『ザ・ナイン アメリカ連邦最高裁の素顔』

ジェフリー・トゥービン著 『ザ・ナイン アメリカ連邦最高裁の素顔』






「訳者あとがき」で触れられているように原著刊行後の2012年、「オバマケア」こと医療保険改革法に合憲判決が出た。票は5対4に分かれたが、この5票目を投じたのはブッシュ(息子)に指名され最高裁長官に就任していた保守派のロバーツだった。仮に違憲判決が出されていれば、オバマ政権の威信は大きく傷つき、政権運営にも支障が出かねなかったことだろう。
人種問題、同性婚、そして何より保守派が重視する妊娠中絶など、国論を二分するようなテーマをめぐって最高裁がいかなる判決を下すのかは、文字通りに国の有り方を左右するものとなる。三権分立は近代民主主義国家の基本をなすものであるが、アメリカにおける最高裁の存在感は他の民主主義国と比較しても独特のものがあるだろう。


1980年、レーガンが大統領選で勝利を収めると、イェール・ロースクールは「喪に服した」ような雰囲気だったという。教授は90人いる1年生に誰に投票したのかを訊ねたが、レーガンに投票したと挙手したのはわずか2人であった。

19世紀から20世紀半ばにかけての最高裁は、人種問題では立法府や行政府の決定を尊重する、つまり人種差別を追認する判決を下してきた。最高裁が大きく変貌を遂げるのは1953年に最高裁長官に就任したアール・ウォーレンによる「ウォーレン・コート」の時代からである。政界に先駆けて人種差別を違憲とする判決を出し、公民権運動にも大きな影響を与えることになる。

アメリカの最高裁判事は大統領による指名に上院での承認という手続きをへて選ばれる。ウォーレンは共和党のアイゼンハウアーによって指名されたものの、その思惑とは逆に進歩的な判事となる。保守派はフラストレーションをつのらせるが、一方で上院での承認はさほど政治化されることもなく、あっさりとしたものであった。

以降も基本的には法曹界はリベラルが多数派を占めることになる。ニクソンは4人もの最高裁判事を送りこむが、最高裁の進歩的流れを押しとどめることはできなかった。リベラル派はこのような状況の中、空論を弄ぶことにあけくれるようになったが、保守派は虎視眈々とその爪をといでいたのであった。保守派の法律家団体、「フェデラリスト協会」が結成されると、以降政界の右傾化と足並みを揃えるように保守派は法曹界にも影響力を強めていき、最高裁判事人事は高度に政治的なものとなっていく。

本書で主に描かれるのはこのような保守派の逆襲が始まった80年代以降、とりわけ90年代から2000年代にかけての最高裁の内幕である。


90年代といえばクリントン弾劾問題があるが、最高裁判事たちは共和党があまりに党派性をむきだしにしてくるのにうんざりしていた。しかしブッシュ対ゴアの大統領選挙では共和党によって送り込まれた判事が最高裁の威信を傷つけることになる。必ずしも保守派の思い通りになっていなかったとはいえ、最高裁判事9人中7人が共和党の大統領からの指名で就任していたのであり、この時ばかりは多くの判事が党派性をむきだしにしたのである。レーガンから指名された共和党の政治家であったオコナーはブッシュ政権の誕生に一役買ったが、ブッシュ政権の振る舞いに共和党が過激派に乗っ取られたとして怒りをつのらせていくことになる。

80年から90年代は、最高裁を制するという目標(その結果として中絶を合憲だとした判決をひっくり返すことが最大の目標である)からすると、保守派にとっては思惑の外れた時代であった。レーガンによって指名されたケネディは中道的であることが明らかとなり、ブッシュ(父)によって指名されたスーターはリベラルとして行動していくことが就任後に明らかとなる。
このように政界、法曹界双方の思惑が生臭くもぶつかる場が最高裁やその判事の指名、承認プロセスである。

本書ではまた、個々の判事の生身の姿も描かれる。スーターは持っていなかったテレビを送られたが、コンセントを一度も刺すことはなかったといわれている。彼は留守番電話すら持たず(そのせいで最高裁長官レンクイストの葬儀に間に合わないことになる)、昼食はリンゴ一個(芯も種も食べる!)にヨーグルトと毎日同じメニューというかなりの変わり者である。
同じくブッシュから指名されたトーマスはセクハラ疑惑で承認時から躓いたが、就任後は徹底して「自由」を擁護し、黒人である自身がその恩恵を受けていたにも関わらずアファーマティブ・アクションを違憲とするなど判事の中で最も右に位置することとなる。トーマスはあまりに右過ぎて憲法論では完全に浮いた存在となってしまうほどであるのだが、一方で彼は職員や市井の人々と接する際は非常に気さくな人間でもある。この点ではリベラル寄りの立場から最高裁での議論を活気付けた変わり者のスーターとは極めて対照的である。このような「いい人」が政治的には(僕のような外国人からすると)ドン引きするほど過激で、そのような人物が権威ある職に就けてしまうというのもアメリカらしいのかもしれない。

