続・ケインズ嫌い

先日ニーアル・ファーガソンがケインズの理論とその性的指向とを結びつけて揶揄し、謝罪を行ったが、このような「ジョーク」はケインズ嫌いの人々の間で長く広まっていたのではないかということはこちらに書いた。

ポール・クルーグマンの『経済政策を売り歩く人々』は未読だったのだが、最近目を通しているとこれと関連して面白い箇所があった。

「しかし、ケインズに対して最も敵意を寄せていたのは右派である。/なぜ保守派はケインズ経済学を嫌うのか。耽美主義者で、同性愛者で、しかも、あの恐るべきブルームズベリー・グループの一員であるケインズという人物自身が嫌われているのだという答えもあろう。実際、歴史家のゲルトルード・ヒンメルファルブはヴァージニア・ウルフとその友人たちを攻撃して、共和党の伝統的な価値観である家族の重視という観点からケインズ経済学をあからさまに拒絶した。つまり、「即時的な現在の満足に価値を見いだすブルームズベリー・グループの風潮と、長期の判断を排除し短期のみを考慮するケインズ経済学との間には明らかな共通点があるというのであるが、こうした指摘は馬鹿げている。読者はこれまで述べてきたケインズ理論に不道徳なものを見いだしたであろうか。ヒンメルファルブス女史の発言は、ケインズ主義に対する保守派の反対が、ケインズのアイディアの論理性に向けられているというよりは、その主張が保守的な政策規律を退廃させてしまうことをいみじくも表している、と考えるべきである。/さらに真剣に言えば、政府の役割の増大がケインズによって正当化されていることを保守派は嫌っていたのである。ケインズ理論は不況期を、民間市場経済が一種の交通渋滞に陥ってしまい、政府の行動のみがそれを解消できる状態と考えている。ケインズは彼の支持者同様、社会主義者ではなかったし、資本主義のよりよい運営を求めはしたが、他の制度がとって代わるべきという主張はしなかった。にもかかわらず、保守派はケインズ経済学が政府の大々的な市場介入を許しかねないと判断し、それに代わる理論を探し出し、ケインズ主義を排除しようと企てたのである」。(文庫版 pp.62-62)。

ヒンメルファルブの主張は、ケインズは同性愛者で子どもがいなかったので長期的視野を持てなかったという趣旨のファーガソンの発言と一致するといっていいだろう。
小さな政府を訴える経済的保守派と、「家族の価値」を重視する文化的保守派が結びつくというのは客観的に見ると相当に奇妙なものであるのだが、両者は「規律」という点で結びついている。このような保守派からすると、ケインズ主義は野放図な財政赤字を垂れ流し財政規律をないがしろにする不埒な発想であり、ケインズその人の私生活は不埒なものであり、これらによって社会の「規律」が破壊される、ということになるのであろう。


しかし財政赤字を「倫理的問題」と結びつけることは、リベラル派にまで感染してしまっているといっていいだろう。
「かつて、財政赤字に甘かったのはリベラル派であった。ケインズ派マクロ経済学では、財政赤字は時として有益であると主張している。リベラル派はとにかく社会政策関連分野への支出を増やしたがり、その財源探しに一苦労する。一方、保守派は緊縮予算型で、政府負債の悪弊を常に警告してきた」。しかしサプライ・サイダーが主導権を握ると、「こうした伝統的パターンを一変させた」のであった。サプライ・サイダーは減税によって「たとえ赤字が増加したとしても、それによる経済的便益は、赤字懸念など帳消しにして余りあるほどだと考えたのである」。そして「まるで漫画のように立場が逆転した。リベラル派は、財政破綻を厳しく説く予言者となり、一方ジョージ・ブッシュはボビー・マクファーレンの『ドント・ウォーリー、ビー・ハッピー』という曲を、密かに自らのテーマソングにしているのではないかと思えるほどの楽観論者となった」(p.219)。

日本でも「リベラル派」(だけではないが)に、政府の財政赤字と個人の借金という成立しないアナロジーを基にして財政赤字を「垂れ流す」ことを倫理的に批判するのがよく見られる。
その結果としてアメリカでも日本でも、本来は対立するはずの財政赤字への考え方が保守、リベラルにおいて共通見解ができあがってしまい、不況時に財政規律を重視することによって事態をさらに悪化させるというのは未だに見られる現象である。

「たとえ『一九九五年の財政破綻』というタイトルの本が九三年に何ヶ月もベストセラーの上位にランクされ続けたとしても、金融市場はアメリカ財務省が発行する国債を喜んで購入しているのである」(p.229)というような話は日本国債でも延々とネタにされているのだが、いくらこのような「予言」が外れようとも繰り返し現れるというのは、それだけ意識下に根深く浸透していることの証であろう。


という感じで、『経済政策を売り歩く人々』は原著が94年、邦訳は95年の刊行であるのだが(文庫化はクルーグマンのノーベル経済学賞受賞をうけて2009年)、現在読んでもまだ古びていない。しかしこれは裏を返すと、クルーグマンのような立場が依然として傍流にあるということでもある。。

