『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』

スティーヴン・バック著 『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』





レニ・リーフェンシュタールの生涯をざっとまとめるとこうなる。1902年にベルリンに生まれる。ダンサーとしてキャリアをスタートさせるが足の怪我で断念。映画界へ進出し、冬山でのロケをものともしない体当たり演技を山岳映画で披露し女優として注目を浴びる。ナチス政権が誕生するとヒトラーをはじめとする幹部たちに取り入り、『意思の勝利』や『オリンピア』を監督する。戦後はナチスとの関係もあって激しい毀誉褒貶にさらされながらアフリカや水中などを被写体に映画監督や写真家として活躍。2003年に死去。


本書はこう締めくくられている。「レニは死ぬまでその生き方を全うした。改悛の念を持たず、自己愛に溺れ、鎧を身にまとって」。
リーフェンシュタールとは何者であったのかという問いに対する答えはこれで十分だろう。

リーフェンシュタールはナチスとの関係について、自分は政治には無知だっただけであり、歴史の後知恵で裁こうとするのはフェアではないと死ぬまで主張し続けた。リーフェンシュタールの中に親ナチ的傾向があったのは間違いない。では徹頭徹尾ナチに染まりきっていたのかといえばそうでもないだろう。もちろんこれによってリーフェンシュタールの「罪」が減ぜられるのかといえばそうではない。無知、無関心であったこというのは、ある意味ではその通りであろう。それはつまり、ナチスの蛮行を目の前にしても何も感じなかったということである。そしてリーフェンシュタールはその野心をかなえるために、利用できるものは何でも利用した。それがナチスやヒトラーであろうとも。


様々な意味で「リーフェンシュタールらしさ」をもっとも感じさせるのはベルリン・オリンピックにおける『オリンピア』の撮影中のエピソードだろう。『ニュヨーク・タイムズ』の特派員が「オリンピックでの撮影に関するかぎり、彼女の言葉が法律だ」と書くように、我が物顔でスタジアムを闊歩する。他のメディアを押しのけるばかりか、競技の進行を無視してフィールドの中にまでそれを持ち込む。ハンマー投げの最中に審判からフィールドの外に出るように注意されると、リーフェンシュタールは「あんたの耳をつかんで、総統の席まで引きずっていこうか!」とすごんだのであった。
これに激怒したのがゲッベルスであった。ゲッベルスは公の場で謝罪しない限りスタジアムへの立ち入りを禁止すると脅した。ゲッベルスは日記に、「リーフェンシュタールのひどい態度を叱責。ヒステリックな女だ! 男なら、ああはならない!」と書いている。さらにリーフェンシュタールはキューを出されたかのように「涙を流した」とも。

ゲッベルスのミソジニーが表れているのだが、またリーフェンシュタールが「女」を利用することを厭わなかったのも事実である。ある時には涙を流し、「ヒステリー」とされるような感情の起伏を、演技を含めて隠すことなくさらし、そして色仕掛けもためらうことはなかった。このような愁嘆場は戦後の数多くの裁判でも見られることになる。

リーフェンシュタールはベルリン・オリンピックでの黒人のジェシー・オーエンスの活躍を大きく取り上げた。リーフェンシュタールは「肉体の美」に魅せられていたのであり、肌の色によってその美的感覚がくもることはなかった。そしてリーフェンシュタールは戦後には自分が人種差別主義者でないことの証拠としてこれを好んでアピールするのであった。

確かにリーフェンシュタールは『オリンピア』において黒人選手を排除しなかった。またドイツ選手を偏って取り上げることもなく、映画そのものにドイツ・ナショナリズムを積極的に煽る部分はあまり見られない。ではこれがリーフェンシュタールのナチへの抵抗の証であるのかというとそうではない。実はこのような方針は他ならぬゲッベルスが立てたものであった。
ゲッベルスはこう語っている。「ドイツ報道機関は、ジェシー・オーエンスをくりかえし批判し、彼の態度をけなしたり、皮肉を浴びせている。そのようなあら探しは、諸外国に好印象を与えない。ドイツはオリンピックのあいだだけ、やむをえず外国からの客に配慮したと思わせてしまうからである」。さらにゲッベルスは国別のメダル数の順位を報道しないよう要請してもいた。「国家間の競争ではなく、選手同士の競争」なのだから、と。
無論ゲッベルスは「善意」からこのようなことを言っていたのではない。これも含め、ベルリン・オリンピックから政治色を抜くというのがプロパガンダ戦略であったのだ。つまり「『オリンピア』は、ゲッベルスが考えたオリンピックのシナリオに背くことなく、むしろ緊密にそれと同調して、新生ドイツに光をあてた。まばゆい光のせいで、ナチの政策は見えにくくなり、ユダヤ人の公職追放やジプシーの強制退去といった現実から目をそらさせた」のであった(p.288)。


