『犯罪』

フェルディナント・フォン・シーラッハ著 『犯罪』




11の犯罪をめぐる短編には共通の語り手である「私」が設定されている。「私」が弁護士として体験した事件を綴ったという形式なのだが、その姿はとりわけ各作品の前半部分では後景にあり、三人称で書かれているかのようだ。この連作短編集の一番の魅力はそのような「語り」にある。

同情を禁じえない加害者から坂道を転がり落ちるように犯罪に手を染めてしまう者、ミステリー的な謎めいた展開やサイコ・スリラーのような不可思議かつ不気味な事件、そして人生の奇跡を謳いあげるかのような作品まで、描かれる犯罪は様々だがその文体は一貫している。日誌というほど無味乾燥ではないが、あくまで冷静かつ抑制的に、淡々としたものである。異常な事件を日常的なことのように綴ることでかえって異常性を際立たせるという手法もあるが、そのような効果を狙ったものではないだろう。

ある「加害者」がフィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』を「私」のもとに残し、有名なある文に線が引かれてあった。「さあ、櫂を漕いで流れに逆らおう。だけどそれでもじわじわ押し流される。過去の方へと」。
この一節は語り手のニックがギャツビーの悲劇を受けて、ギャツビーが信じていた「緑の灯火」(遠ざかっていく過去の夢)に思いをはせている場面なのであるが、この加害者がなぜこれを引用したのかを考えると、人々は押しとどめようもなく「犯罪」へと流されていくことを訴えたかったかのようだ。この加害者は同情を引く存在なのであるが、ではケチな喧嘩から血みどろのおそるべき展開へと発展していく物語の加害者は、この人の世界とはまったく切り離された異次元に属しているのだろうか。いや、やはり「理屈」や「理性」ではなく、ただ「押し流されていく」のであり、その点では世界は地続きなのではないだろうか。「誰もが潜在的には犯罪者である」だとか、「羊の目をくりぬく男もまたあなたの姿なのだ」ということではなく、人間が生きていくうちに生じる制御しようのないもの、それが「犯罪」という形をまとうこともあるのかもしれない。それは「犯罪」という出発点に立ちつつ、奇跡が訪れるかのような物語もまた同様であろう。これこそが一貫して淡々と綴られる「語り」のもたらす効果なのではないかと思えた。


本書には日本人が二人登場する。一人は架空の人物である「タナタ」氏であるが、こちらは漫画的といっていいほどの恐ろしさ。もう一人は実在のあのパリ人肉事件のS氏(作中では本名)。こちらは登場というか異常な事件の例として言及されているだけだが、やっぱりあの事件ってあっちでも強烈だったのだろうなあ。



同じくシーラッハの『罪悪』も読んだのだが、こちらは個人的にはもう一つに思えた。『犯罪』の良かった部分が薄れて「俗化」というかやや「普通」の短編集になってしまっていたように感じられてしまった。





プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR