『狂気について』その1

渡辺一夫著 大江健三郎・清水徹編 『渡辺一夫評論選 狂気について』





大江健三郎が高校時代に渡辺一夫を読み、渡辺に師事したくて東大仏文科を目指したというのは有名なエピソードであるが、本書に収録されている文章を読むと、大江やその同世代の人々がこの「ユマニスト」のどこに魅せられたのかというよくわかる。


本書の最後に収録されている1972年に書かれた回想的エッセイ、「老耄回顧」で、渡辺は苦い気持ちであの頃をふり返っている。

「大学二年の時、関東大震災が起った。幸い私の家は焼けないですんだが、人心の荒廃やいわゆる「不逞鮮人事件」や甘粕憲兵大尉の大杉栄虐殺事件などは、私に色々な問題を投げかけた。しかし、いずれも、私を極度に当惑させるだけであり、私に解けるものではなかった。ただ、重苦しいものに、のしかかられているような気がした。足を踏み入れたばかりのフランス文学を、当時辰野先生のお言葉を安易にしか解釈していなかった私は、ただ「一所懸命に楽しく」齧り続けるだけだった。従って、震災によって投げかけられた色々な問題は解かれずに通り過ぎて行った。「昔は物を思わざりけり」だったのである。我々の知らぬ間に、意味深い大小の事件が我々とすれすれに通り過ぎてゆくことは、後になって判ってきた」(pp.296-297)。
渡辺は一九三一年から一年半フランスに留学することになる。この間に満州事変が起り、「パリで中国人に会うのがつらかったし、フランス人から中国人と間違えられて同情めいたことを言われてやり切れない気持にもなった」(p.298)。
「ヒトラーがドイツ首相となったという報で、フランス中は不安に陥ったが、当時パリにいた私は、それがどのような重大な結果になるかは全く判らなかった。フランス文学という宝庫のなかから、「好きなもの」としてラブレーを選んだ以上、辰野先生の言われた通り、「一所懸命に楽しくやる」のが私の義務だと思っていた。しかし、「一所懸命に楽しくやる」こともできなくなる時が、静かに歩み寄っていたことには気がつくはずもなかった。五・一五事件のことはパリで知った。/帰国後しばらくしてから、二・二六事件が起った。そして、このような事件は、その後も度々起るか、あるいはもっと困った破局が訪れるかもしれないという予感はあったが、さして深くは考えないでいた。前にも記した通り、関東大震災の時に、色々な重大な問題に気附きながらも、それを見過ごしてしまったのと同じく、「昔は物を思わざりけり」だったのである。しかし、二・二六事件の時(一九三六年)には、スペイン戦争、ナチ・ドイツのラインラント進駐が行われたし、既に「満州帝国」を作っていた日本は、親独伊の傾向を強めながら、中国での泥沼のような戦争にはまりこんでいた。そして、「思想善導」運動や「日本精神作興」運動が始められ、その「洗脳」作業に批判的な言動は「非国民」的とされ始めた。そして、この時期から、私はそろそろ少しは「物を思う」ようになったらしい」(pp.300-301)。

まさにあの時代の真っ只中を経験した渡辺が、当時は気がつかなかったが後になってふり返るとターニングポイントであったのが関東大震災とその後にあったとしている。渡辺の子どもの世代にあたる宮崎駿も『風立ちぬ』で関東大震災を取り上げていたが、同じような意識からだったのかもしれない。このような認識はある世代にとって「常識」であったのだろうか。そうであったとするなら、宮崎より下の世代では関東大震災後の蛮行は個々の出来事としては記憶されていても、それを日本近現代史の流れの中に位置づける視点が薄れていってしまったように思えるのは、どこかで断絶が生じてしまったということなのだろうか。


