『愛、アムール』

『愛、アムール』

病に倒れた妻は右半身が不自由となるが、彼女は夫にもう病院へは戻さないでくれと頼む。夫は自宅で妻を介護する覚悟を決めるが、妻の病状は悪化の一途をたどり、ついには意思の疎通すらできなくなっていく……




ミヒャエル・ハネケがいわゆる「老老介護」を取り上げると聞いた時はどれだけ胸糞の悪くなる作品なのかと思ってしまった。『ファニー・ゲーム』はあまりに極端にしても、ハネケといえば観客を挑発するかのような作品が多い。しかしこの作品はこれまでのハネケ作品の手触りとは明らかに異なるものであった。

登場人物が皆度外れの善人ばかりだというのではない。親子関係はうまくいっているとは言いがたいし、ピアニストの弟子も戸惑うばかりで親身になってくれるというほどではない。合わない看護師とは互いに罵倒しあっててしまうし、何よりも夫の決断はエゴイズムだと非難することもできるだろう。しかし、たとえば前作の『白いリボン』が、閉鎖的な村で「清潔」さを求めていくことがナチズムへの暗示になっていたように、ハネケ作品に多い人間の暗部をえぐり出すものとは異質なものである。不器用ながらも介護に取組む夫の姿とその甲斐も無く絶望的な姿となっていく妻との関係は、どこか荘厳さすら感じさせるかのようだ。

しかしそこはハネケ、この作品は単に「極限の夫婦愛」といったものにのみ還元されるものでもないだろう。妻の衰えていく姿を残酷なまでにカメラは描ききるように、基本的には徹底したリアリズムであるといえよう。しかし、とりわけ最終盤ではそこから逸脱していくかのようだ。中盤での不吉な夢のシーンが予告であるかのように、夢幻的雰囲気を漂わせていくことになる。アパート内部のシンメトリーが強調され、そこでの鳩の捕獲劇はキューブリックテイストですらある。ラストシーンがオープニングシーンにつながるという円環状の結末を予想した観客も多いことだろうが、ハネケはこれをわずかにズラしている。それでいて、ここでもまたシンメトリーを強調するのである。

シンメトリーの強調は観客に人工性や虚構性を印象づける。単に「終末」を描くにあたって美的な観点から用いたとも取れるし、徹底したリアリズムであるかのような作品をここにきて揺らがせていると取ることもできよう。しかしだからといって、夫の「愛」を相対化しようとした、あるいはその世界を根底から覆そうとしての演出であったのかというと、そういったわけではないだろう。二度登場する鳩が一体何の隠喩なのか(冥界からやって来た終わりを告げる使者なのか、あるいは衰えていく肉体に変わって魂を飛翔させることを引き受けようとしたのか)、このあたりをはっきりと掴むことは難しい。しかしここに、「愛」というタイトルへのシニカルな視線は存在しないのである。



宇多丸さんがハネケの監督デビュー作である『セブンス・コンチネント』を連想させるところがあると言っていたので、未見だったこちらも。




確かに、ある決断を下し外界から隔絶した世界へと突入してしまうところや、細かな日常のディテールを積み重ねていき(ラジオから現実のニュースが聞こえてくるところなども共通している)、そして挿入される「絵」と、それに導かれるようにして異世界に入っていくかのような展開など共通点が多い。『セブンス・コンチネント』は実際にあった事件を基にしているようだが、こちらの方がより抽象度が高く、不条理性も際立つ。一般的なイメージからすると『セブンス・コンチネント』の方が「ハネケらしい」作品だろう。この両作を合わせて見るとハネケの連続性と、ここにきての変化を味わうこともできる。



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佐藤太郎(仮)

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