フロイトの犬

ロンドン・フロイト記念館編 マイクル・モルナール解説・注 『フロイト最後の日記 1929~1939』





「ウォール街の大暴落の1週間後にスタート」し、「第二次世界大戦勃発の1週間前に終わっている」このフロイトの最後に日記については広く知られており、いくつかの本では資料として使用されていたものの、刊行されたのはようやく1992年のことであった。

これには何かおどろおどろしい逸話があるわけではなく、モルナールはこれを「日録」と呼ぶように、いわゆる「日記」といってイメージされるようなものではなく、簡単なメモや覚書といった程度のものだったためだ。内容的にも身辺雑記から面会の記録、あるいは社会情勢など雑多なものであり、文脈をふまえなければ個々の文章はセンテンスとしては意味をなしてはいても、これがどのような意味を持つのかはつかめない、これ自体ではそう興味を惹くようなものにはなっていない。モルナールがこの無味乾燥にも見える「日録」に詳細な解説・注を付したのが本書である。


この時代はフロイト個人にとっても、そしてヨーロッパにとっても厳しいものとなっていく。フロイトは既にガンの大手術を行い、この日記をつけている最中にも再発や再発の恐れなどから大小凄まじい数の手術に耐えねばならず、装着している人工口蓋の不調にも苦しむ。高齢でもあり、そう長くは生きられないことは覚悟していたが、そこにドイツでのナチス政権の誕生、オーストリアへの波及という事態が起こる。

1933年2月28日には「ベルリン国会議事堂 火事に」、3月5日には「ヒトラーの選挙 ドイツで」と例によって簡単にしか記していないが、もちろんフロイトはこの状況に関心を払っていないわけではない。しかし歴史の後知恵でいうと、「愛国的幻想」から楽観論にも捉われてもいたのである。フロイトはオーストリアから脱出しないという決意を固めていた。フロイトは数ヶ国語に通じていたとはいえ、母語であるドイツ語から切り離されることは耐え難いと思っていたのである。

フロイトは1933年4月のある書簡にこう書いている。「我々は次の2点にこだわっています。出ていかないという決意と、当地で何がおきるにしても、ドイツとは著しく違うだろうという予想とにです。この国は右翼諸政党による独裁政治に向かっており、彼らはナチスと同盟を結ぶでしょう。これは決して良いことではありません。ですが、少数民族への差別的法律は平和宣言によってはっきりと禁止されていますし、〔第一次世界大戦の〕戦勝国もオーストリアとドイツが併合することは決して認めないでしょう。それから、オーストリアの烏合の衆はドイツの兄弟より、ほんの僅かですが野蛮ではないのです」。

1933年5月11日には「ベルリンの焼却」とある。これはもちろんナチスによる焚書のことである。「魂を崩壊させる本能生活の重視と対決し、高貴な人間精神を守るために! 我々はジグムント・フロイトの著作を炎の中に投げ入れるのだ」というスローガンのもと、フロイトの本は火にくべられた。フロイトはこの時に「何という進歩でしょう。中世なら彼らは私を燃やしたに違いありません。当節は本を燃やしただけで満足しているのです」という有名な皮肉を残しているが、ナチスは後に「本を燃やしただけ」では「満足」しなくなるのである。

1938年3月11日に「シーシュニクの辞職」とある。オーストリア首相シーシュニクはこの日の午前に国民投票の中止を決め、夜には辞職を表明した。この時のラジオ放送をフロイトは聞いていたが、長男のマルティンの記憶によれば、フロイトがラジオを聞いたのはこの時だけだということだ。

ナチスの影響力は拡大し続け、ついにオーストリアはドイツと併合することになり、フロイトの生命まで危惧される状況になる。アメリカ大使館の介入などにより、フロイト自身に直接暴力が加えられることはなかったものの、末娘のアンナがゲシュタポに連行されるなど様々な嫌がらせが続くことになる。ここにきてようやく亡命を決意するのだが、時すでに遅し、ということになっていてもおかしくはなかった。この頃各国はユダヤ人難民に対しては「残忍なほど不親切」であったが、この言葉を残したアーネスト・ジョーンズの尽力により異例の短期間でフロイト一家のイギリスへの入国が認められる。

しかしオーストリア出国にはゲユタポとの交渉が待っていた。しかしこれを担当したナチス特務委員、アントン・ザウアーヴァルトはフロイトの旧友ヘルツィヒの教え子であり、「フロイトを敬い、誠実に振る舞」ったのであった。また「亡命税」を算出するためにフロイトの蒐集した古美術品を鑑定したウィーン美術史美術館館長ハンス・フォン・デメルはフロイトと面識があり、意図的にその価値を低く鑑定することによってフロイトはそのほぼ全てを国外へ持ち出すことができた。このようにオーストリアで培った人脈がなければ、フロイト一家の脱出はさらに困難になっていたことだろう。このようにフロイトに協力した人々がいたことは美談のように思えてしまうかもしれないが、逆に考えるとユダヤ人であるフロイトに敬意を払っていた人々までがナチス政権に協力しなければならなかったというグロテスクな歴史の一コマを写したものだともいえよう。