トーマスは最高裁判事就任後も保守派の団体がリベラル派を嘲笑するために開いたパーティに出席するなど、その政治的姿勢を隠そうとはしていない。トーマスばかりでなく、(スーターを除く)多くの判事が最高裁外部と積極的に対話し、時に政治的意見を容易に推測できる形で明らかとする。
ケネディの国外の法曹関係者との対話は、死刑に関する規定を国際法を根拠にその考えを改めるということにもつながっていく(その結果として裏切り者として保守派の恨みをさらに買うことになる)。このあたりの「開かれた」姿勢というのも、賛否というのは難しいがアメリカ独特の慣習なのかもしれない。

原注には「本書はおもに、判事や75人を超えるロークラークに直接取材した話をもとにしている。談話は原則的に匿名、提供された情報の利用は、直接的引用を避け、情報源をあかさないことを条件としている」とある。本書にはしばしば当事者しか知りえない情報(二人きりの部屋での会話など)が描かれているが、このあたりは判事自身、あるいはそれに極めて近い人物が著者の取材に応じたものなのであろう。
日本では現役の最高裁判事やその周辺の公的な職務に就いている人間の多数がこのような取材に応じるとはまず考えられないだろう。公職経験者がそれほど時を置かずしてその経験を回想録として出版するというのは欧米ではよく見られるが、中でもアメリカは群を抜いているのではないだろうか。もちろんそこには自身に都合のよい「歴史」を広めたいという下心もあろうが、また歴史を作っていく過程をできるだけ広く残しておくべきだという共通の意識というものもあるのだろう。

著者はこのようにインサイダー情報を多く活用しているのであるが、しかしだからといって遠慮会釈があるのではない。最高裁判事のそれぞれの人間性についても相当に辛辣な表現が多々あり、またリベラル、保守双方に厳しい論評を加えている。

本書はレンクイストの死去とオコナーが怒りをたぎらせつつも、アルツハイマー病となった夫の介護のために辞職し、それを受けてブッシュ政権がその後任人事を進める際に、かつては中絶を合憲とした判決を尊重しなければ最高裁判事にはなれなかったのが、現在では逆に中絶を違憲だとする考えでない限りブッシュ政権を支配する過激保守層からの支持を得られないという現象が生じたことをもって締めくくられる。ついに保守派の念願が叶い、最高裁を保守が支配する日が近づいてこようとする様子を痛烈な調子で描き出して終えている。

しかし冒頭で触れたように、原著刊行後に誕生したオバマ政権が命運を賭けた「オバマケア」に、ブッシュ(息子)に指名されたロバーツが合憲という判断を示すことになるのである。もっともロバーツは、スーターのように共和党の「期待」を裏切った判事とは違いリベラル化したわけではなく、依然としてロバーツ長官のもとで最高裁の保守化が一層進んでいこうとしていることもまた間違いないという状況でもある。しかしオバマ以降も民主党の大統領が継続するようならその状況もまた変化が生じるのであろう。

本書は現代アメリカ最高裁史であると同時に現代アメリカ政治史でもある。そして1980年代に入るまで「死文」と見なされていた憲法修正第二条、いわゆる「武装する権利」が社会の右傾化と共に復活してしまったことからもわかるように、現代アメリカ社会史とすることもできよう。
現在の最高裁判事の布陣は保守派4人、リベラル派4人、中道1人となっており、その結果として急速な変化が起こりにくい情勢ともなっている。妊娠中絶問題は全米的な世論に比べ宗教右派をはじめとする圧力団体が過激な主張を繰り広げ、政治もそれに引っ張られていることを思うと、最高裁のこの布陣は世論と政治との溝を埋める民主主義の安定装置になっていると評価できるのかもしれない。

アメリカで最高裁がここまでの権力を有することについてはさまざまな意見があろうが、少なくとも本書でも描かれるブッシュ(息子)政権の暴走を見ると、三権分立の重要さというものを冷や汗をかきつつ実感させられる。


訳書で一つ不満というか要望をあげておくと、日本の読者が参照できる人物表を付けておいたほうが親切だったのではないだろうか(もっともこういうのを著者側で拒否する場合もあるので、そうだったのかもしれないが)。本書はもちろんアメリカの読者向けに書かれたものであり、本書を手にするような人は各々の最高裁判事についてある程度の知識があることを前提としているのだろう。出来事や人物の登場が時系列順ではないために、予備知識がない日本の読者にとって(とりわけ前半部)はうまく入り込みづらいところもあるかもしれない。あまり予備知識がないという人はネットなどで簡単に80年代以降に就任した最高裁判事の略歴に目を通しておいてから取りかかったほうがいいかもしれない。
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佐藤太郎(仮)

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