからであろう。しかしそれすらも揺らいでいる。
エリックは昔なじみの床屋に行くことを思いつき、どのような困難が起ころうとも頑なにこだわり続ける。エリックがすがることができるのはもうノスタルジーしか残されていないのかもしれない。


原作からの大きな変更点はその結末部分である。クローネンバーグはここで、原作よりもさらに抽象度を高める結末を選んだ。「カネ」の意味が失効した世界であると同時に、いわば生きることの意味すらも誰もが見失ってしまった世界になっているかのようだ。「前立腺非対称」が何を意味するのかを理解することができなかったエリックが、あの後何が起ころうとも(あるいは起こらなかったとしても)詩や素数の美しさを真に愛でることができる人間になれるとは思えない。

映画版の結末はこれはこれで良かったとは思うものの、原作と比べると一般的な物語に寄せた分焦点がボヤけてしまったのではないかという気もしてしまった。これならエリックを投資会社という、一体何から「カネ」を産んでいるのか不明でありつつも莫大な富を築いているという設定である必然性というものが薄くなってしまったのではないだろうか。

また原作(2003年発表)ではエリックは「円」に賭けといってもいい無謀な投機を行いこれが失敗しつつあるのだが、映画ではこれが「元」に変わっているのは時代のなせる業なのかもしれない。ただこれだと若いというかあまりに幼い天才中国人チンの持つ意味というのもちょっとブレてしまうようにも思える。このあたりは逆に中途半端に時事性を導入してしてしまったのかもしれない。

ただ原作のデリーロの批評性を引継ぎつつクローネンバーグ流のアレンジも施されているあたりは、なかなかに興味深い作品であったと思う。



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佐藤太郎(仮)

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