『ひとりの体で』

ジョン・アーヴィング著 『ひとりの体で』




ジョン・アーヴィングはしばしば自らの体験を小説に取り入れており、また同じネタを再利用、再々利用することも厭わない作家だ。
この作品も、実の父親を知らない子ども、私立の男子高校とその寮(ただし主人公は職員用住宅に住む)、レスリング、少々エキセントリックなところのある幼馴染の女友達、登場人物が作家になる、などなどアーヴィングのファンにはお馴染みのものばかりだ(ただし熊は出てこない)。ある時期以降のアーヴィングに批判的な人にとっては「またか」となるだろうし、忠実なファンにとっては「待ってました」となるだろう。僕自身は近年のアーヴィング作品に不満を憶えることがないわけではないが、それでもやはり新作が出るとこうして読みたくなるし、読むと「やっぱりアーヴィングはいいなあ」と思える。
ただ今作は、これまでのような再利用とはいささか性質を異にするところもあるのではないかという気もする。

アーヴィングはレイプなど女性への暴力、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)、あるいは『ホテル・ニューハンプシャー』のリリーのような障碍を持った人などをよく取り上げる。社会において弱い立場にある人々への暖かい眼差しを注ぐとともに、その人たちに襲い掛かる過酷な暴力という現実も映し出している。
アーヴィングの「善意」についての疑いはないが、一方でここに「パターナリズム」の匂いを嗅ぎつけることもできるかもしれない。『ガープの世界』においてガープは、子どものいる住宅街でスピードを出すドライバーに怒りを爆発させるが、このように「強い」自分が「弱い」人々を助けなければならないという使命感には、白人男性異性愛者というマジョリティであるアーヴィングの限界、もっというと危うさがないとも言い切れないかもしれない。一つ間違えれば、子どもたちがライ麦畑から落ちないように見張っていたいというホールデン君的倒錯や、あるいはヘミングウェイ的マッチョイズムに陥りかねない。

本作の語り手は70歳近いバイセクシャルの作家である。ゲイではなくバイセクシャルにしたのはなぜだろうか。語り手のビルはこうふり返る。「当時のゲイ仲間や愛人たち全員が、両性愛者〔バイセクシャル〕を名乗る男は本当は片足をクローゼットに突っこんだままのゲイに過ぎないのだと信じて」いたし、「私自身のなかにもまたそう信じていた部分があったように思う」(上 p.191)。
これを実際のバイセクシャルの人が読むとどう映るのかという問題もあるのだが、それでもあえてこのような設定、アーヴィングがどちらともつかないように思われがちであった人物を主人公に据えたのは、自らの過去をふまえるという意味もあったのかもしれない。


人間の価値観というのは当然ながら時代と共に変化する。1950年代のアメリカで人種問題について「穏健」な立場だとされた人は、現在から見ると単に上辺を取り繕った差別主義者にしか映らないだろう。またある時期までは公民権法を支持していたにもかかわらず、アファーマティブ・アクションなどの積極的差別是正策が導入されると反動化するという例も見られる。もちろん逆に、かつては差別的だった人が時代の変化を受けて人種的平等に目覚めていくという例もある。
これは人種問題だけに限らず、セクシャリティについても同じだろう。いかなる人間であろうとも、肯定的であれ否定的にであれ時代の「主流」の意見から影響を受けるであろうし、その意見は当然時代的制約を受けることになる。この作中において1950年代に同性に性的に惹かれるのは「病気」であり、それは「治療可能」だとする医者が登場するが、当時はこのような見方はおかしいと感じるほうが少数派だったことだろう。

『ガープの世界』にはマッチョイズムの権化のようなアメフトという競技のスター選手から女性へと性転換をしたロバータ・マルドゥーンが登場する。アーヴィングも、そして映画版で監督を務めたジョージ・ロイ・ヒルも、トランスジェンダーへの差別はないつもりだったろうし、当時ロバータの描き方に危ういところがあるのかもしれないと感じた人はごく少数だったのではないだろうか。

