conscience of a liberal 


2月1日の朝日新聞の朝刊に「富裕層の被害妄想」というポール・クルーグマンのコラムの翻訳が掲載されている(Paranoia of the Plutocratsの原文はこちら)。
クルーグマンは「不平等の拡大」は「生産性が向上しても賃金が停滞し、負債が増大して金融危機に弱くなる」だけではなく、「健康の悪化や死亡率上昇につながることを示す有力な証拠がある」と始める。クルーグマンはここから話を進め、「1%」の富裕層に対する世論の批判を嘆く億万長者が、これを「ナチスのユダヤ人攻撃になぞらえ」、「水晶の夜」に私たちは向かっているのだとした投書がウォール・ストリート・ジャーナルに掲載されたことにあきれつつ、こういった人間は「それほど異常な存在でもないのだ」としている。このような「被害妄想と誇大妄想を併せもった政治的・経済的見解を抱き、声高に表明」している大富豪は数多くいる。ウォール街の関係者は、オバマが「一部の銀行家が見苦しい振る舞いをしたという明白な事実をただ口にしただけなのに」、これに「富裕層を悪者扱いして迫害している」という非難を浴びせた。クルーグマンはこの1年の金融制度改革で「1%」側を敗北に追い込んだ民主主義を讃え、自分を中心に世界が回っているかのように考え、その財力にものをいわせて「ご機嫌取り」や「取り巻き」の中に身をおき、「選挙献金を欲しがる政治家からも特別扱いされることに慣れている」富裕層を批判する。
このような「宇宙の支配者」は「お金をあちこち動かし、上前をはねて富を築いている人々」なのであり、「自らの成功の質に不安を感じているのではないか」ともしている。「彼らは本当に付加価値を生んでいるのか?」という疑いを、他ならぬ富裕層自身も抱いており、「この自信喪失のせいで、批判に対してさらに激しくかみついているのだ」、としている。
そしてクルーグマンは、1936年に行われたフランクリン・ルーズヴェルトの有名な演説を思い出している。ルーズヴェルトは「「組織化されたお金」の勢力から受けた憎しみについて触れ、「憎しみを歓迎する」と宣言したのだ」。そしてこの点ではオバマの政策はまだまだ不十分であるとしている。
「オバマ大統領と進歩的な人々はルーズヴェルトと同じく、このような憎しみを歓迎すべきなのだ。それは、何か正しいことをやっていることの表れなのだから」と結んでいる。

例によって共和党支持のマンキューはクルーグマンの軽率さを批判しているようだ(こちらを参照)。「経済学者」としてのクルーグマンを評価しつつ、このようなコラムは政治色が強すぎるのではと感じた人は、クルーグマンがなぜこのような文章を書き続けているのかについて向き合ってみる必要があるのではないだろうか。


経済成長なんてもういらない? そう言う人は貧困問題や雇用問題をどう改善させようというのか、ぜひとも具体的な処方箋を提示してもらいたい。経済が成長しなくていいいということは、今貧乏な人は一生貧乏のままでいろ、失業中の人は一生失業していろというのと同じことだ……

という「脱/反経済成長論」への批判を目にしたことがある人は多いだろう。僕もこのような意見に賛同する者である。経済が停滞すれば税収が減り、税収が減ると真っ先に攻撃の矢面に立たされるのは社会保障である。とりわけより弱い立場にある人たちへ攻撃が社会にいかに跋扈するかは、ここ数年の日本での生活保護叩きをご覧になればおわかりいただけるだろう。


「リベラル」という言葉は日本(だけでは必ずしもないが)ではやっかいな使われ方をしていて、肯定的な意味で用いている人も否定的な意味で用いている人も各人各様が好き勝手に定義を作り出しているというのが現状である(「自由主義」という意味なのか「中道左派」という意味なのか?)。さらにはかつての「アカ」という罵り言葉同様に、自分の気に食わない人間を好き勝手に「リベラル」とラベリングして揶揄している人や、どうみても「自由主義者」とも「中道左派」でもないような人が「リベラル」を自称したりと、もうなんでもありという状況になっている。