1942年に書かれた「ユマニストのいやしさ」には、セナンクゥールの「人間は滅び得るものだ。そうかもしれない。しかし、抵抗しながら滅びようではないか? そして、もし虚無が我々のために保留されてあるとしても、それが正しいというようなことにはならないようにしよう」という言葉が引用されている。そして渡辺はこう続けている。「僕は、この言葉を時々思い出す。そして、冷たい、しかも劇し情熱すら感ずる。十六世紀のエラスムスやラブレーに、この心境があったかどうか、それは知らない。ただ彼らユマニストの<いやしさ>にも、この心があったとしなくては、僕には判らないのである」(p.78)。この後時節上かなり気を使った表現が続くことになるが、渡辺が何を意図してこの引用をしたのかは汲み取れるようになっている。

1948年に書かれた「エラスミスムについて」にはヴァレリーのこんな引用がある。「平和とは、潜在的な力が黙々として邪悪なものに対して収める持続した勝利」であると(p.112)。
迫害されるエラスムスや吹き荒れる宗教戦争による災厄と、ヨーロッパに広がったファシズムとを類比をするかのようなこのエッセイはこう締めくくられる。「エラスミスムは、一人でも多くの人々で護られ育てられねばならない。さもなくば、我々には虚無しか残されていないであろう。エラスミスムに限界があるとも批評される。それは複雑な現実を手っとり早く処理するためには、エラスミスムではどうにもならぬところがあるということでもあるらしい。しかし、エラスミスムで処理できたら、どのくらいよいか判らぬということが、皆に判ってほしいものである。エラスミスムの限界の指摘が、破壊や暴力や狂信による現実処理法を正しいとする口実となってはならぬのである」(p.115)。

表題に使われている「狂気について」も1948年に書かれている。パスカルのものとされてる「病患者は、キリスト教徒の自然の状態である」という言葉から始められている。これを「中途半端で割り切れない存在である人間が、己の有限性をしみじみと感じ、「原罪」の意識に悩んで、常に心に痛みを感じているのが、キリスト教徒の自然の姿だと申すのでしょう」、と解釈する。「これは何もキリスト教徒に限らず、人間として自覚を持った人間、即ち、人間はとかく「天使になろうとして豚になる」存在」なのであり、そのことを自覚して、「愕然とした、沈痛な述懐」をするのである。
「恐らく「狂気」とは、今述べたような自覚を持たない人間、あるいはこの自覚を忘れた人間の精神状態のことなのかもしれません」(pp.127-128)。

やはり1948年に書かれた「文法学者も戦争を呪詛し得ることについて」では、「戦争の間に、もちろん人間は平和時には見られない自己抛棄や自己献身の美しい例を見せることがあります。しかし、これを以て戦争を賛美はできません」とし、ラブレーの次の言葉を引用する。「戦争は、美徳を現しもするが、悪徳が匿れていられないようにする」。つまり、「コレラが流行した折に医者や看護婦が献身的な行動に出たからと言って、コレラを賛美する馬鹿はおりましょうか?」(p.144)。
「ニーロップは記しています。「抗議しない人間は共犯者だ!」と。これはデンマークの文法学者が一九一六年に記した言葉であります。恐らく放火者は、人間をして、人間の作ったものの機械たらしめることを当然としている「人間」のことであり、その「人間」は、我々全部の裡に不可避な触手を伸ばしています」(p.148)。

このあたりはハンナ・アーレントによるアイヒマン的「凡庸な悪」の概念を先取りしていたのではないかとも思わせる。渡辺の存命中に『イェルサレムのアイヒマン』は刊行されているが、これに目を通していたのだろうか。


