『かぐや姫の物語』

高畑勲監督 『かぐや姫の物語』




予告を見たところかなり前衛的なことが全編に渡って繰り広げられるのかと思ったのだが、むしろ全体としてはオーソドックスさすら感じさせてくれるものだった。古典中の古典を題材にとったということもあるのだろうが、最右翼としてピクサーに代表されるフルCGが、最左翼として大友克洋監督に代表される超絶的な細部書き込みがあるという状況下で(「右」とか「左」は便宜上の表現で特に意味はありません)、誰もが想像だにしなかった全く新しい地平を切り開いたというよりは、かつてあったアニメーションのもう一つの可能性を甦らせたというところだろうか。冒頭から「ああ、これがアニメなのだよなあ」と思ってしまったのだが、しかしそういった感慨を深く抱けるほどにはアニメに通じていない僕にはその感情をうまく言語化するのは難しいところでもある。


ということで安易な方向へ流れて、どうしても盟友にしてライバルでもある宮崎駿監督との比較というのをしてしまいたくなる。いろんな意味での「少女趣味」という点では共通点があるのかもしれないが、その少女の描き方という点では本作において差異がよく表れているのではないだろうか。『かぐや姫の物語』では子どもから少女、そして女へと移り行く姿が描かれるのだが、宮崎ならこういった「移り変わり」というのは描かない/描けないのかもしれない。宮崎の場合あくまで「男の子」目線の、活劇への志向があるのに対し、高畑のほうは「女の子」目線とまでいっていいものかはわからないが、本作においても少女向け文学やアニメを含むその翻案の伝統の影響が垣間見れる(というかその「伝統」を担ってきた一人が他ならぬ高畑なのであるが)。

また『かぐや姫の物語』を『もののけ姫』あたりと比較することへの誘惑にもかられるが(単に「もののけ」という言葉以外にもそう誘っているように思えてしまう場面がいくつもある)、いかんせんこのあたりは僕には完全に手に余るものである。宮崎といえば『火垂るの墓』への厳しい批判があるが、ああいった形で批評を表に出してくれるといろいろと参照事項が見えてきていい道しるべになってくれるので、この作品に対してもいつかやってくれればと思う。
それにしても制作上のパートナーでもありながらああいうクリティカルな意見を公にできる関係というのは貴重だし、現在はもちろん過去にもあまり例がない関係かもしれない。


と、どうしようもなくとりとめのない感想になってしまったが、ストーリーはともかく手法としてはフルCG作品にはあまりなじめないところがある人間としては、個人的嗜好としても高畑勲の本作での試みは素晴らしいものだと思えた。その一方で商業ベースの大作でこのような試みができるのも、資金や時間等の制約を考えるとこれが最後なのではないかという寂しさや不安というのも湧いてくる。これを乗り越えてやるという意欲と能力のある若手はきっといることだろうと思うので、そういった人がその道を切り開いた時、本作は完璧な意味での傑作となるのだろう。いや、若手の前にやはりあの男が……ということをつい考えてしまいたくなるほど刺激的な作品であった。

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佐藤太郎(仮)

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