健康状態は深刻さを増す中、フロイトはロンドンへ脱出し、この約一年後に亡命先で亡くなることになる。


さて、「フロイトの犬」というのは比喩的な意味ではなく、文字通りのペットの犬のことである。本書を読むとフロイトがいかに犬を愛していたのかが強く印象づけられる。

1929年11月11日に、「アダ、逃げ出す」という記述がある。
フロイト家と犬との付き合いは、末娘にして子どもたちの中で唯一精神分析家となったアンナが一人でウィーンの街を散歩できるようにと、護衛役としてシェパード犬のヴォルフを飼うことから始まる。フロイト自身もチャウチャウ犬、リュン・ユーを飼うが、この犬はこの年の8月に轢死してしまい、フロイトはたいそう悲しむ。アンナは9月にジョーンズへの手紙で、「新しいリュンが家にいればいいと思うのですが、父は耳を貸そうとしないのです」と書いている。フロイトは今でいうところのペットロスに近いものであったのかもしれないが、では11月に現れたこの「アダ」は新しい犬だったのだろうか。これについて「手紙や個人的回想の類を調べてもこの記載について手がかりはない」のだそうである。

1929年11月25日には「アダ 連れ戻される」とある。これは二週間もの間逃げていた犬、ないし他の動物が発見され、連れ戻されたということなのだろうか。そして12月30日には「アダ 死ぬ」と記される。「謎の「アダ」が出てくるのはこれが最後」である。この哀れなる「謎の「アダ」」は二ヶ月の間に逃亡し、連れ戻され、死亡することが記されるが、はたして犬であったのかどうかさえわからない。なんだか小説のネタにでもなりそうそうな話のようにも思えてしまった。


1930年3月9日に「ヨフィ 着く」とある。ついにフロイトは再びチャウチャウ犬を飼うことを決め、ヨフィと名付け溺愛する。5月にベルリンへ行くためヨフィをあずけたのだが、フロイトはこれを心配して手紙で「誰かヨフィの所へ行ってやりましたか? あの犬をたいへん懐かしく思います。亀では代用になりませんね」と書いている。

フロイト家の「犬に関する記録は錯綜している」のだそうだ。というのも、「チャウチャウ犬達の名前はいろいろに綴られ、前の犬と同じ名前が新しい犬にもつけられて、何度も使い廻しされたからである。フロイトが1939年6月の亡命でパリを通過する際、愛犬リュン(最初のチャウチャウ犬の名前を取った)は、マリー・ボナパルトのずっと大きいタトゥーンに会うと、隠れてしまった。その後、ハムステッドのチャウチャウ犬は数世代にわたりヨフィと名づけられた」とのことである(1931年に生まれたヨフィの最初の「夫」との間の子どもはタトアンと名づけられたが、これはマリー・ボナパルトのタトゥーンから取られている)。

歴代のペットに同じ名前をつけ続けるというのは昔の人は結構やることがあるが、フロイト家でもそうされていたようだ。もっともだからといって、必ずしもペットへの愛情が現在とは異なるということにはならないだろう。
フロイトは誕生日を祝われ、プレゼントを用意されることがあまり好きではなかったが、それでも渋々受けとっていた。そんな中例外的に素直に喜びを表した贈り物がある。フロイトは1930年の誕生日についてある手紙にこう書いている。「ヨフィの名前で書かれた詩が一番素敵です。もちろん書いたのがアンナで、小さな本物の亀にくくりつけて届けられました」。
フロイト家ではヴォルフを飼い始めてから犬が詩を送るというならわしができていた(「記録映像を見ると犬の首に詩が結びつけて」あるのだそうだ)。この年はヨフィが外にあずけられていたために亀が代役を果たした。
この年の詩はこんな内容だ。「ヨフィは飛び廻り、ドアから抜け出し、革ひもをくぐり抜け、敵と戦う。体を伸ばしてご挨拶。ご主人の手をなめ、5月6日に、このプレゼントを送るんだ。この手紙がこっそり明かすのは、どんなに心を入れ替えて、もっと良い子になりたいのかだ。ドアが開いても、動いたりしないし、吠えもケンカも駆けっこもジャンプも、食べたりも飲んだりもしない。そう、悲しいヨフィは言う、だって離れ離れなんだもの」。


1932年12月8日の解説によるとフロイトは手術の影響で食欲を失ってしまうが、残った食事はヨフィがあらかたたいらげていたそうだ。ところでこの頃のヨーロッパだとペットに何を食べさせていたのだろうか。日本だと残飯が中心だったのだろうが、事情は同じだったのだろうか。