同じく1948年の「人間が機械になることは避けられないものであるか?」は、このニーロップの『戦争と文明』から考察を始める。
1914年に、ドイツの錚々たる「学会文芸界の名士たち」が、「ドイツの行動の正しいことを世界の正義と文明に訴えたこと」を、「あらゆる戦争の場合と同じく、機械的な弁解にすぎなかった」としている。このドイツの「偉人」はこう訴えた。「ドイツがこの戦争を惹起したというのは真実ではない。ドイツ国民も、政府も、皇帝もそれを欲しなかった。最後にいたるまで、できる限り、ドイツは平和維持のために戦った。……三大強国によってまず脅かされ、次に不意を襲われた結果、甫めて、わが国民は、一人の人間として立ちあがったのだ」。これを書かれた当時の日本に置き換えるなら、「「真珠湾を攻撃するような態勢に追いこまれたから攻撃した。だから正しい」ということに外ならないのである」。
ドイツの「偉人」の訴えは「すべてこの調子である。そして、これと同じ調子の弁解は何度となく繰返されたし、これからも繰返される心配がある。しかも、人道・正義・自由の名において。しかし、戦争には、これらの美名によって弁護されるいかなる美点もない。たとえ「真実でない」ということが「真実」であるとしても」。
「T先生は、言われた、「日本人は皆本質的にニヒリストだよ」と。そうかもしれない。すべてどうでもよいと言える。しかし無智な人間の行為とニヒリストの行為とが時折同一に近い場合もある」。
「――宿命とは、我々の意欲するものである。また、更にしばしば、我々が意欲し足りないものでもある。/このロマン・ロランの言葉が正しく理解されない限り、すべてが自業自得でけりがつくかもしれないと思う。そして、このようなことを言う私の気持には、多分に日本的ニヒリズムの翳がさしている。そして私は、この日本的ニヒリズムの機械になるのもいけないと、自分に言いきかせるのである」(p.166)。

「無智な人間の行為とニヒリストの行為とが時折同一に近い場合もある」という言葉は現在になってまた重くのしかかってくるし、また「日本的ニヒリズムの機械になるのもいけない」というのも同様である。


1951年に書かれた「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」では、オリヴァー・ウェンデル・ホームズによるある判決文から引用している。「我々と同じ意見を持っている者のための思想の自由でなしに、我々の憎む思想にも自由を与えることが大事である」。
「寛容は寛容によってのみ護られるべきであり、決して不寛容によって護られるべきでないという気持ちを強められる。よしそのために個人の生命が不寛容によって奪われることがあるとしても、寛容は結局は不寛容に勝つに違いないし、我々の生命は、そのために燃焼されてもやむを得ぬし、快いとおもわねばなるまい。その上、寛容な人々の増加は、必ず不寛容の暴力の発作を薄め且つ柔らげるに違いない。不寛容によって寛容を守ろうとする態度は、むしろ相手の不寛容をさらにけわしくするだけであると、僕は考えている。その点、僕は楽観的である。ただ一つ心配なことは、手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見える不寛容のほうが、忍苦を要し、困難で、卑怯にも見え、女々しく思われる寛容よりも、はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生甲斐をも感じさせてくれる場合も多いということである。あたかも戦争のほうが、平和よりも楽であると同じように。/だがしかし、僕は、人間の想像力と利害打算とを信ずる。人間が想像力を増し、更に高度な利害打算に長ずるようになれば、否応なしに、寛容のほうを選ぶようになるだろうとも思っている。僕は、ここでもわざと、利害打算という思わしくない言葉を用いる」。


すでに引用してきた部分に、いかにも「戦後民主主義」的なものを感じとった人も多いだろうが、ここはとりわけそれを想起させる。そして渡辺のこの主張は典型的な「戦後民主主義」批判を呼ぶことだろう。

一つは「戦後民主主義」の欺瞞性である。書かれた時期を考えるならば、これは「逆コース」以降の右翼、保守陣営の反共主義や、左翼による武装闘争双方を批判しているようにも読めるが、また「普遍的」にして「良識的」な意見とすることもできよう。
渡辺は戦中に周囲がファナティカルな国粋主義に染まっていく恐怖を身を持って体験した。そういった経験から「寛容」の大切さを、「寛容」が最後には「利害打算」をすれば勝利を収めるであろうことを説いたものになっている。
この「寛容」の訴えは、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という聖書の言葉を思い起こさせなくもない。キリスト教がユダヤ教の一分派であった時にはこれは非暴力による抵抗を訴えたものと解釈することもできるが、ローマの国教となって以降は、キリスト教/教会が長らく単なる抑圧装置としての機能を担ったことを思えば、渡辺のここで「楽観的」になれるのは、あくまで自分がマジョリティの側にいるからだとすることもできよう。様々なマイノリティが「不寛容に対しては不寛容に抵抗すべきだ」と声を上げると、「そういうことをするから返って不寛容が強まる」と諌める「良識派」はいつの時代にもいるものである。日本の「戦後民主主義」が、あくまで加害性を直視せずに、自らを「被害者」であったと位置づけることでそのアイデンティティを獲得していったという限界を見出すこともできよう。

またこれとは真逆の観点からの批判もあろう。「戦後民主主義」批判は様々なものがあるが、その一つが上の渡辺の言葉のような微温的理想主義という「ヌルさ」への感情的反発である。「極右」である三島由紀夫と「極左」であるはずの全共闘の間に心情的連帯があったように、このような学級委員的主張は唾棄すべきものだと考えたのは必ずしも右派に限らない。
ベ平連が結成される時、代表候補として石原慎太郎の名前があがっていたことがある。石原は当時は極右とはみなされておらず、既存秩序への反逆者というイメージが強く、むしろ小田実を新手の右派だと警戒する声もあった。石原が極右化していくのは60年代中盤以降のことだが、これは、三島の周囲にいた人が石原を忌み嫌うように、三島的な戦後民主主義への呪詛という遺産を簒奪しようとしたということもあろう。
今となっては信じがたいが、60年安保の時は大江健三郎、江藤淳、石原慎太郎は同じ陣営にいると見なされていた。アメリカ行きをきっかけに江藤は保守化(右傾化というほうが正確だと思うが)していくことになるが、年を重ねるごとにその思想は「ホンモノ」と化していったようにも思える。その点で比較すると、石原の極右化は上の引用で渡辺が批判し、警戒した「日本的ニヒリズム」の結果であるように思える。何も信じていないからこそあのような言動を取り続けることができるのであろう。

江藤、石原、大江の中で、おそらくもっとも深くデーモニッシュなものを抱えているのは大江であろう。大江の政治的発言とその小説内に宿るデーモニッシュなものは明らかに異質なものである。江藤、石原が右派論壇の馴れ合いの中で弛緩し失っていったものを、小説家大江健三郎は保ち続けている。大江は自身のうちに宿るデーモニッシュなものを自覚しているからこそ、渡辺のような良識的な人物に師事していたとすることもできるのかもしれない。 大江が山口二矢をモデルに「セヴンティーン」を書いているが、これは「政治的」に批判したものではなく、むしろ「実存」的共感をこめたものともなっている。自らが「日本的ニヒリズム」の暴走に冒されないための「錨」として戦後民主主義的なるものの擁護を掲げ続けているとすることもできよう。

なお大江は渡辺の没後に『日本現代のユマニスト渡辺一夫を読む』を刊行するが、不勉強にも未読なもので、全く的外れなことを言っているのかもしれない。こちらもそのうち読んでみようと思う。

話が脇にそれてしまったが、もちろんこの本に収録されている渡辺の文章に様々な限界があり、それらを批判的に読んでいく必要があるのは当然であろう。しかしまた、大江がそこに「錨」を見出した(と僕には思えた)ように、「あの時代」の真っ只中を生きた渡辺がなぜ戦後直後にこのような文章を大量に書いていたのかについての意味を、我々はまた噛み締めるべきでもあろう。

「歴史の与える教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作ったものの奴隷や機械にならぬように務めることにより、甫めて、人間の進展も幸福も、より少ない犠牲によって勝ち取れるだろうということも考えられてよいはずである。歴史は繰返す、と言われる。だからこそ、我々は用心せねばならぬのである。しかし、歴史は繰返すと称して、聖バルトロメオの犠牲を何度も出すべきだという人があるならば、またそういう人々の数が多いのであるならば、僕は何も言いたくない。しかし、そんなはずはなかろう。そんな愚劣なことはあるはずはなかろう。また、そうあってはならぬのである」(pp.210-211)。

大江にとって、またその同世代にとって、渡辺一夫という存在は「錨」であり、また灯台でもあったのだろう。

といったあたりでその2に続く。


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佐藤太郎(仮)

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