『絶倫の人  小説H・G・ウェルズ』

デイヴィッド・ロッジ著 『絶倫の人  小説H・G・ウェルズ』





ウェルズが1908年に書いた小説、『空の戦争』は41年に再刊されていた。無差別爆撃による破壊と殺戮を予言したかのようなこの小説の新しい序文に、ウェルズは「言ったではないか。この大馬鹿野郎共」と自分の墓石に彫ってもらいたいと書いていた。
物語は1944年春から始まる。ドイツ軍の空爆が激化すると近隣住民は次々とロンドンから田舎へと避難を開始していったが、ウェルズは「あのくそったれそヒトラー」が「わたしを退却させることなんかない」と、鉄兜をかぶり空襲による火災監視役を務め続けていた。戦局が連合国優位になり、激しい空襲がおさまりはじめると住民は一人、また一人と帰ってきたが、ウェルズはそれをやや軽蔑しながら眺めていた。ウェルズの体内ではこの時すでにガンが進行していた。彼の子どもたち(妻との間の子どもに婚姻外で設けた子ども)はこのことを告知すべきか悩んでいた。ウェルズは常々「死を怖がっちゃいない」と言っていた。しかしそうはいっても、実際に自らの死がそう遠くないことを告げられても、人は平静でいられるものなのだろうか……。

本書の原題はA Man of Parts。エピグラフには辞書から Partsの二つの定義が引用されている。「 Parts 複数名詞 1 資質または才能――多才な人(a man of many parts)。2 陰部(private parts)の短縮形」。
原題はダブルミーニングになっているが、邦訳のタイトルが後者の意味を取ったのには理由がある。この小説ではウェルズの飽くことのないかのような奔放な性生活が執拗に描かれている。ロッジがウェルズの生涯のこの部分にとりわけ注目したのは、ここにウェルズの「矛盾の塊」を見出したからなのだろう。

ヴィクトリア朝的因習が色濃い中、ウェルズは生殖のために限らない快楽としてのセックスという意識を持っており、新婚時に避妊のためにコンドームを持ち出し妻をとまどわせる。性生活の不一致もあって最初の結婚は失敗に終わり、二度目の結婚をするが、この結婚生活中も盛んに女性たちを口説き、性交渉を重ねるのであった。進歩的文化人として女性の解放を説くが、その結婚生活の実態は耐え忍ぶ妻が家庭を守るというものでもあった。ウェルズにとってこの妻の存在は都合のいいものでもあり、また妻にとっても離婚は避けたいということから、二人の結婚生活は妥協が成立し継続していく。

このようにウェルズの言動は矛盾に満ちたものであったが、それは私生活のみにとどまらず、その作品、そして思想においても同様であった。ナチス・ドイツが猛威を振るう中、ジョージ・オーウェルはこうウェルズをあてこすった。「ウェルズが想像し、そのために努力したことの多くは、具体的なものになってナチス・ドイツに存在している。秩序、計画、国家奨励の科学、鋼鉄、コンクリート、飛行機のすべてがそこにある」。ウェルズはオーウェルと直接対決を行い、二人の論戦は「ほぼ引き分け」に終わるが、オーウェルはさらにラジオで「科学は世界を救うとH・G・ウェルズは予測したが、実際には科学が世界を破滅させるおそれのほうが遥かに大きい」と言う。ウェルズは激怒し、「そんなことはまったく言っていない、くそったれ。私の初期の作品を読め」とBBC気付けでオーウェルに手紙を送った。確かに『モロー博士の島』は科学を礼賛するようなものではない。また『宇宙戦争』も地球を救うのは科学ではなく偶然だ。しかし、他の作品ではまた「科学の応用が世界を救いうる」とも主張しているのであった。

ウェルズはフェビアン協会に加わり、フェビアン協会のその微温的姿勢を改めようと努力するが、それはむくわれず、やがてフェビアン協会から離れていく。ウェルズの社会主義的姿勢は博愛主義的ではなく、むしろその対極といっていいほどかもしれない。ウェルズは「貧困、病気、その他すべての人間の文明の悪が除去された、公正で合理的に統治されている地球規模の社会というヴィジョン」を描いたが、この世界は「奈落の人間」と評した「慢性的に貧しい者、失業者、病人、知能の遅れた者、犯罪者、アルコールと博打に溺れている者」たちのものではないともしている。「彼らを社会のほかの人間に寄食することを許すわけにはいかないのは明らかだ」として、「断種」や「毒殺」すべきだとまで書いていた。
「「毒殺」するというのは選択を誤った言葉で、何度も後悔した。そう書いたことで頻繁に非難された。殊に、ナチがジプシーと精神障碍者をガスで殺しているという報告のある最近は」とするが、ウェルズの過去の主張がナチスの蛮行とは似て非なるものであるとすることもできないだろう。両者とも社会ダーウィニズムへの信奉が強い影響を与えているのであるから。