例によって厳しい顔をしたフロイトが遊ぶヨフィを見下ろしている写真も収録されているが、フロイトは犬と遊ぶ時にはどんな表情をしていたのだろうか。1930年のルー・ザロメへの手紙で、フロイトは「このような動物を尊敬せずにはいられません」と書いているが、一人前扱いをして、犬だけに猫かわいがりをしたりはしていなかったのだろうか。

なにはともあれ、犬たちがフロイトにすごくなついていたことは間違いないようだ。1938年6月10日に「リュンを訪ねる」とある。ロンドンへ脱出し、その際に検疫のために据え置かれていた愛犬リュンを訪ねた様子を、検疫犬舎所長は新聞記者にこう語っている。「どちらの方が大喜びしたのか、言うのは難しいですな。動物の目があんなに幸せにあふれ、すべてを承知しているのを見たのはこれが始めてです。(中略)リュンと戯れる教授は、ありとあらゆる愛らしい言葉を使って、リュンに話しかけていました。たっぷり1時間ほどね」。

1938年12月6日に「リュン 戻る」とある。6カ月の検疫を終え、ついにリュンが戻ってきたのだ。
「リュンが検疫犬舎にいる間、フロイト一家はペキニーズ・ジャンボ犬を「一時的な代用品」として購入した」のだが、アンナは「父はリュンに非常に義理固ったようです」とふり返っている。
フロイト家の犬はイギリスのメディアの注目も集め、リュンが検疫から解放されアンナと共にいる写真が「デイリー・ヘラルド」紙に載り、本書にも収録されている。ある記事は犬舎の係員のこんな言葉を紹介している。「あの雌犬はご主人を見つけると、大喜びで跳ね回りました。(中略)犬があんなに興奮するのを見たのは初めてですな」。


ロンドンへ向かう途中、パリでマリー・ボナパルト宅の中庭で撮影された写真も本書に収められている。力なく、すっかり老いた姿で椅子に横になるフロイトの傍らにつきそうリュンの姿は、主人を守ろうとしているかのようにも見える。それだけに、フロイトの最後が近づくと「二次感染による腐敗で頬に穴が開き、その悪臭にチャウチャウ犬リュンも逃げ出した」というのは痛ましい。それでも「最後の数日までフロイトは鎮痛剤を断った」のであった。


死期が遠くないことを悟っていたフロイトは晩年にある仕事をしている。1938年5月12日に、「トプシー 出版さる」という記述がある。これはマリー・ボナパルトの著書、『トプシー 金毛のチャウチャウ犬』をアンナと共訳したものである。アンナはその序文にこう書いている。「フロイトが犬に興味を持ったのは、晩年であった。1920年代に、大柄で危険が無いわけでもなかったジャーマン・シェパード犬との相互の尊敬に基づく関係で始まった。この犬は10年以上にわたって、私たち一家と生活を共にした。次第に深まったこの興味は、やがてフロイトのためにわざわざパリから入手した動物への優しい心遣いに変わった。(中略)フロイトが犬を高く評価したのは、その気品、献身と、忠誠だった。また、人間と比較した際の著しい長所として、たびたび賞賛したのは、曖昧さのなさであった。彼はよくこう言ったものだ。『犬は味方を愛し、敵に噛みつく。人間が、純粋な愛情を持てずに、対象関係で、常に愛と憎しみとを、混ぜあわせるのとは、まるで違うのだよ』」。

晩年のフロイトは精神分析を必要としない犬を愛したのであった。


フロイトの伝記としては決定版ともいえるピーター・ゲイの『フロイト』も久しぶりに目を通してみたが、上記の「記録映像」というのはおそらくゲイが注で触れているsigmund freud his family and colleagues 1928 – 1947 という作品のことか。残念ながらこれはソフト化はされておらずネットにもあがっていないが(たまに上映会などは開かれていたようである)、おそらくはここからの映像を使ったと思われるこのドキュメンタリーには犬を愛でるフロイトの姿がちらっと確認できる。




なおゲイの『フロイト』ではヴォルフについて、「アンナが散歩のときのボディガードとして飼い始めたアフガン犬のヴォルフ」とある(『フロイト 2』 p.624)。これはおそらくはシェパードが正しいので、ゲイの誤記か誤訳なのだろうが、この伝記は大部でありながら犬に触れられているのはごくわずかであり(もちろん「アダ」は登場しない)、フロイトと犬についてはあまり関心を呼ぶテーマとは見なされていないということなのだろう。かなり面白そうなのに。

マリー・ボナパルトの『トプシー』の邦訳は出ていない。これは英訳なのでアンナの序文が収録されているのかは不明だが、フロイトについては少し触れられているみたい。



フロイトのウィーンからの脱出を扱ったこの本はそのうち読む。






プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR