『ダスクランド』

J・M・クッツェー著 『ダスクランド』




1974年発表のクッツェーのデビュー作。

この作品は二部構成になっている。
「第一話 ヴェトナム計画」は「ケネディ研究所」で「クッツェー」という上司のもと神話作成部門に勤務する、「マリリン」という名の不実の妻を持つユージン・ドーンの物語である。
「第二話 ヤコブス・クッツェーの物語」はオランダ語で書かれた1760年代に行われたヤコブス・クッツェーの物語にS・J・クッツェーがアフリカーンス語で序文を付け1951年に出版したものをJ・M・クッツェーが英語に翻訳したという設定になっている。

偽史や作者の名を登場人物に与えるというメタイクション性といい、ジャンル分けをするならまさにポストモダン小説となろう。ポストモダン小説のサブジャンルともいえるメタフィクションとは、とりあえずは小説の虚構性を読者に意識させることで小説の枠自体を揺さぶるものだとしておこう。そしてポストモダン小説がしばし偽史や歴史改変という形式を用いるのは、我々が当たり前のものとして疑うことのない「歴史」の恣意性を暴露するためである(もちろんこれは歴史修正主義と親和性が高いというのではなく、本来はむしろそれとは対極にあるものなのだが、もちろんそこには危うさも含まれていて……といったあたりは話題がそれてしまうので)。


クッツェーはこの作品の舞台になぜアメリカ合衆国と南アフリカを選んだのだろうか。もちろん単に、南アフリカ出身でアメリカに長期滞在していた作者の体験があろう。しかし作者の伝記的事実を除いても、アメリカと南アフリカを同じ作品で取り扱う必然性は確かにある。

ドーンは報告書の中でこう書いている。「神話が真実なのは――それが、予言する力を持つかぎりにおいてである。神話が民衆に、また、より広範に浸透していればするほど、戦いは困難となる。ある部族の神話はその部族が自らの力を維持するためにつくりだす虚構にほかならない。神話を打ち敗かすのは、かならずしも神話に敵対する力ではない。というのも、神話が敵対的な力をすでに措定しているとすれば、その敵対的な力は神話を補強するように作用するからである。科学としての神話作成学によれば、神話に対抗するより巧妙な手段とは、その神話を覆しつくりかえることである。したがってもっとも高度なプロパガンダとは、新しい神話体系を普及させることとなる」(p.53)。

日本における『古事記』や『日本書紀』などでも明らかなように、「神話」とは権力がその権威の正当性を主張するために作り上げた「物語」である。ドーンはヴェトナム戦争を有利に運ぶためにプロパガンダとして効果的な「神話」を作りださなければならない。「神話」とはまさにプロパガンダに他ならないのである。

アメリカ合衆国という国家が特異なのは、その「若さ」ゆえに神話のプロパガンダ性というものが完全に暴露されてしまうことである。圧政から逃れ、信仰の自由のために新大陸に渡ってきた(とされる)ピルグリム・ファーザーズによって築かれたこの国は、助けてくれたはずの先住民を騙して土地を巻き上げたうえに大量殺戮を行い、アフリカ大陸から黒人奴隷を連れて来てその繁栄の礎を築いた。
「第一話」の舞台である1972年は、まさにそのようなアメリカの神話の仮面がはがされようとしていた時代である。


「訳者あとがきにかえて」(「クッツェーによる小説内に「訳者まえがき」があるが、こちらは邦訳の「訳者」の方)を参考に南アフリカの歴史を少々乱暴にふりかえってみよう。宗教的自由を求めオランダからアフリカ南部にやってきたヨーロッパ入植者たちはアフリカーナと名乗るようになる。1795年にケープ植民地はオランダ領からイギリス領へと変わり、19世紀にはイギリスから大量の移民が押し寄せ、アフリカーナは内陸部へと追いやられる。ダイヤモンドや金鉱の発見とそれにともなう闘争、そしてイギリスとの二度の戦争など、アフリカーナの歴史は圧政と迫害の苦難の歴史だといえなくもない。「いえなくもない」と留保をつけるのは、アフリカーナがやって来るはるか以前からこの地に暮らしていた人々の存在を「考慮にいれさえしなければ」そうなるということである。