クルーグマンは、「私は富裕層に課税し、その税収を貧困層や不幸な人々を助けるために使うような社会を支持している」と、「私はリベラル派である」という旗幟を鮮明にしている(p.17)。時期によって個別の政策については多少の温度差があるとはいえ、基本的には現在にいたるまでクルーグマンの立場は一貫している。

第1章が「ケインズへの攻撃」、第8章が「長期的にはケインズ経済学はまだ健在である」という章題が与えられているように、ケインズを高く評価している。しかし60年代後半からケインズ主義への保守派の逆襲が始まり、それがヘゲモニーを握ることになる。クルーグマンは保守派の経済学者、及びその理論を論駁すると共に、すでに破綻は明らかな保守派の理論がなぜこうも影響力を持っているのかにまで筆を進める。そこには「政策プロモーター」の影があるというのが本書でのクルーグマンの見立てである。時には学者の皮をかぶっていることもあるが、多くはジャーナリストのような、理論を単純化し口当たりのいいもっともらしい、しかし冷静に考えると滅茶苦茶な主張をする連中が政治に対して影響力を行使しているためである。

例えば「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙では1972年にロバート・バートレーが論説欄担当になると、「同紙はそれ以降、経済問題の扱いには、慎重に過ぎることもなく、不偏ということにもこだわらないと表明し、以降同紙は、バートレーの考えを攻撃的なまでに主張するようになったのである。バートレーは自信家で、まわりのほとんどの者が彼は常軌を逸していると心配しても、自分は正しいと確信していた」(p.128)。

「サプライ・サイド経済学の形成期には、主流派経済学者や政治家で、サプライ・サイド経済学をまともに考えようとする者はほとんどいなかった。ウォール・ストリート・ジャーナル紙というすばらしい舞台で議論されたおかげで、他の怪しげな経済学よりはずっと人目に触れる機会は多かったが、それ以外の点では単に珍妙な理論であり、その主張は反駁にも値しなかった。経済学の主流派が重視していた議論は金融政策であり、合理形成仮説対ケインズ経済学であり、連銀の適切な役割に関するものであった。/しかし、主流派は間違っていた。サプライ・サイダーは華々しいクーデターをもくろみ、カーター政権の中道派ケインジアンからだけでなく、一般的な保守派からさえも権力を奪い取ろうとしていたのである。/サプライ・サイダーが権力を握ったのは、ある程度までは、以下の三つの出来事が同時に起こったためであるといえる。サプライ・サイド経済学は、大統領に立候補するようなベテラン政治家の心をたまたま捉えた。それも、悪運とひどい経済運営とが経済的混乱をひきおこした時期と重なった。そして、これら一連のことが、第1章で述べたような経済学会内の争いによって経済学主流派の信念が揺らいでいた時期と重なったのである」(pp.150-151)。


このような「政策プロモーター」批判以外にも本書でのサッチャリズム批判は、中道左派という意味で「リベラル」と称する人なら今でも(いや、今こそ)大いに耳を傾けるべきものであろう。
またヨーロッパの通貨統合問題でもクルーグマンはすでにこの時点で問題点を明らかにし、悲観的見通しを語っている。このあたりはさすがといえばそうなのだが、ケインズは自らを正しい予言をしようともそれが受け入れられないカッサンドラに例えたが、クルーグマンもこれに近い結果になっていることを思うと複雑なところでもある。


本書はクリントン政権誕生後に書かれている。クルーグマンらしいと思えるのは、保守派をばっさり切り捨てた返す刀でクリントン政権にも「政策プロモーター」が深く食い込んでいるとして、政権入りしたライシュなどを切り捨てていることだ。確かに「アメリカ経済の問題点の原因が国内にあるというよりはむしろ「国際競争力」にあるとする間違った思い込みによって、他の経済政策の運営を誤るという問題点を生じさせてしまったのである」(p.405)というクルーグマンの指摘はその通りなのであろうが、作らなくてもいい敵まで作っているように思えなくもない。

クルーグマンは自他共に認めるリベラル派の経済学者でありながら、クリントン政権でもオバマ政権でも要職に就くことはなかった。リベラル派の「政策プロモーター」への批判は一部で囁かれるたようにクルーグマンの嫉妬の表れだったり逆ギレなのか、それともこんなに歯に衣着せぬ発言を繰り返すようなのは危なっかしくて要職には就けられないという判断が民主党側に働いたのかは、卵が先かニワトリが先かという議論なのかもしれない。

本書で若手の優秀な経済学者として比較的好意的に紹介されていて(そして今ではおそらくその意見を変えているであろう)その性格にはかなり問題を抱えているサマーズのような人物や、スティグリッツのようなバリバリのリベラル派の経済学者ですら要職に就いていることを考えると、クルーグマンがどれほど扱いづらい人間なのかということは想像がつく。
本書は予備知識なく読むと、若き日から天才と目されていた四十そこそこの経済学者による本というよりは、論争的なジャーナリストによるものだと思ってしまうかもしれない。後に「ニューヨーク・タイムズ」のコラムニストになることを自ら予言したとも感じられてしまうように、良くも悪くもクルーグマンはクルーグマンなのだということが堪能できるものとなっている。




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