『ひとつの体で』には「古いタイプの異性装者」についてこんな箇所がある。「(彼らは)女性で通そうと本気で努力しているわけではなかった。入念に化粧し、装いも凝っていた。見栄えもよかったが、しかし彼らは女の恰好をした見栄えのいい男だった。ドレスを着てカツラをかぶった彼らはとても女性的に見える男性だったが、誰の目もごまかせなかった――ごまかそうとさえしていなかった」(上 p.103)。ロバータはこのような「女の恰好をした見栄えのいい男」の域を出ない、「古いタイプ」のようにも映る。

現在日本のテレビでは「オネエ」と呼ばれる人を見ない日はないといっていいほどだ。これをもって日本がセクシャル・マイノリティーにフレンドリーだとする人もいるが、このようにメディアに登場するのはあくまで「オネエ」という「キャラ」を受け入れる限りにおいてのことだろう。トランスジェンダーの人に対して「裏では男になる」だの「素が出ると声が野太くなる」といった「ジョーク」を飛ばす人がいるが、このような心無い言葉に本気で抗議するような人はテレビには受け入れられないであろう。

「古いタイプの異性装者」はみんながみんな好き好んで「 ごまかそうとさえしていなかった」というよりは、そのような「キャラ」を引き受けることによってしか差別を回避できなかった人が多かったと考えるべきだろう。そして小説、並びに映画の『ガープの世界』におけるロバータの造形は、今日から見るとこのような差別をマジョリティの側で無意識のうちに内面化していたのではないかという疑いを抱けなくもない。

『ひとつの体で』には、外見上はおろか話をしてもトランスジェンダーだと気づかれない人物が登場する。これは、この作品がセクシャル・マイノリティーへの意識の変化をふまえて、アーヴィングが過去の自作をアップデートしようとしたことの表れかもしれない。
「私が性転換者〔トランスセクシャル〕に感じる魅力はかなり限定されていた(申し訳ないが、私たちは「トランスジェンダー」とは言っていなかったのだ――八〇年代までは)」(上 p.101)。もちろんこのころにはLGBTという言葉も使われていなかった。言葉遣いを見てみても、ここ30年ほどのうちにアメリカ人のセクシャリティへの意識が大きく変化したことが確認できる。自分の過去作をふまえたうえで、この状況に対応しようとしたのが本作なのかもしれない。

2007年にボブ伯父さんはこう言う。「そこらじゅうで同性婚が合法化され始めるぞ」。しかしその口調は、「そんなことが起こるなんてとても思えない」と言いたげだった(下 p.296)。
近年のアメリカにおいて最も驚くべき変化は、これほど短期間のうちにいくつもの州で同性婚が認められたことだろう。2007年の時点でもごく一部の限られたリベラルな州でのみ起こり得ることだろうと考えられていたにすぎない。もちろん頑なに反対する政治勢力はまだ強大であり、南部を中心に同姓婚が否定的な意味でまるで政治的争点にすらないという州も多い。しかし全米レベルの世論調査では同姓婚への支持はすでに50パーセントを超えている。

「もしもあなたのレーガン時代(一九八一-八九年)を通り抜ける道が、知り合いの誰かがエイズで死ぬのを見守ることによって暗くなることがなかったのなら、あなたはあの時期を(あるいはロナルド・レーガンを)私と同じようには記憶していないということになる。なんという十年だったことか――そして私たちはあの馬に跨ったB級俳優にその大部分を委ねることになったのだ! (大統領だった八年間のうちの七年間、レーガンがエイズという言葉を口にしようとしなかった)」(下 p.185)、とあるように、レーガン政権(そして当時のマジョリティ)はエイズが広がりをみせても、これを「ゲイのガン」であり「天罰」だと考え、問題を放置し続けていたのであった(このあたりを時代背景にしたのが映画『ダラス・バイヤーズ・クラブ』である)。