この当時、「進化論」を俗流解釈し、これを人間社会にもあてはめるべきだとする社会ダーウィニズムは広く浸透し、ウェルズやジョージ・バーナード・ショーのような「左翼」的とされるであろう人々の間にも広がっていた。ロッジはこの作品においてウェルズ個人を告発しようとしたのではなく、この時代に広く浸透していた精神を描こうとしているのだろう。
ウェルズは第一次大戦後に世界政府を作り平和を築くべきだという主張を展開する。第二次大戦は連合国の勝利となり、連合国が国連へとなることを思えば、この結果はウェルズの主張に一歩近づいたかのように思えなくもないが、当のウェルズは「進歩」への信頼の念を失っていく。ウェルズはまさに時代の予言者というにふさわしい作品を数多く書いた(もちろん的外れに終わったものも多いが)。しかしウェルズの予言のある面はナチズムへと結晶し、科学を駆使した大量破壊・殺戮が起こり、ついには原爆の投下を知ることとなる。時代は進歩への素朴な信頼から、ペシミズムに満ちた冷戦へと移っていくく。19世紀末から20世紀中盤までの「矛盾」をすべて引き受けてきたかのようなウェルズの時代はこうして名実共に幕を降ろすことになるのであった。


「謝辞」には大量の参考文献があげられているが、この作品はあくまで伝記小説であって伝記ではない。
ロッジは文学研究者、理論家であり、また『交換教授』に代表されるようなアカデミズムや大学を舞台にしたコミック・ノベルの書き手でもある。『絶倫の人』はロッジのこの二つの顔を折衷したものだともいえようが、一方でなぜ伝記ではなく伝記小説なのかという疑問が湧かなくもない。小説という形式の利点としては、伝記では生まれざるをえない空白に想像力を働かせることができ、また登場人物たちに雄弁に語らせることができるため、生き生きとした感情を読者に提供することができることがあげられるだろう。一方でここに危うさを憶えられなくもない。読者はこれを「伝記」としっかりと区別をして受け取るのだろうか。ロッジはやはり謝辞において、やむを得ず創作した部分を具体的に明かしているが(とはいえいずれも無根拠に作り上げたものではない)、これはロッジがそのような危険性を認識し、避けようとしたためなのかもしれない。

「訳者あとがき」で歴史家であり小説家でもあるアントニー・ビーヴァーの「ファクション(虚構と事実を織り交ぜた小説)の危険」についての講演に触れられている。ロッジはビーヴァーの懸念を理解できるとしつつも、このような手法を擁護している。「十九世紀から二十世紀にかけて発達した小説技法――とりわけ、第三人称の語りを登場人物の内面の声と結びつける“自由間接文体”……――を使うことによって、伝記小説は伝記よりも主人公の送った人生の感覚を生き生きと伝えることができる。伝記では、伝記作者の声が支配し、語りの内容は手に入る証拠のみによって決められてしまう。小説的手法を用いれば、主人公の経験の無数の小さな部分を作り出す――想像する、と私は言いたいが――ことができる。ビーヴァーが指摘しているように、読者は、それがどれなのかを知る術がない。しかし、そうした部分が事実の記録と矛盾しない限り、そして、作品が歴史ではなく小説として読まれることを前提にしている限り、何も悪いことではない。それどころか、何か得るところがあるだろう。伝記小説は伝記に取って変わるものではなく、伝記を補い、主人公の人生の別の解釈を提供するものである。想像力を働かせて歴史上の個人の意識の内側に入り込むことによって、小説家は伝記的“事実”の理解に貢献するのである」としている。

確かにウェルズの晩年から始まり、その思想形成と並んで混乱した私生活を辿りつつ、最後にペシミズムにかられていくウェルズの「生の声」は、ウェルズの存在をより立体的に届かせるものであり、この作品はロッジの擁護する伝記小説の成功例だといえよう。しかしまた、「事実の記録と矛盾しない限り、そして、作品が歴史ではなく小説として読まれることを前提にしている限り」ではそうであるのだが、作家にそのような抑制心が働き、また読者にそのような反応を期待していいものなのだろうか。ロッジのこの作品とは違い根拠のない虚構や全くの創作が含まれる司馬遼太郎の「歴史小説」があたかも「歴史」であるかのように流通し人口に膾炙してしまっている日本の現状を考えると、ロッジほど楽観視することはできず、ビーヴァーの懸念のほうに妥当性があるように思えてしまう。繰り返しになるが、ロッジもその危うさを等閑視してはいないことは謝辞からも明らかであり、なぜあのような謝辞が書かれたにかを含めて、(とりわけ日本の読者は)受け止めなければならないだろう。


なおロッジはウェルズ作品のトップ10も選んでいる(こちら)。

ベスト3をあげておくと、1.『タイムマシン』 2.『宇宙戦争』 3。kippsとしているが、3位の『キップス』は映画化もされて『心を繋ぐ6ペンス』という邦題で日本でも公開されているが肝心の原作のほうは未邦訳のようだ。多作な作家だけに全集を出すのはさすがに難しいとは思うが、これだけ高名な作家の代表作の一つがまだ訳されていないというのはどうなのかと思ってしまう。確かにあらすじを読むと、「SF作家ウェルズ」の姿しか知らない人にはあまり興味を引かれないのかもしれないけれど。




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佐藤太郎(仮)

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