『エリジウム』


『第九地区』が大傑作であったことに異論のある人はまずいないだろう。南アフリカの歴史、政治、社会情勢を背景にしつつも普遍的物語でもあり、笑いあり涙ありでカタルシスも十分に得られる。そしてSF作品ならではのガジェット的楽しさも満載であった。

その『第九地区』のニール・ブロムカンプ監督の最新作が『エリジウム』である。
結論から言ってしまうと、『第九地区』と比べると一段劣るなあという印象は否めなかった。まあSF映画史に残るのではないかというほどできの良かった前作と比べられると辛いよのう、というところなのだろうけど。


以下若干ネタバレっぽい部分もあるので未見の方はご注意を。




2154年、超富裕層は「エリジウム」というスペース・コロニーで快適な暮らしをしていた。「エリジウム」では各家庭に備え付けられている医療ポッドによりどんな難病も大怪我も即座に治療することが可能であった。一方地球では、貧困層が劣悪な環境の中、奴隷のような暮らしを強いられている。


「現在の格差社会を映し出したものだ」というような論調でこの作品を「社会派」であるかのように語っている人がいるが、このような設定はむしろディストピアものSFではむしろ古典的だといっていいほどありふれたものであろう。
地球のパートではアメリカはロサンゼルスが舞台となっている。脚本も手がけたブロムカンプがメキシコ側からアメリカを眺めた実際の体験が本作に強く影響していることはよく知られている。物語中での荒廃したロサンゼルスはあたかもメキシコのスラム街のようだ。カリフォルニアやその他いくつかの州はメキシコ領であったのを戦争によってアメリカがぶんどった土地であるが、近年アメリカではメキシコとの国境で不法移民の取り締まりを強化せよとの声が高まっている。治療のため生死を賭けて「エリジウム」に「越境」しようとする貧困層は、危険をおかしてでも国境を越えようとするメキシコ人の姿が反映されていることは間違いのではあるが、ただこのあたりの現実の歴史や社会情勢と映画の設定とが有機的にリンクしているかといえばやや苦しかったように感じられた。

『エリジウム』において一番残念であったのは、『第九地区』にあったユーモア、とりわけ風刺的な笑いというものがほぼ欠けていたことである。これはそのまま現実社会への批評性の後退であるとすることもできよう。確かに現実の出来事から物語のヒントを得てはいるのだろうが、にもかかわらず全体が抽象化されているという印象でもある。


この作品にとって致命的だったのはその設定の甘さにあるだろう。上辺だけで世界観をきっちり煮詰めていないという感じが否めない。
例えば「エリジウム」の政治や行政のシステムがどうなっているのかが不明瞭すぎる。一応は法や人権に配慮をしているところを見ると、形骸化しているとはいえ民主主義的な社会なのだろうと想像できる。しかしそうであるならば、データを書き換えるだけで「総裁」を追放できるというのは無理があるだろう。一方で民主主義が完全に機能していないのであらば、ジョディ・フォスター演じるデラコート長官は仕事をもっと思い通りに(つまり残虐非道に)やれるのではなだろうか。

その他にもいろいろと突っこみどころをいちいちあげていけばキリが無いのであるが、このあたりは厳しくいってしまうと設定が甘いというよりはその場その場の思いつきによってストーリーを構築した結果のようにすら思える。隙があろうとも魅力的な作品もいくらでもある。ただ穴があまりにも大きすぎると物語に没入しにくくなってしまうのもまた事実である。

「穴」が大きいSF作品というのが概してそうであるように、『エリジウム』も結局は敵が自滅していっているだけのように見えてしまう。デラコートがあれほど「エリジウム」への不法侵入に神経を尖らせているのであらば、二重三重の防御システムを導入していると考えるほうが普通であろうが、むしろ無策なまま放置しているかのようだ。

また地球のパートでは、マット・デイモン演じるマックスはケガを負うと工場の仕事からすぐに追われそうになるように、地球の雇用状況は厳しいのであろう。労働者同士が仕事を奪い合うという関係から互いの苦境に無関心になるばかりか、ライバルの脱落に喜びを憶えるというところまでいくと思いきや、マックスが工場で被曝した後の周囲の労働者の反応を見ると労働者同士の連帯はそれなりに存在しているようである。その割には労働組合もなければ地下の抵抗組織なども存在しないようだ。瀕死で余命いくばくもない状態でほっぽり出されたマックスが頼れるのは親友とかつての犯罪仲間である。政治運動などを導入しなかったのはいさぎよく割り切ったといえなくもないが、そうであれば工場はもっと殺伐としていてもよかったのではないだろうか。このあたりもどうにも中途半端である。

病人を非合法に「エリジウム」へと送りこむスパイダーはあくまで金目当てのようであったが、ある展開からスパイダーも必ずしも金のことだけを考えている人物ではないということがわかる。このあたりも「改心」したのかもともとそういう傾向を持っていたのかがもうひとつはっきりしない。別に政治意識が希薄だからダメだということではなく、スパイダーは「スター・ウォーズ」のハン・ソロ的なキャラクターに仕立てることもそう難しくなかったことを思うと、もう少し工夫があればより効果的であったのかもしれないと思ってしまった。

このように登場人物全体が「善」の側も「悪」の側ももう一捻りほしいところなのだが、単に定型をなぞっているだけのように見えてしまう。「エリジウム」の住民が超のつく富裕層であることはわかるのだが、日常生活がどのようなもので、またどのような人格的、政治的傾向を持っているのか、地球の貧困層をどう見ている(あるいは視界にすら入っていない)のかというのが示されない。
全体として主要登場人物にしてもその他のモブキャラクターにしても肉付けが薄く一面的であるという印象がぬぐえない。


……と、かなり厳しく書いてしまったが、これも『第九地区』があまりに出来がよかったせいで期待過多になっているせいといえばそうでもあろう。見るに耐えない駄作というわけではなく、前作が云々といった予備知識ゼロで見ていたらそれなりに楽しめる作品ではあると思うので、過剰に期待を持たれるのも大変なのだろうなあというところでもあるのだが。
ただもう少し工夫があれば(それもそう大掛かりなものではなく、ちょっとした脚本の手直し程度のものでも)ずっと良くなっていたのだろうと思うと惜しいなあというところであった。


それから、『第九地区』でヴィシャスを演じたシャールト・コプリー は今作では残忍な工作員クルーガーを演じている。このクルーガーも全世界が滅びようともただ目の前の敵をぶっ殺したいだけだといったキャラクターのように見えたのだが、妙に生臭い野心を抱いてしまうといったあたりも逆効果のように感じられた。
ところでコプリーの乳首が妙に真っピンクであったように見えたのだけど、あれって地なのだろうか、とどうでもいいことも気になってしまった。




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佐藤太郎(仮)

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