『ペテルブルグの文豪』

J・M・クッツェー著 『ペテルブルグの文豪』




1869年10月、ドストエフスキーはペテルブルグへとやって来る。義理の息子(すでに亡くなっている前妻の子)であるパーヴェルが自殺したとの知らせを受けたためだ。ドストエフスキーは悲嘆にくれつつも、パーヴェルの下宿先のおかみの母娘との交遊に慰めを見出そうともしていた。しかしまた、警察はパーヴェルの遺品の「書類」を押収したまま返却しようとしないなどその死にはどこか胡乱なところもあった。そしてついに、ネチャーエフがドストエフスキーの前に姿を現す。


『悪霊』(1871年発表)がネチャーエフ事件を下敷きとしていることはあまりに有名である。この小説の舞台となっている1869年10月はまさにネチャーエフ事件が進行していた時期である。つまりネチャーエフの陰謀にドストエフスキーが直接巻き込まれていたという設定となっている。この他にも『白痴』や『カラマーゾフの兄弟』で扱われるエピソードがここには登場している。また『悪霊』などのドストエフスキー作品で起こる少女陵辱が、絶対的に邪悪なものの象徴であるのか、はたまたドストエフスキー自身にそのような経験、あるいは願望があったのかが問題とされることもあるが、この作品でもドストエフスキーは少女に欲望を感じる場面もあれば、子どもへの暴力に怒りも感じるという微妙な描き方がされている。このように、本作はまず文学史改変小説と位置づけることができる。

クッツェーがこの作品を発表したのは1994年である。クッツェーは南アフリカ出身であるが、この作品を執筆していた頃はまさにアパルトヘイトが終わりを告げ、マンデラが大統領に選ばれようとしていた時期である。この事実は本作に深い影響を与えていることだろう。クッツェーはアパルトヘイトに抵抗する作品も発表しており、この時期にはおそらく高揚感も覚えていたことだろうが、また同時に不安も抱えていたのかもしれない。
ロシアでは1861年に農奴が解放されたが、アメリカにおける奴隷解放と同じように農奴の生活は改善されるどころか厳しさが増していくばかりであった。この状況にナロードニキは先鋭化していき、1881年にはついに皇帝アレクサンドル2世が暗殺されることになる。この時代のロシアを作品の舞台に選んだのはこのあたりに要因があるのかもしれない。

さらにこの作品はクッツェーの伝記的事実を外して考えることはできない。「訳者あとがき」にあるように、そもそも実際にはパーヴェルは自殺はおろか早世すらしていない。息子を自殺という形で失っているのは、実は作者であるクッツェーなのである。前半部でのドストエフスキーの悲しみ、とまどい、後悔、罪悪感といった感情はクッツェー自身のものであったのだろう。
このように極めてパーソナルな部分を抱えているにも関わらず、同時にまた深く社会を考察する歴史的視座を持つ作品でもある。クッツェーがここで見事なのは、ドストエフスキーの息子の突然の死へのとまどいを、かつての自分や自分が共感を抱いていた革命家たちとはまるで異質なネチャーエフというキャラクターへのとまどいとを重なり合わせ、さらには大きな悲しみに襲われた人物がこの体験を物語へと昇華させることへの倫理性をも突きつけていることだ。

ドストエフスキーは「パーヴェルを思考の中に招き入れ」、息子を懸命に理解しようとする。しかしそのような作業は「戦い」の認識にまで達してしまう。「若者に対する老人の、老人に対する若者の」。そして「私は自分の魂の居場所を見失って」しまうのである。

個人的にして極めてセンシティブな部分を扱かいつつも、普遍的な社会に孕まれる現象を描くものでもあり、また物語を紡ぐということにつきまとう業までもを飲み込んでいる作品なのである。



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佐藤太郎(仮)

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