『ヨーロッパ新右翼』

山口定 高橋進編 『ヨーロッパ新右翼』





ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、中東欧、ベルギーの「新右翼」をめぐる分析が収録されている。1998年の刊行なのでヨーロッパの政治・社会状況の情報としては古くなっているところもあるが、幸か不幸か(というか不幸にもに決まっているが)日本の現状と合わせて読むといろいろと興味深いところが多かった。


中でも注目できるのが村松惠二の「オーストリアの新右翼 ――「合意民主主義」の危機とオーストリア自由党の躍進」である。

ハイダー率いる自由党をどう分類するのかについては大きく意見が分かれているようであり、これはまたヨーロッパ各地に広がる「新右翼」の分りやすいようで捉えきれない姿の縮図のようでもある。

バイアーとノゲバウアーは「ハイダーを党首にいただく自由党は、ヨーロッパで最強のもっとも成功した極右政党」だとしているという。「彼らはホルツァーの極右研究に依拠しつつ、極右の特徴を七点にまとめている。すなわち、①民俗共同体の思想、②民主主義批判、③強力な国家という思想、④ナショナリズム、⑤自民族中心の歴史像、⑥贖罪の山羊の設定、⑦攻撃的・権威主義的思考・行動パターン、である」(p.184)。

では自由党はネオ・ナチ政党なのであろうか。「H・H・シャルザッハは、ネオ・ナチの主張を次の五点にまとめている。すなわち――①ドイツの戦争責任を否定する。②ナチの戦争を正当化する。③ナチの犯罪を瑣末視する。④ヒトラー時代のドイツを賛美する。⑤戦闘的人種主義・人種的格差を「自然が欲するもの」として正当化する」(p.185)。

ハイダーはネオ・ナチであるという批判をさかんに浴びるために、これほど「頻繁にナチズムとの無関係を言明せざるを得ない政治家はオーストラリアにはいない」という皮肉な状況にある。確かに自由党には親ナチ的、極右的傾向を持つ人物が多数参加していることは間違いないのであるが、全体をネオ・ナチと断定してしまえるのかという点では様々な見方があるようだ。

プラッサーとウルラムは自由党を「新しい右翼的ポピュリズム」ではあるが「極右」ではないとしているという。
「プラッサーとウルムラは、右翼的ポピュリズムの特徴を以下のように列挙する。すなわち――、①採用した新路線の新鮮さ。②宣伝効果の大きい言葉を、攻撃的、感情的、野党的スタイルで用いること。③民衆のルサンチマンに訴えつつ、巧妙に敵・味方関係を設定すること。④「外から」および「下から」の脅威をエリートにたいする攻撃に結びつけること。⑤既成政党にたいする嫌悪感に訴えること。⑥外国人にたいする敵意を利用すること。⑦経済政策および社会政策においては新保守主義的な方向が支配的であること。⑧極右と異なり、議会制民主主義を拒否しないこと」(p.186)。

この「右翼的ポピュリズム」の定義を現在の日本で読むと、橋下徹及び維新の会を連想せずにはいられないだろう。
「この性格規定によって際立ってくるのは、党の政策やイデオロギーの内容ではなく、下層民衆の不満を扇動・組織しつつ、自党への投票に結びつけるその政治スタイルの特徴であり、情報化社会のなかで、マス・メディアとりわけテレビを巧妙に利用しながら、抗議政党として躍進をつづけるオーストリア自由党の姿である」という部分も橋下・維新の会と重なるものがある。

ハイダーは「既存のシステムにおいて「特権を享受」している」エリートにたいする反逆の呼びかけ」である著書『私の自由論』で、「小市民、あるいは社会の底辺に位置するものに意識的に」こう訴えているという。「彼によれば、「われわれの豊かな社会は多くの貧困をあとに残してきた」。福祉政策のなかで特別優遇される特権的集団やエリートたちと比較して、福祉の恩恵をそれほどうけないものたち、「この『社会国家』でいやな仕事を押しつけられているもの」を無視してはならない。ハイダーが呼びかけている社会階層は、激しい競争に巻き込まれ、競争における敗北を余儀なくされている社会階層である。八〇年代以降進行している産業構造のいわゆる「リストラ」のなかで、没落しつつある階層とも言い換えることができる」(p.202)。