牛車で北へと冒険に乗り出すヤコブス・クッツェーの物語は北米大陸におけるそれと重なる部分が多い。ヤコブス・クッツェー(正確にいうなら、読み書きができなかった彼の物語を記述した者)は、自分たちはあくまで平和を求めてやって来たのだということを強調する。しかし「ホッテントット」や「ブッシュマン」をあくまで「野蛮人」として、「非文明的」な存在としてしか見ていない。そしてその試金石となるのがキリスト教である。北米には「キャプティブ・ナラティブ」(「インディアン」に囚われた体験記)というジャンルがあるが、「ヤコブス・クッツェーの物語」にはそれを想起させる部分がある。このあたりも(この小説の作者の)クッツェーは意識していたことだろう。

「S・J・クッツェー」による「跋文」は註もほどこされた、学術論文の体裁で書かれている。S・J・クッツェーは一見すると「ヤコブス・クッツェーの物語」を相対化する客観的歴史論文であるかのようだが、随所に「アフリカーナ的価値観の称揚」や「イギリス的なもの」の拒否、さらにコイコイ人などのアフリカの文化を無価値なものだとして無視する姿勢がもぐりこませてある。つまりS・J・クッツェーは、学術論文の姿を借りて「神話」を作り上げているのだ(このあたりは戦前戦中、また戦後も生き残っている日本の「神懸り」な学者の姿を思い浮かべてもいいだろう)。

「訳者あとがきにかえて」によれば、S・J・クッツェーが大学で講義を行っていたという設定の1934年から48年にかけてというのは「アフリカーナの歴史にとってもっとも輝かしい時期」であるのだそうだ。1934年には「初めてアフリカーナが連立政権として南アの政権に参加」、1948年は「国民党が初のアフリカーナ単独政権をもたらし」ている。一方でこの物語が出版されたとされている1951年は、「おそらくこうしたアフリカーナの自分勝手な神話作成ができた最後の年を表している」。1952年には「大規模な反抗キャンペーンによって、アフリカーナの神話は黒人たちによって挑発を受け始める」のであった(p.259)。

「訳者あとがきにかえて」にあるように、「一八世紀後半のナクマァの村の破壊が、二世紀後のヴェトナムの村の破壊に二重写し」となっていることは明らかである。
また前述の通り、1970年代はアメリカにおいてその「神話」が揺さぶられていたのに対し、南アフリカではアフリカーナによって作られた政権によるアパルトヘイトが揺るぐことなく存在していたという対比も(この小説の作者の)クッツェーは意識していたことだろう。


ドーンの書く報告書は「ヴェトナム」をイラクやアフガニスタン、あるいは過去の植民地支配と入れ替えてもそのまま通用しそうな箇所が多々ある。

ドーンの報告書からいくつか引用してみよう。

「残虐行為を非難されても、それが証明されないかぎりは無視できる。我々が地上から抹殺した村落の九十五パーセントは、もともと地図には記されていなかった」(p.48)。

「ヴェトナムにはたったひとつのルールしか存在しない。すなわち分断し、個別化せよというルールである。我々の失敗は、ヴェトナム人に、外国の抑圧者による爆撃のもとに身を寄せ合う、ひとつの国民という意識をもたせてしまったことにある。その結果、我々はひとつの国民の抵抗を打破しなければならないという困難な仕事をみすみすつくり出してしまった――危険で、金のかかる、不必要な仕事である。我々としてはむしろ、村落やゲリラ・グループや、個人が全く不可解な理由で特別な処罰を受けるべく選ばれた村落、グループ、個人だと考えるように仕向ければよかったのだ。そうすれば、最初は怒り狂って反撃してくるかもしれないが、処罰を加えつづけていけば、いずれ罪悪感という回虫が彼らの臓腑のなかで成長して、きっと彼らはこう叫んだことだろう。「罰あり、ゆえに我に罪あり」と。この言葉を発するものは、すでに征服されている」(p.52)。

この報告書を書く過程でドーンの精神は崩壊していくのである。


イラク戦争について、ブッシュ政権はフセインを追い出しさえすればイラク国民は諸手を挙げてアメリカを歓迎してくれると本気で考えていたのではないかという見方がある。仮にそうだとすると、イラク戦争とはドーンを狂気に追い込んだヴェトナム戦争から30年を経て、権力によって「神話」が作られるという意識すらないままに、為政者がナイーヴにもその「神話」に引きずられて判断を誤るという知的後退の結果だったのかもしれない。

この作品は「神話」がいかに形成されていくのか、そしてそのような「歴史の捏造」は遠い過去に限られたものではないのだということを描いた小説である。これまで未読だった言い訳をするわけではないが、今になってこの作品を読むと、不幸にもこのことはより一層実感できるのものになるのであった。

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佐藤太郎(仮)

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