ベルリン・オリンピックは聖火リレーや記録映画など、様々に後のオリンピックのイベントの先取りをしたとされる。また現在でもオリンピックのような国際イベントに合わせてホームレスの排除など「街の浄化」が行われるが、ベルリン・オリンピックでは「ジプシー」がその標的とされた。ジプシーはそのまま収容所に送られたのである。

リーフェンシュタールは『オリンピア』の後に『低地』の撮影に取り掛かる。ここでリーフェンシュタールは収容所にいたジプシーたちをエキストラとして使うことになる。エキストラとなった人々は撮影が終わるとそのまま収容所へ戻された。ギャラはもちろん受けとることはなく、待遇も改善されないばかりか、多くがそのまま命を落とすことになる。リーフェンシュタールがこの時エキストラとして出演した人々を解放することが可能であったのかといえば難しかったであろう。しかしだからといって、このグロテスクな出来事を正当化できるものではない。しかしリーフェンシュタール謝罪や悔恨を口にするするどころか、戦後も一貫して居直り続けるのであった。

その他にも「総統のあとを追って」ポーランドへ渡り、そこでドイツ軍による虐殺を目撃した可能性がかなり高い。しかしこれも目撃したことをリーフェンシュタールは否定する。また当時の混乱状況について虚偽の説明も行っているが、銃撃戦が始まった後のリーフェンシュタールのおびえきった表情を捉えた写真が、その嘘を暴いている。
リーフェンシュタールは初めてヒトラーの名を聞いたのは1932年のことであったと主張し続けるが、ヒトラーがすでに長らく派手に新聞紙面をにぎやかしていたことを考えるとこれはとても信用することはできない(リーフェンシュタールは新聞を丁寧に読み、自身に言及された記事のスクラップを作っていた)。リーフェンシュタールは1938年になって初めてラジオを聞いたと振り返っているが、1932年の時点でラジオ出演までしているのであった。無論記憶違いは誰にでもあることとはいえ、リーフェンシュタールの虚偽の主張は自己防衛であることが明白であるばかりか、たとえ動かぬ証拠を突きつけられ、誤りを指摘されても訂正することはなかった。


リーフェンシュタールは戦後、行く先々で抗議運動が吹き荒れることに被害者意識をつのらせる。一方でジャン・コクトーなど彼女をその卓越した能力から暖かく迎え、支援を行った人物もまたたくさんいたのである。
倫理的に極めて問題のある映画が優れた手法で撮られている場合どのように評価すればいいのだろうか(このような映画は少なからず存在している)。「それはそれ、これはこれ」と過去の政治的過ちは水に流し、作品を救い出すべきなのか、あるいは映画史から徹底的に抹殺してしまうべきなのであろうか。

著者はこの点についてスーザン・ソンタグの見方を取り上げている。ソンタグはこう書いた。「レニ・リーフェンシュタールの『意思の勝利』と『オリンピアード(原文ママ)』を傑作と評することは、ナチのプロパガンダを芸術性に免じて見逃すことではない。ナチのプロパガンダはそこにある。だが、それ以外の何かがあることも確かだ。それを無視することは、われわれいとって損失である」。著者は「芸術性とプロパガンダを同時に認めたのは、ほとんどソンタグだけだったといっていい」としている。しかしソンタグは、リーフェンシュタールが戦後スーダンで撮った『最後のヌバ』を見て、そこに「心を乱す嘘」があるのを見出し、さらに考察を進める。ソンタグはここから「ファシズムの魅力」(1974年。『土星の徴の下に』に収録)を書く。「ファシズムの美学を定義」し「批判する叩き台として、レニの生涯と作品をとりあげ」た。