「ハイダー指導下のオーストリア自由党の政策は、経済政策、社会政策にかんしては、その基本的性格は新保守主義路線である。強調されているのは公的セクターの民営化である。(中略)具体的には、国営企業や、大銀行、保険制度、オーストリア航空、国有鉄道、郵便、電力会社、オーストリア放送などが民営化の対象として列挙される。/これ以外には、行政改革、規制緩和、諸会議所への強制加入制度の廃止、国家支出の縮小などが要求される。しばしばF・A・ハイエクを引用しながら、基本的に市場における自由競争の経済的機能を中核として議論を展開」している(pp.205-206)。

「この矛盾は、福祉政策からそれほど恩恵をうけない中流下層(白人下層)、とりわけ、政治経済構造の転換のなかで、生活状況の悪化しつつある社会階層に、集中的に現れる。彼らは、相対的な剥奪感覚、「不当に扱われている」意識を強め、自分たちの犠牲によって「不当に厚い保護」をうける最下層住民(外国人難民を含む)にたいして、不安や焦り、嫉妬、怒りをぶつけることになる。彼らは、財政危機の進行のなかで、小さくなりつつあるパイを、社会的貢献のほとんどない「社会的寄生者」ではなく、「まじめに働く」自分たちに優先的に配分することを要求する。<われわれ>を優遇することは<彼ら>を差別待遇することである。当面、もっとも把握しやすい<彼ら>とは、外国人、あるいは人種を異にしする個人や集団である。外国人労働者や難民が贖罪の山羊として選ばれる理由がここにある」(p.206)。


このような分析は「右傾化」の説明としてはよく見られるものであり、またやはりハイダー率いる自由党と橋下・維新の会との類似に目が行くが、同時に差異にも注目すべきかもしれない。日本での橋下や安倍晋三へ集まる支持を「敗北を余儀なくされている社会階層」、もっとはっきりいってしまうとロウアークラスが要因だとしてしまう結論に安易に飛びつくべきではないだろう。

ヨーロッパの「新右翼」は定義しやすいようで、またしにくいものでもある。単純化すると、(西)ヨーロッパ全体を覆った慢性的な不況のもたらした雇用問題の悪化の不満の捌け口としてゼノフォビア(外国人嫌い)の雰囲気を醸成し、それを煽るのがヨーロッパの「新右翼」に共通する部分である。一方でその「解決法」としての政策は様々である。例えばフランスの国民戦線は労働者寄り、反大企業的な部分も見受けられる(近年のイタリアではベルルスコーニ率いる右派側が反緊縮政策を訴えていることも想起できよう)。しかしまた「強い国家」への憧憬から企業の競争力を上げようという大企業寄りの政策を取る「新右翼」もいる。引用したように、ハイダー率いる当時のオーストリア自由党はその一例だろう。

維新の会は明確に経営者側であり、労働問題への配慮というものはまるで見受けられない。どちらかというとヨーロッパの「新右翼」というよりはアメリカのティーパーティに近いものがあるだろう。両者には「エリート」や「エスタブリッシュメント」への怨嗟が見られるが、しかしかといって社会的、経済的弱者への配慮という方向には向かわず、むしろこのような人々を切り捨てることによって自分たちへの「パイ」の分け前を増やしたいという方向へ向かう。そしてこれこそが実はある種の「エリート」や「エスタブリッシュメント」の望むことなのである。橋下は関西の財界人からの支持を得て大阪府知事選に出馬したし、「小泉政権の夢よ再び」ということで竹中平蔵に代表されるように小泉政権下で大きな役割を果たした人物が彼のもとに集まっていた。またティーパーティにはコーク兄弟のような超のつく大富豪から大量の資金が流れ込んでいるが、その背景には共和党を穏健、中道寄りの路線にしようという勢力を押さえ込むという目的があろう。