80年代末でもこの状況であったかを思えば、いかにアメリカ社会が急速に変化したのかがわかるだろう。この状況を日本と比べてみるとどうだろうか。
ビートたけしは出演するテレビ番組で同性婚が取り上げられた際に、「同性婚が認められたらそのうち動物との結婚も認められるかも」と発言した。これは20年前ではなく2013年(!)のことである。
アメリカで同性婚への支持が急拡大した最大の要因は、同姓婚が「civil rights/公民権、市民権」の問題だという意識が広がったためであろう(LGBTの活動家たちもそのような戦略を取った)。
日本では「権利」を、「あいつの権利が広がったらこっちの権利が小さくなってしまう」といった具合に「ゼロサムゲーム」のように捉えてしまう人が多い。「弱者」や「少数派」に対して「同情」はするが、そのような人々が「権利」を主張し始めると途端に冷淡になるというのはよく見られる現象である。これはマジョリティの側が、マイノリティに平等の権利が認められる社会の方がそうでない社会よりもより良いものであるはずだ、とはならずに、マイノリティの権利が認められると何か自分たちが「損」をしたような気分になるためだろう。「権利」に対するそのような発想は日本ではとりわけ強いが、もちろん欧米においても同じような人は相当数いる。

ビートたけしはLGBTをはじめとするマイノリティに対して、日常的に嫌がらせをしているのかというと、おそらくはそうではないだろう。もちろん私生活は知る由もないが、むしろ身近にいるそのような人たちに暖かな言葉をかけたり、あるいはその人たちが危害にさらされそうになったら守ろうとしたりもする「男気」(あえて使っている)を見せるのではないだろうか。たけしがあのような発言をしたのは「権利」一般に対する偏狭な見方もさることながら、社会の変化についていけない(あるいはいきたくない)という部分もあるのだろう。

ここでたけしを槍玉に挙げたのは年齢のせいもある。たけしは1947年生まれ、アーヴィングは1942年生まれ。つまりアーヴィングも世代的には、「確かにゲイに暴力を加えたりするのはよくないけれど、何も結婚の権利まで与えることはないじゃないか」といった反応をしても不思議ではない。「リベラル」なはずの比較的高齢の人が、こと同姓婚の問題となると突如として反動化するというのもまま見受けられる(公民権法やアファーマティブ・アクション導入後に人種問題において「穏健」だった人の反応のように)。しかしアーヴィングはそうはならずに、この作品を通して誠実に自らの過去の作品と向き合い、果たしてあの頃の自分に偏見がなかったのだろうかと考察しているかのようだ。


ビルと継父のリチャードはこんな会話を交わす。

「相変わらずのテーマだが、これまでよりもうまく書けている――寛容を求める訴えにうんざりさせられることは決してないからね、ビル。もちろん、誰でも皆、何か、あるいは誰かに対して不寛容だ。気味は自分が何に対して不寛容かわかっているかい、ビル?」リチャードは私に訊ねた。
「なんだろうな、リチャード?」
「君は不寛容に対して不寛容だ――そうだろ、ビル?」
「それに対して不寛容になるのはいいことなんじゃないかな?」私は問い返した。
「それに君は自分は自分が不寛容であることを誇りに思ってもいるぞ、ビル!」リチャードは叫んだ。「君は不寛容に対して、この上なく筋の通った怒りを抱いている――性的な不寛容に対しては、とくに。神に誓って、君には怒る権利がないなんてことは決して言うつもりはないんだぞ、ビル」
「神に誓って」私は用心深く言った。リチャードの話がどこへ向かうのかよくわからなかったのだ。
「君は性的な違いには寛大だが――そしてそれは正しいことだ、ビル!――常に寛大というわけでもないんじゃないのかな?」リチャードは問いかけた。
 (下 p.166)

ビルはリチャードが何を言おうとしているのに気づく。それは「私は一九四二年、私が生まれたときの母の立場に立って考えていないとリチャードは言ったのだ。私には母を裁くことはできないし、そうすべきでもないと彼は言った。彼を苛立たせたのは、私が母を許さないからではなかった――母の不寛容に対する私の不寛容に彼は腹を立てたのだ」。

ビルは母の同性愛嫌いは、ビルを怒らせて当然のことである。したがってリチャードはそれを責めてはいない。しかしビルはその怒りによって、自らの「不寛容」を安易に正当化してしまっていいのだろうか。

