『オンリー・ゴッド』

佐藤太郎(仮)
映画
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『オンリー・ゴッド』



ニコラス・ウィンディング・レフン監督、ライアン・ゴズリング主演という『ドライヴ』のコンビによる、バンコクを舞台にした汚辱にまみれた血塗られた復讐譚。

レフン監督の過去作でいうと、『ドライヴ』はすごく好きな作品だったし、『ブロンソン』も好きだったが、『ヴァルハラ・ライジング』は退屈に感じてしまった。とにかく賛否がかなり分かれているうえに、インタビューでレフン自身がこの作品を『ヴァルハラ・ライジング』に例えていたもので、やや不安も感じながら。

『オンリー・ゴッド』の賛否が激しく分かれている最大の理由はその暴力描写だろう。確かにかなりエグい描写が多かったのだが、僕は暴力描写は苦手なほうなのだけれど、この作品のは正視できないとはならなかった。これはそこにある種の「美」を感じたからではなく、この作品が「閉じられた」ものであったからかもしれない。その結果として、暴力をふるわれる側の「痛み」というものが真に迫るという種類のものではなかったということなのかもしれない。

『ドライヴ』や『ブロンソン』を気に入ったのは、その絶妙なバランス感覚であった。『ドライヴ』はもともと「B級」アクションとして企画されていたものが、レフンが監督を務めることになって、いわく言い難い不思議なテイストの作品となることになる。「B級」的な要素も残しつつ、前衛的ともいえる奇妙な演出も混在している。一つ間違えると「アート」気取りの鼻持ちならない作品になりかねないところだが、ここで絶妙の舵取りを見せ、バランスをうまくとっている。サウンドトラックも素晴らしく、この新しいんだか懐かしいんだか曖昧なエレクトロポップは作風と見事にマッチしていて、『ドライヴ』という作品の魅力の象徴となっているかのようだ。またこれに先立つ『ブロンソン』も同じ志向の作品であるといえよう。

レフンの作風はリアリズムを追求するものではなく、『オンリー・ゴッド』での原色を活かした照明やシンメトリーの頻出はさらに非現実性を高めている。もともとあるその要素がさらに強調されたことによって、作品のムードは統一されているのであるが、それがプラスに働いているのかというとやや疑問にも思えるところでもあった。
噂に聞いていた衝撃のカラオケシーンは、レフンがファンだという鈴木清順の影響なのだろうか。そのカラオケも熱唱する「復讐の天使」チャンのキャクターは「漫画的」ともいえる常人離れした強さであり、刀を抜くときの「シャキーン」という音とともにほとんどコミックキャラクターとなっているのだが、これを笑っていいものなのか、笑うべきなのか、戦慄すべきなのか、どこに感情を持っていけばいいのかがつかめなかった。このあたりの恐すぎて面白い、恐いのに面白い、面白いのに恐すぎるといったあたりは意図的なものだとは思うのだが、『ドライヴ』などにあった「緩急」がないだけに、レフンの敷いたレールにぴったりとはまることができなかった観客には今一つ乗り切れないものになってしまったのではないだろうか。

またゴズリング演じるジュリアン、そして兄、母もわかりやすく「モンスター」としてキャラクターが造形されている。中でも最もヤバいのがジュリアンであることが暗示され、それを証明する行動を取ることになるのだが、「モンスター」として固定されてしまっている分、超常的な雰囲気がかえって弱まってしまっている。このあたりは、『ドライヴ』は元ネタがそうであることもあるが、主人公に名前すら与えられていないストイックさと比べてしまいたくなる。本作の主役はチャンであるとしたほうがいいのだろうが、その結果として「神のみぞ許したもう」というタイトルがきれいに、すっきりと決まりすぎている観がある。

やっぱりレフンはすごいなあと感じさせてくれるシーンも多々あったのだが、しかしそれを反転させたり、相対化させる要素がなかったのは少々物足りなくも感じられた。暴力描写に「痛み」を感じなかったのもそのあたりにあるのだろう。『ブロンソン』も一貫して「加害者目線」であるのだが、これは実存的な物語に落とし込まないことによって一面性を回避していたように思う。

この作品世界にぴたっとはまった人にとっては大絶賛となることはわかるが、またそれゆえに拒否感を抱いてしまう人もいることだろう。そこまではかないまでもぴたっとはまりきらなかった僕にとっては、少々微妙な思いに捉われてしまう作品となってしまった。レフンはもともと万人向けという感じではないのだが、さらに(意図的に)絞り込んだというところなのだろう。悪くはないのだがもう一つ乗り切れなかったかなあ。


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