安倍政権になるともう少し話は複雑であるように映るかもしれない。確かに安倍は賃上げ要請を行うなど一見すると労働者寄りと見えなくもないが、しかし労働問題では経営側に立ち、また明確に反再分配的である。人種差別的でありゼノフォビア的ではあるが、また同時に「日本人」であろうとも「強い国家」に貢献できない人間には価値を見出さないという点ではヨーロッパの「新右翼」の一部の傾向とは異なるものでもあろう。

このように、日本ではヨーロッパの「新右翼」に近いように思われる政治勢力が反大企業的にならないのは、その主たる支持層が一部で考えられているようなロウアークラスにあるのではなく、むしろミドルクラスやアッパークラスなのではないか、というのは根拠がないわけでもない(例えば首長選における橋下の地域別得票率から透けて見えるものなど)個人的な推測である。賃上げ要請にしても、その恩恵を受けるのが大企業の正社員であり、派遣労働者に顕著な低賃金、不安定雇用に苦しむ人々が置き去りになっていることも、そう考えるとそこに矛盾はない。橋下・維新の会の失速についてはいくつかの要因があろうが、最大の理由は同じ系統である安倍が自民党の総裁に返り咲いたことであろう(竹中や堺屋太一のような橋下に擦り寄った連中は安倍自民党が政権に返り咲くと今度はこちらに接近していく)。その点ではこのような政治勢力の勢い自体が衰えたと判断するのは早計であろう。


そして、橋下や安部を批判しようとしてロウアークラスへの偏見を披露してしまう人などを見ると、実証的分析を無視しての感情的批判はむしろ逆効果になってしまうという危機感も湧く。

ハイダーは、「「願望実現と不安解消の演劇」を「舞台を変え、衣装を変えて」上演することによって、観衆を魅了する。それは、一種の「大規模な集団心理療法」である、と。ハイダーは、とりわけ現代のポピュリズムにとっての「共鳴板」であるマス・メディアを巧みに利用し、「公衆と同じ気持ちになって考え話す」「大胆な男」として公衆の前に姿を現すことに成功している」(p.211)。

ハイダーは政敵を攻撃する際に「ヒル」「寄生虫」「豚」「犬」のような「動物の比喩」、また「相手を愚弄するときには姓ではなく名を用い」、「癌性潰瘍」「奇形児」「政治的盲目」「安楽死」といった「身体ないし病気にかかわる医学用語」、そして「一揆」「処刑」「殲滅」「謀殺」などの「軍事用語」を頻繁に用いている。
「たしかに、ハイダーの造語法は、ナチによく似ている。しかし言語学者F・ヤニシュクによれば、こうした「暴露」や「悪魔化」(たとえば、ハイダーはヒトラーの孫だ、という攻撃)」はハイダーを利するだけである。ハイダーは、ナチズムの言語を引用しているのではなく、ナチズムを暗示しているだけである。ナチズムを暗示し、そしてかかわりを否定することによって、「タブーを打ち破る男」としてのイメージを広げることが、ハイダーの本来の狙いなのだから、と」(p.212)。

このあたりも橋下、及び逆効果の橋下批判にそのまま当てはまるようでもある。まさに橋下が狙ったのは「タブーを打ち破る男」像であろう。そして的を外した批判はかえってこのような「タブーを打ち破る男」への期待感を広めてしまうことにもなりかねないだろう。一方で「建設的批判」に捉われすぎて、原則的な部分で為政者として越えてはいけない一線を越えている、あるいはその危険があることに対して無頓着になってしまうことにも警戒しなくてはならないのではあるが。

いずれにせよ、「ヨーロッパ新右翼」は日本の現状を考えるうえでも大いに参照すべき現象であることは間違いないであろう。
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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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