とりあえずここでは「リベラル派の経済学者」を、資本主義を肯定し、市場の役割を重視するが、同時に資本主義経済の安定的成長には適切な規制と積極的な再分配政策は必要不可欠なものであり、国が一定の役割をはたすことを一面的に否定しない人たちであると定義しておく。

従って僕もこのようなリベラル派の経済学者と意見を共にすることが多いのだが、しかしまた日本のリベラル派(とされることがある)経済学者やその周辺への違和感というものを覚えることも少なからずある。


「脱経済成長」論は日本においてかなり根深く浸透しているが、このような主張をする人を高齢の金持ちだという前提で批判する人は多い。確かにそのような面があることは確かであり、想像力とリアリティを欠いた醜悪な主張なのだが、では「脱経済成長」を唱える人たちが皆裕福な人間なのかというとそうではない。貧しい人たち、またそのような人たちにシンパシーを寄せる人たちの間にも、「経済成長なんてもういらない」という考え方をする人は確実に存在している。


このたび方針が示された労働者派遣法の「改正」に代表されるように、この問題について財界、官界、政界(の多く)の主張を「翻訳」するならば、「現代風奴隷制度の復活への待望」ということになろう。安価で低賃金の労働者を必要なときには「活用」し、必要がなくなればそのまま切り捨てて、あとはその「奴隷」の連中がどうなろうとも知ったこっちゃない、というのは、そのように解釈するより他ないだろう。そしてもちろん、「お前らなんぞには生活保護なんぞやらん」という、再分配否定もセットになっている。低賃金、不安定雇用の労働に従事してきた、貯金ゼロの人々がこれから大量に中高年に差し掛かるのだが、その人たちが病気や怪我をしたらどうするつもりなのか? 「知ったことか」ということなのだろう。

日本人の多くが意識していないが、日本ではすでに「現代の奴隷制」が事実上導入されている。「外国人実習生」という名目で日本にやって来て、労働法はおろか人権の埒外に置かれたかのような扱いを受け、「奴隷」と言うより他ない環境にある人々が数多くいるのである。そして安倍政権はまた、このような「現代の奴隷」の拡大を目指す方針である

貧困問題や外国人労働者の人権問題などに取組む少なからぬ人が、「経済成長」という言葉に嫌悪感すら抱くのは、単に「資本主義」への抽象的拒否感のみならず、このような現実があるからでもある。「奴隷」を必要としなければ「経済成長」ができないのであらば、そのような「経済成長」など必要とすべきではないのだ、と。

もちろんリベラル派の経済学者はこれに反論することだろう。経済成長と労働者を奴隷のごとく扱うことは不可分ではない。経済学者の中には労働問題や貧困問題に関心を寄せ、また専門の研究テーマとし、さらには実際に様々な運動に積極的にコミットメントしている人もいる。しかし、日本の「リベラル派」とされる経済学者の多くは、「奴隷制」にさらされる労働者や貧困に陥った人、あるいは基本的人権がないがしろにされているという状況で、その当事者やそれを憂う側からの「経済成長」への違和感についての「対話」が十分ではないのではないかという印象もぬぐえないところでもある。経済学者の側からすれば、むしろ「経済成長」を否定する側の頑迷さこそが問題であり、そのような人たちは「話が全く通じない相手」なのだと見なしてしまうことも、この悪循環に拍車をかけているように思える。また、そのような「対話」に乗り出す「経済学者」(とされる人も含む)が、往々にして「経済学」を「降りて」しまい、感情的な右派への批判に終始してしまいがちであることも、話をややこしくしてしまう。


いちいち「日本」のリベラル派と書いてきたのは、ここでクルーグマンの変化について考えたいからである。
クルーグマンはここ数年、年を経るごとに「リベラル色」が強まっているという指摘がある。それを端的にあらわすのが、ナオミ・クラインの主張する「ショック・ドクトリン」に、嫌味っぽくではあるが一定の理解を示したことだろう(こちらを参照)。

90年代後半あたりから、アメリカをはじめとしていくつかの国で、「スウェットショップ(搾取工場)」批判が盛り上がった。「先進国」の大企業が「第三世界」の労働者を搾取する実態を告発したナオミ・クラインの『ブランドなんか、いらない』はそのバイブルともいえる本だ。
経済学者の多く(いや、ほとんどというべきか)は、スウェットショップ批判や、反グローバリゼーションに対して冷淡であり、クルーグマンを含むリベラル派も例外ではない(スティグリッツのようにTPPなどに慎重な姿勢を示す世界的な経済学者は珍しい部類に入るだろう)。
経済学者による主な批判は次のようなものであろう。「雇用はないよりもあったほうがマシ」、「先進国の規準からすると劣悪と映っても、実際には現地の規準からすると待遇はいいほうだ」、「仮に工場が撤退してしまえば、工場労働者は他に働き口がないためにただの失業者になってしまうだけだ」。

資本主義が嫌いな人のための経済学』でジョセフ・ヒースは、右派を切って捨て、返す刀で左派もばっさりとやり込めている。ナオミ・クラインについても多くの経済学者同様に揶揄的に扱っている。
この本の感想で僕は「クルーグマンはよりリベラルな政治姿勢を鮮明にして(意図的に)右派を挑発する傾向もあるが、ヒースは本書を読む限りではもっと冷めているようにも思える。この差は二人の専門領域によるのかもしれない。少なからぬ左派が経済学をうさんくさいもの、もっといえば唾棄すべきものと感じていることだろう。このような感情は経済学そのものというよりは経済学者のイデオロギー的偏向によるご都合主義的な言動によってもたらされているケースが多い。ゆえにクルーグマンやスティグリッツといった政治的にリベラルな経済学者はリベラル派の信頼を勝ち取るためにもより政治的にリベラルな立場を鮮明にすることで、経済学そのものへの不信を払拭しようとしていると考えられなくもない」と書いた。

クルーグマンがリベラル色を強めたきっかけは、ブッシュ政権、共和党、並びに高名な経済学者を含むその取り巻きたちへの嫌悪感であろう。しかしブッシュ政権が終わり、オバマ民主党政権が誕生したが、クルーグマンは政治色を薄めるどころかますます強めているかのようだ。

クルーグマンに対して「党派性を優先させて理論的整合性をおろそかにしている」という批判が寄せられることもある。クルーグマンはこう返すことだろう、「で、あんたらはどうなの?」。
「ブログを更新するのに忙し過ぎる」とまで揶揄されても、クルーグマンが積極的にリベラル側で論陣を張るのは、ニューヨーク・タイムズという専門家向けではない新聞社を「媒介」にしたことによって、アカデミックな論争に勝利しようとも政治を動かすことや非経済学者の憶見を修正することはできないということを思い知ったからだろう。

CEOが数千万ドルの収入を手にしている企業でフルタイムで働いている人がフードスタンプを受給しなくてはならないほどの薄給であるなどというのは、どう考えても馬鹿げた現象だ。これは「アメリカの伝統」などではない。1960年代であれば、税制や規制もさることながら、社会的にこのような経営者は容認されることはなかっただろう。散々指摘されているように、このような現象が始まったのは80年代、レーガン政権下においてだ。レーガン政権による規制緩和や労働組合潰し、富裕層に有利な税制改定があったこともさることながら、アメリカ社会がこれを容認したことが最大の理由であろう。

スティグリッツは、『世界の99%を貧困にする経済』において「レントシーキング」を徹底的に批判している。単純化していうならば、スティグリッツによるレントシーキング批判は、公共財を掠め取っての専有化が進められ、さらに富裕層が政府、政治と結びつくことによってルールを歪め、規制や税制などあらゆる政策を自らに有利なように誘導すること、となろう。まさにレーガノミクスとはレントシーキングの勝利であり、アメリカは、そして世界の多くの国はその影響下にあり続けている。

少々荒っぽくいうならば、「新自由主義」、あるいは「ネオリベ」とは姿を変えたクローニー・キャピタリズムであり、そのようなクローニー・キャピタリズムが、社会を破壊し、ついには資本主義をも危機にさらしてしまうということになろうか。「新自由主義」や「ネオリベ」という言葉を見ただけで鼻をつまんで立ち去ろうとする経済学者もいる。確かに安易なこれらの語の使用は慎むべきであるが、同時にまたこれらが一切実態を持たない、左翼の妄想の中にだけ存在しているとするのも早計だろう。

クルーグマンは『経済政策を売り歩く人々』で、ジョン・クイギンは『ゾンビ経済学』において、サッチャリズムやレーガノミクスを支え、さらに現在にまで影響力を保っている経済理論を批判している。
そもそもが、サッチャリズムやレーガノミクスは経済理論によって産み落とされたものなのだろうか。むしろ経済学が政治に屈し、イデオロギー性を優先させた結果なのではないのだろうか。
サブプライム危機、リーマン・ショックの結果として、一度は死んだとすら見なされたケインズに再び強い脚光が浴びせられるようになった。しかし政治家、メディア、そして有権者の間では、依然として財政赤字削減のための緊縮予算や「構造改革」のための規制緩和や民営化こそが経済危機への最大の処方箋だという「ゾンビ」的主張が幅を利かせている。

学術的禁欲性から専門領域に引き篭もっていてはこれを打ち破ることはできない、奴らが政治性を前面に出してくるのなら、こちらもそれに対抗すべきだ、クルーグマンが政治的リベラル色を強めて、ナオミ・クラインにすら一定の理解を示すような変化はこのような考えによるものなのかもしれない。クルーグマンが専門であるとは言いかねる、オバマ政権による医療保険改革を擁護する論陣を積極的に張るのは、政治的にリベラル(中道左派)な、経済学になじみのない人々の「感情」をリベラル派の経済学者は獲得しなければならないという思いからなのかもしれない。


ここで日本の状況を考えると、クルーグマンやスティグリッツのような問題意識(自らの経済政策を実現させるには中道左派という意味においての「政治的リベラル派」の「感情」を獲得しなければならない)を持つ経済学者(やそれに近い人)があまりいないことに気がつかされる。それどころか、むしろその対極の言動を取る人すらいる。

安倍政権誕生によって実現可能になった金融緩和は間違いなく景気回復に資するものであり、その点をイデオロギー的観点から否定しようとするのは愚かである。しかし安倍政権が部分的に正しいことをしているからといって、アクロバティックな論法を用いてまで安倍やその周囲の極右的言動を擁護することもまた愚かなことである。そして労働問題を含む数々の右派的な政策を「擁護」をしないまでも、「大目」に見ることによって、「リベラル(中道左派)」な政治観を持つ人から不信を買っていることに、日本のリベラル派経済学者はもう少し自覚的であるべきではないだろうか。

クルーグマンやスティグリッツが「アベノミクス」を評価するのは、アメリカ人にとってあくまでこれが外国の話だからという部分もあろう。これがアメリカ国内の政策であれば、もう少し緻密な議論をし、矛盾する部分がある各種政策を「アベノミクス」と一括りにパッケージ化することに異議を唱えるのではないだろうか。
とりわけクルーグマンは、仮に共和党が民主党よりも部分的にまともな政策を出したとして、それによって民主党よりマシなんだから共和党を消極的にでも支持するよ、と言うのかは大いに疑問である。これを単に偏狭な党派性だとすることもできるが、繰り返しになるが、右派が党派性をむき出しにして経済政策を歪ませてきたのだから、こちらもやり返さなければならない、そうしなければ歪んだ政策のバランスを取り戻すことはできない、という意識なのではないだろうか(クルーグマンの場合は当人の天邪鬼的性格が作用しているということもあるのだろうけど)。

「政治的リベラル派」の経済政策への怠慢には僕も強く憤りを感じており、そこの部分で「リベラル派経済学者」が譲歩する必要はないだろう。一方でまた、「政治的リベラル派」の愚かさばかりを喧伝し、右派の暴走への警戒を怠る「リベラル派経済学者」には、もう少しconscience of a liberal(リベラルの良心)の気概を持ってもらいたいとも思うのである。まあ、苛立つ気持ちもわからないではないのですが。


クルーグマンのことばかり書いてしまったけれど、こういう思いがここ数ヶ月でさらに強まったのは、オバマ政権が遠回りしつつ、なんだかんだいってFRB議長にイエレンのような雇用を重視する人物を持ってくるというカードを切ることができたのに対し、日本では実務経験を積んだリベラルな経済学者が要職を担う日が来ることがあるのだろうか、ということを考えてしまったからである。


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佐藤太郎(仮)

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