中江丑吉

『日本政治思想史』(渡辺浩著)を読んでいたらこんな箇所があった。

「洋行帰りの知識人として、彼〔中江兆民――引用者註〕は、いくらでもハイカラに気取ることもできたはずだった。しかし、彼は、断乎として藩閥や華族の対極に身を置くことを選んだ。それは号だけではなく、身なりにも及び、股引き・腹掛け・印半纏で演説会に登壇したりもした。それ自体が、権威主義の批判である。華族で食事の際には、(当時としては異例にも)「ねえや」まで一つの食卓を囲み、娘には「チビ(千美)」と、息子には「丑吉」と名付けた。丑年生まれで、「大きくなって車夫馬丁になってもおかしくないように」ということだったという。さらに、弟の子には、顔がサルに似ているとして「猿吉」と命名した。しかも、その子は女の子だった(以上、竹内千美「父兆民の思い出」)。奇行のようであり、彼を奇人とする世評もあった。しかし、転換や失敗も含め、彼の言行にはある一貫した意思が感じられる。実際、死の床にあって、「操守るある理想家」と評された時にこそ、彼は「真に愉快を感じ」たのであった(幸徳秋水『兆民先生』)」(pp.457-458)。

中江兆民の奇行は存命中からすでに広く知れ渡っていた。ただ兆民の場合、上の引用にもあるようにそれが自らの思想的立場をわかりやすく表すためのパフォーマンスという側面もあっただけに話はややこしい。いったいどこまでが思想的背景があり、どこからがエキセントリックな性格によるものなのかということが判然としない。
息子丑吉の命名の由来は有名であるが、これは明らかに思想的なものだといえよう。一方で娘の千美(ちび)となると奇行に近いものを感じさせる。姪っ子(!)に「猿吉」と名付けようとしたというところまでいくと完全に奇行だといっていいだろう(実際には付けられなかったという話もあるけどどうなんだろう)。





と、こんなところを読んだついでにといってはなんだが、ジョシュア・A・フォーゲル著 『中江丑吉と中国  一ヒューマニストの生と学問』も読んでみた。






兆民が事業に乗り出しては失敗するということを繰り返したため、中江家の家計は兆民存命中から苦しいものであったが、丑吉12歳の時に兆民が死去すると状況はいよいよ深刻になっていく。それでも姉の千美と丑吉が学業を続けることができたのは兆民の友人や弟子たちの支援があったからであった。
そのことを知ってか知らずか、丑吉の学生生活は誉められたものではなかった。一高の受験に失敗するが七高へと進学、そして帝大法科へと進む。これだけを見るとエリートコースに踏みとどまったようであるが、丑吉は英独の小説などを読みふけり、寄席通いなどで勉強そっちのけ、語学を除けば成績は冴えないものであった。官僚にはならずに満鉄に就職するがすぐに飽き、兆民の友人であった(しかし思想的には対立するものでもあった)有賀長雄が袁世凱政府の顧問になるのを受けて、これに秘書として同行することになった。この仕事を探してきたのは、兆民の死後に中江家に下宿していた曹汝霖であった。

曹汝霖はその後も丑吉を物心両面で支え続ける。そして丑吉にとってもう一人の恩人が兆民のフランス留学時代からの友人であった西園寺公望である。
このように丑吉の生涯を辿ろうとすると、どこまでも兆民の影がつきまとっていくようでもある。丑吉は父との思い出をあまり残していないところなどを見るとこれには複雑な思いがあったのかもしれない。兆民は「東洋のルソー」と呼ばれたことからもわかるようにフランス語の使い手であったが、丑吉はフランス語ではなくドイツ語を学んだ。このあたりに丑吉の微妙な心理がうかがえるかもしれない。

しかしこの親子はまたよく似たところもあるのも確かである。
丑吉の学生時代の放蕩っぷりは父を思わせなくもない。また丑吉は北京で芸者をしていた里子と結婚する。これには吉田茂の異母兄である竹内虎治と結婚していた千美は世間体を気にして猛反対するが丑吉は意に介さなかった。このあたりの「身分」への考え方も父ゆずりなのかもしれない。結局丑吉と里子は別れてしまうのだが、丑吉は離婚後も里子にきちんと生活費を払い続けたそうである。
著者は何よりも両者に共通するヒューマニストとしての性格に注目する。兆民は死の床で幸徳秋水に、自分は革命党であるがルイ十六世がギロチン台に登らされるのを見たなら駆け寄りこれを逃がしたことだろうと語ったそうだ。「丑吉は、誰の生命であろうと、人間の生命を守ることが他のすべてに超越するというこの信念を、かれの父と共有していたのである」(p.6)。

兆民はルソーの『社会契約論』の「漢訳」を出した。漢語を学ぶことの重要性を訴え続けその主張によって教職を辞するという経験までしている。すっかりスポイルされて育った丑吉が中国に渡り、学問に目覚めていったのは当然のことであったのかもしれない。


秘書の職を失った後に一時帰国をしたものの、丑吉は再び中国に渡るとそのまま残り、カント、ヘーゲル、マルクスなどのドイツ哲学を読みつつ、中国の古典の読解に取り掛かることになる。しかし完成した論文を小部数しか印刷に回さず、一般にはほとんど無名のままその生涯を終えることになる。このあたりは、隠遁に近い学究生活というものが西園寺をはじめとする父の知己の援助なくしては成り立たないいということが十分にわかっていたための罪悪感にあったのかもしれないとも思えてしまう。

1934年に書かれた論文の「はしがき」で、丑吉は片山潜のような「老革命家」に「よくそんな古い事に興味が持てますね」と不思議がられ、吉田茂と思われる「一外交官」から「三千年も四千年も昔の事が当代に何の益あありやと一喝された」ことを振り返っている。このはしがきは「友人たちでさえ、自分が学究気取りで何か神秘的な世界に夢中になっていると考えたという事実に心を痛めて」書かれたもので、「自分に関する限り、古代史の研究は現実世界からの逃避では決してないということを説明しようとし」たものである。

日中戦争が起こって以降の丑吉について著者はこう書いている。
「地下組織に参加して肉体的に日本帝国主義に抵抗するのではなくして、中江は、個人的な清廉というかれ独自の考えに調和した姿勢で生活することを選択した。私的な抵抗の行為として、中江は、例えば、日本陸軍の強制する北京での日本時間に従うことを拒否し、自分の時計を中国の現地時間に合わせつづけた。かれは、話をする相手の誰にでも、日本のアジア侵略はまさしくそう呼ばれるべきであり、「事変」、「聖戦」、「非常時」、「大東亜共栄圏」等々、政府がアジア侵略を説明するのに用いる空疎で婉曲な用語によって弱められてはならないと主張した」(p.178)。

このように丑吉はファシズムを断固拒否し(ある時期までヒットラーよりもムッソリーニの方を蛇蝎のごとく嫌っていたというのは興味深い)、左翼的な人間でさえ流されがちであったファナティカルなナショナリズムに同調することは決してなかった。
同時にまた、丑吉はマルクスを読みつつも自分はマルクス主義者ではないと言い、片山潜を自宅に泊めるなどしたが、あくまで教条主義的マルクス主義とは一線を引いていた。佐野学とも面識があったが、佐野が獄中で転向し、出獄後に中国研究にとりかかるために中国の古典の経典求めてくると、丑吉は「佐野は、あのまま獄死してしまった方がよかったな」という激烈な言葉も残したとされている。丑吉には佐野の思想がどうかということではなく、このような信念のなさが許せなかったのかもしれない。


現在の目から見ると丑吉のような立場は非の打ち所がないようにも映る。ただ同時にあまりに「清廉」すぎはしないかという気がしなくもない。

「満州事変」の中心人物であり、対中国最強硬派の一人でもあった今田新太郎は丑吉と古くからの知り合いであった。「事変」後も二人は文通を続け、丑吉は様々なレトリックを用いて直接間接に日本軍の行いを批判し、日本に勝ち目がないことを書き続けた。それでも今田は華北情勢についての顧問になることを丑吉に要請する。また1940年には近衛文麿が二度目の首相に就任し、泥沼化の様相を呈し始めていた中国情勢を懸念して、丑吉に協力を要請する。丑吉は「両方ともにべもなく拒絶した」のであった。「いかなる状況の下でも、かれは、公的な日本の占領活動に巻き込まれる気はなかったのである」(p.193)。

「ゾルゲ事件」の尾崎秀美が近衛の側近となり政権中枢にまで近づけたのは尾崎が中国問題の専門家であったためだ。もしかすると、丑吉は尾崎のような立場になっていたかもしれないが、そのような道は選ばなかった。
丑吉の行動は立派であることは間違いない。しかしまた、手紙についての今田側の反応は残っていないが、その後の言動を見ると丑吉が今田に影響を与えたとは思いづらい。むろん丑吉が別の形の「抵抗」をしたからといって、大きな影響を与えることができたとも考えづらいことも確かである。影響を与えなかったからこそ「清廉」さが貫けたのかもしれない、というのはうがった見方になるのだろうか。

はたしてあのような状況に自分が置かれたならいったい何ができたのだろうか、またああなる前に何をすべきだったのだろうかということも合わせて、中江丑吉という人物についてはもっと知られ、考えられていいのではないだろうか。

最後に橋川文三が、丑吉の書簡集を読んでと思われる言葉を孫引きではあるが引用しておこう。
「その〔中江の〕本来の面目は、あたかも世界精神に化身したかのような歴史的達識と、人間性に対する無限の信頼と愛にあった」。


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佐藤太郎(仮)

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