寛容な社会を求める人が不寛容に対して不寛容になることは正しいことなのか。一般論として答えることはできるかもしれないが、現実の問題と向き合うと、そう簡単に答えを出せるものばかりではない。
シェークスピアを専門とする高校教師にしてアマチュア劇団の演出家でもあるリチャードと、ビルはかつて『ベニスの商人』について言い争いをしていたことを思い出す。リチャードは「これは喜劇――恋愛喜劇――だが、滑稽でない部分がある」と言った。それは「議論の余地のないシェークスピアのユダヤ人に対する偏見だ」。
ビルはシャイロックの肩を持った。「ポーシャの「慈悲」についてのセリフは気の抜けたキリスト教徒流の偽善だ。これぞキリスト教精神のこの上なく尊大で甘ったるい発露だ。一方でシャイロックには理がある。彼は憎まれることによって憎むことを教えられたのだ。当然ではないか!」。「『そしてひどい目に遭わされても』」、とビルはシャイロックの言葉を引用する。「『わしらは復讐してはいけないとでも? わしらが他のところであんたらと同じなら、ここのところだって同じはずだ』」。「連中はシャイロックに何をした」、とビルはリチャードに問いかけた。「ファッキン・クリスチャンになれと無理強いしたんだ!」。
リチャードはこう言う。「これは難しい芝居だ、ビル――だから僕は舞台にのせたことがない」。

アーヴィングはこの作品を通じて「過去」と向き合うと同時に、全てがそう簡単に割り切れるものではなく、そこに様々な葛藤があることもまた認めてもいる。ここでシェークスピアが持ち出されるように、この作品には様々な文学作品への言及があり、ビルが自身を発見するために(ある人に導かれながら)文学作品を渉猟する。文学は昔からこのような問題に挑んできたが、また『ベニスの商人』が(あるいは『ガープの世界』のある部分が)そうであるように、そこには時代的、社会的な様々な限界もある。そこに向き合うこともまた文学的営みであり、こうした曲折を経て人は成長していく……というとえらく古風に聞こえるだろう。もともとアーヴィングは(時代錯誤にも!)ディケンズをはじめとする19世紀的な小説を現代に甦らせようとしているのであり、その意味では「古風」な文学観の持ち主である。しかしそのような「古風」さはもちろん政治的保守主義とイコールなものではない。

アーヴィングはある意味では「古い」、しかし反動主義者ではない。そして「現在」から過去を反省的にふり返るからといって、時代と上辺だけの軽薄さで寄り添おうとしているのでもない。
ビルは「トランスジェンダー」と言うべきところをしばし昔の癖で「トランスセクシャル」と言ってしまい、「あのやたら正しい若者たち」などから睨まれてしまう。「どういう言葉が正しいか遠慮なく作家に指摘する人々がいるのには驚いてしまう。その同じ人々が影響〔インパクト〕を動詞で使うのを耳にすると、作家をきっぱりやめたくなってしまう!」(下 p.273)。と、このように「PC(ポリティカリ・コレクトネス)」の過剰な広がりを揶揄し、また「LGBT」という言葉については、「私はあまりにも時代に遅れていて、あのイニシャルを正しい順序で言えるようになるまで数日かかった」(下 p.294)と自分が時代についていけないことを告白している。また「LGBTと言うのはもはや適切ではない(というか、すべてを含んでいない)」と言われてしまう。「LGBTQ」と言わねばならないのだ、と。「そのうざったいQってのはなんだい?」と聞くと、「疑わしい〔クエッショニング〕、です」と返される。「LGBTQと言うのはちっともかまわない。ただ私の歳だと、うざったいQを覚えているのが難しいだけなのだ!」とふくれてしまう(下 p.310)。

もちろんこれはあくまで「ビル」の反応であってアーヴィング自身のものだとするのは早計だ。そしてまた、ビルは物語の終盤においてマッチョ的パターナリズムを見事発揮してもいる。