ソンタグは『意思の勝利』と『オリンピア』を、おそらく「映画史上でもとりわけ優れた二つのドキュメンタリー作品だろう」としている。しかし『最後のヌバ』には「レニが第三帝国のプロパガンダ映画を作ったことについても一切触れられていなかった」。リーフェンシュタールは自らの歴史を書き換えようとしていたのである。ソンタグは『最後のヌバ』を「ファシスト映画三部作の第三作」と位置づける。「人びとが構図の美しさでリーフェンシュタールの映像美にひきつけられるというとき……そのような美への鑑識眼は、奇妙なほど無批判な態度でプロパガンダを受け入れる土壌を準備する。そのプロパガンダには、下劣な感覚がこめられている――人びとをまともに扱おうとしない感覚である」。ソンタグはヌバ族の写真集に「美を至上のものとする価値観」があるとし、「ヌバの完璧な肉体を「原始主義の理想」として賛美」」しているとする。ソンタグはスタイル重視の視点から、「少数派ないし反社会的という理由から擁護」したかつての自分の誤りを認め、「リーフェンシュタール作品のような芸術の場合、美よりももっと大事な要素がある」と書く。「ファシスト芸術は服従を賞賛するからだ。思考の放棄を促し、死を美化するからだ」。
「リーフェンシュタールの映画はいまだに力をもつ」、「なぜなら、その内容はロマンティックな理想であり、それはいまでも人びとの心に訴える」。「その理想とは、芸術としての人生、美のカルト、勇気へのフェティシズム、知性の放棄である。(指導者を親と仰ぐ)人類みな家族」という思想である。ソンタグはリーフェンシュタールを、そのような思想について「何も考えていない」とする。リーフェンシュタールは「美を崇める不屈の女司祭、美の中毒者」であるとしている(pp.467-468)。

ヒトラーに心酔していたゲッベルスは自殺をする。リーフェンシュタールはナチスとの関わりについて無反省なままに生き続ける。ではヒトラーの死や第三帝国の崩壊に幻滅も絶望も覚えず、かといって悔悟の念に捉われることもなかったリーフェンシュタールは徹底的に非政治的であったのだろうか。そうではない。まさにこのような「美」を通して知性の放棄や服従を唱えるという「非政治性」こそが、紛れもないファシズムへの貢献であった。そしてそのようなスタイルを終生持ち続けていたのである。リーフェンシュタールの作品をどう評価するにせよ、この部分をないがしろにすることはできない。


本書ではこのソンタグと近いともいえる立場をとるある人物が紹介されている。それはアイヴァー・モンタギュー。そう『ナチを欺いた死体』にはソ連のスパイとして、『ヒッチコック』では若きヒッチコックの窮地を救い、『チャップリン』ではチャップリンのコックニーを見破り慌てさせるあの男が本書にも顔を出している。

「ロンドンでの『オリンピア』上演以後、レニの作品を再評価することにとりわけ熱心だったのは、ロンドンのイギリス映画協会に所属する映画人たちだった。一九六〇年四月、イギリス映画協会はレニを招待し、ナショナル・フィルム・シアターでの講演を依頼した。これは世界的な名士を招いた上映会のシリーズの一環であり、レーニン平和賞を受けた左翼のアイヴァー・モンタギューや、まだ国際的なスターになっておらず、おもにラジオの『グーン・ショー』で有名だったピーター・セラーズなど、ゲストの多彩さで知られていた。/レニを招けば議論が沸騰することは確実だった(モンタギューは辞退し、セラーズは辞退しなかった)が、反対の声があがったのはともかく、もっと激しい怒りを呼んだのは、レニの伝記資料に『意思の勝利』への言及がまったくなかったことである。これほど悪辣なごまかしはなかった。モンタギューは公の場で、『意思の勝利』を「傑作ではあるが、英雄崇拝の追従にあふれた、血も凍るほど邪悪な作品」と非難した」(p.438)。


また現れたな、アイヴァー・モンタギューという感じで、本当にアイヴァーのきちんとした伝記を誰か書いてくれないかなあ。



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