『治安維持法小史』


 戦後の日本社会は、自らの手で治安維持法体制を解体したわけでなく、また、自らの手で人権侵害責任者の裁きをおこなったわけでもない。その意味では、戦後の日本社会は治安維持法体制なるものを、そんなにつよく断罪するつもりはなく、むしろ、歴史の必然として受容する気配さえあるのではないかとおもわれるふしがある。
 戦後日本が、治安維持法体制に対し存外に寛大であったという印象を与える出来事の一つは、戦前一貫して思想系検事のリーダーたる役割を果たしてきた池田克の、最高裁判所裁判官への就任であった。池田は、平田勲らとともに大正末、治安維持法が制定された当初からの、したがって最初の思想専門家として、東京地検や大審院の検事局または本省で、思想検察の成立・発展のため、らつ腕を振るった。実に、池田を抜きにして戦前の治安維持法の運用を語ることはできない、といっていいくらいである。そのかれは、敗戦後(大審院次長検事)公職追放にあったのち、一九五四年一〇月、霜山精一の定年退官のあとを継いで最高裁判事に任命されたのであった。
 池田がたいへん物騒な経歴の持ち主であることは、ジャーナリズムではたいした問題にならなかった。かれへの国民審査の支持率は、多少一般のばあいより低いという程度にとどまった。国民もまた、かれに対して免罪符を与えたといえる。



この引用は、治安維持法成立前から敗戦後にアメリカの圧力によってようやく治安維持法が廃止されるまでを扱った奥平康弘著『治安維持法小史』の末尾近くからである(引用は筑摩書房版から pp.248-249)。


1922年に帝国議会に「過激社会運動取締法案」が提出された。これは「「暴動」があろうとなかろうと、「暴動を企てる」行為があろうとなかろうと、また「暴行強迫と云ふ不法の方法」がもちいられるといなとを問わず、取り締まられなければならない行為がある」という「近代的な刑法体系への大胆な挑戦にほかならない」性質のものであった。「政府の立場は強腰であったが、いかんせん立法技術上未熟な要素がありすぎ」たこともあり、廃案となる。
しかし3年後の1925年には、護憲三派加藤内閣のもとで治安維持法が成立してしまうことになる。これには普通選挙と引き換えにしたという「アメとムチ」説、日ソ基本条約が結ばれたことから社会主義者の取り締まりを強化しようとしたという「日ソ基本条約」説、また関東大震災時に出された「治安維持ノ為ニスル罰則に関スル件」という緊急勅令が露払い役を果たした、意見の一致を見なかった司法省と内務省との間での擦り合わせが行われ法案の体裁が整えられた、など様々な説が上げられている 。

いずれにせよ、「近代的な刑法体系への大胆な挑戦」という面が払拭されたとは言い切れず、そのような法案がかくもあっさりと通ってしまったことは「大正デモクラシー」の実相、あるいは日本の民主主義の基礎体力の欠如を印象づけるものとなっている。

治安維持法が最初に牙を向いたのが1925年12月に始まる「京都学連事件」である。当初は特高が失態を演じたという受けとられ方であったのが、司法省の思想犯専門検事などの介入などによりその受け取られ方は一変する。周到なメディア対策を施し、新聞は「アカの恐怖」をセンセーショーナルに喧伝することとなる。以降メディアを通して治安維持法がいかに一般に受容されるようになったのかの雛形ともなった事件であった。「新聞のバイアスは、けっしてたんに京都学連事件の報道にとどまらず、三・一五以後の諸事件の報道においてますますひどくなる」のであった。

もっとも治安維持法はこれによって「完成」したのではない。
社会主義者、共産主義者へ激しい弾圧を加えた1928年の「三・一五事件」を利用することによって特高や思想検察は組織を拡大させた。しかしまた、同年には緊急勅令の形で治安維持法を改定しているが、これにはあの上杉慎吉ですら反対を表明していたのである。このように、司法省は法をなし崩し的に拡大解釈するばかりでなく幾度も改定を行い法的な根拠を作っていくことになる。一方1928年には上杉ですら緊急勅令に反対し、また1930年代半ばには貴族院が予防拘禁に反対するなどの動きがあったが、こちらは逆になし崩し的に現状追認に走り、ついには1941年、「宣伝罪」を含め「なんでも犯罪にしてしまう」法改定が実現してしまうことになる。

特高や思想検事は「国体」という定義不能な概念を駆使し、さらには「浮浪罪」など関連法も武器とし、共産党を壊滅させた後には読書会のような「サークル」的な活動までも取り締まり(共産党が壊滅状態にあるとしてしまうと、特高や思想検事はその存在意義が薄くなってしまうために明らかなフレームアップも行われる)、さらには大本教などの宗教団体の弾圧にまで手を伸ばす。これらは単に現場の暴走に留まらず、財界、観念右翼、思想検事が手を結ぶことで起こった「企画院事件」に代表されるように、平沼騏一郎を中心とする政治的な動きでもあった。


日本の政治体制がファシズムであったのか否かということは未だに問題とされることもある。確かにカリスマ的指導者の存在や大衆運動といったファシズムの特徴とされるものを欠いた日本の政治体制は、ファシズムという観点からイタリアやドイツと比べると特異な形態をとったことは間違いないだろう。
「日本型ファシズム」について考えると、いつの時点が決定的なポイントとなったのかが判然としないという印象もある。上述のように大正デモクラシーと連続する形で日本型ファシズムの象徴的な法ともいえる治安維持法は成立し、そしてじわじわと肥大化を続けていく。一般論として歴史というものはそこにいた人間にとってはその重大さが認識しづらいものであり、「まさかあんなことには……」と後になって初めて悟るということが多いのであろうが、明治末から昭和20年までの流れというのはとりわけそのような意識を日本人の多くに抱かせがちであったのだろう。であるからこそ、冒頭の引用にあるように、「歴史の必然」として、あれは「仕方がなかったのだ」と自己防衛に走る傾向も強いのかもしれない。

敗戦後に発足した東久邇宮内閣も「国体護持」に固執し、治安維持法を引き続き運用していくという頑なな意思をもち続ける。三木清の獄死などの事態を受けて1945年10月4日にマッカーサーが政治犯の即時解放や思想警察や弾圧に関わった官吏の罷免を要求する覚書を出し、これ以降「ようやく新聞紙上には主要な政治犯人釈放ニュースとともに、三木清の獄死、横浜事件、日本ホーリーネス教会迫害事件などなど、治安維持法や特高警察の非常な爪跡や犠牲のありさまが、伝えられるようになった。日本国民が新聞紙上で治安維持法の実態を客観的に、または批判的に報ずるのをみたのは、治安維持法の全歴史をつうじて、これが最初のことであった」。

このようにあくまでマッカーサー司令部の介入があって初めて「治安維持法の実態を客観的に、または批判的」に取り上げられるようになったのであり、「自らの手で治安維持法体制を解体したわけでなく、また、自らの手で人権侵害責任者の裁きをおこなったわけでもな」かった。これこそが池田のような経歴を持つ人物の最高裁判事就任に対しての無頓着な反応の最大の要因であろう。

奥平は「序」で、「世間では「治安維持法」というと、一九二五年にそういう名の法律ができたとたんに、一本の線路がしかれ、ただまっしぐらに悪法たる性格を自己暴露し自己増殖していくとおもいがちであるが、それは、事実を反映していない」としている。
治安維持法の制定過程、並びに運用、改定、受容の歴史を辿ることはあの時代の政治史、精神史を辿ることでもあり、またその後の歴史を含め、忘却の跡を辿ることでもある。





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Author:佐藤太郎(仮)
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