アーヴィングはこの物語を、(狭い意味での)「政治的正しさ」に捧げたのではなく、「誠実」さに捧げたのではないだろうか。ビルの言動はそのための相対化であるのかもしれない。アーヴィングの「試み」が誠実さに根ざすものであることと、ビルの言動があらゆる面において誠実であるか否かは分けて考えなければならない。「訳者あとがき」によると、「アーヴィングの末息子エヴェレットがゲイであることをカミングアウトしていたために、息子のために書いたのではないかと問われることも多かったようだが、アーヴィングはきっぱり否定している」そうだ。「この作品の構想を思いついた時点では息子がゲイだとは知らなかった」としている。一般に作家のこのような発言は素直に受け取るべきではないのだが、ただ息子一人のためだけに書いたということではないだろう。この物語は「パーソナル」でありつつも、もっと広いものでもある。
世界は一本の平坦な道ではなく、人は行きつ戻りつし、時に道に迷い、間違った道に入り込み、正しかった道を逆戻りをしてしまったりといったことを繰り返すものである。だからといってもう歩くのは嫌だ、面倒くさいと座り込んでしまうべきではない。そのアップダウンの激しい、入り組んだ道を歩き続けるための栄養源として文学というものは存在し、道を照らしてくれるのは誠実さなのである。


……なんて感じでまとめてしまうと、なんだか説教臭い物語のように思われるかもしれない。というか、正直に言うと少々、いやかなり説教臭いお話になっていることも否めない。

ビリーは高校時代、性的な連想が働いてしまう語をうまく発音できないという「構音障害」に苦しむ。ある日同じ高校に通う男の子が「タイム(時間)」とうまく言えずに苦しんでいることを発見する。「私はひたすらアトキンスがどれほど負け犬でお馬鹿かということばかり考えていた――あいつ、タイムって言葉が言えないんだ! なんて馬鹿なんだ!」。しかしすぐにある事に気づく。「同性愛に対する嫌悪は自分が考えていることとまるで同じじゃないかと私は思い至ったのだ。私はピーニスィーズという言葉が発音できない、それなのにこうしてタイムと言えない男の子にすっかり優越感を感じている」ではないか、ということに(上 p.178)。
確かにその通りではあるけれど、ちょっと道徳の教科書めいている印象も否めない。

こうなったのには一つにはテーマ的なものがあるだろう。かつてであれば、例えばハリーお祖父ちゃんがらみのエピソードはもっと抱腹絶倒のものになっていたかもしれない。「笑い」にはやはり「不謹慎」なものが入り込んでしまうために、そのあたりは抑え気味にせざるをえなかったのかもしれない。またその分だけ、アーヴィング特有の「お涙頂戴上等!」とばかりにくる衝撃がやや薄まってしまったところもあるだろう。

とはいえ、本書を濃縮したかのような「ねえあなた、わたしにレッテルを貼らないでちょうだい――わたしのことを知りもしないうちから分類しないで!」と、二度使われるこの言葉を前にすると、やはりアーヴィングの姿勢には感服してしまう。


感想もアーヴィング流に(?)つい長くなってしまったが、もう一つついでに加えると、ネタバレを避けるために曖昧に書くが(それでもわかる人はすぐにわかってしまうかもしれないが)、○○の××さんが実は△△という設定は村上春樹のある小説の設定と似ている。村上はその昔、まだ自身の小説が英訳され始める前にアーヴィングにインタビューをして、あまり気持ちのいい対応をされなかったことをエッセイに書いているが、アーヴィングは村上のあの作品を読んでいたのだろうか。またその部分だけでなく、村上の近年の長編小説は明らかに過去の長編の「語り直し」をしようとしているし、その点でもアーヴィングのこの作品での試みと通じるところがある。しかし村上の「語り直し」はどちらかというと手法的なものへの関心が高く、一方アーヴィングの今作での「語り直し」はテーマ的なものであり、手法はあくまでアーヴィング流を基本的には貫いているといったところは、二人の資質の共通点と差異を考えるうえで少し面白いかもしれない。


『ガープの世界』と『ホテル・ニューハンプシャー』あたりを未読未見の方は、これらをチェックして比較してみるとまた本作の見え方が変わってくるかもしれない。


プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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