「マジョリティの「開き直り」に抗するために」

『ポストモダニズムとホロコーストの否定』(ロバート・イーグルストン著)についてはこちらに感想を書いたが、むしろ本文よりも2004年に書かれたイ・ヨンスクによる解説、「マジョリティの「開き直り」に抗するために」の方が、現在これを読むと考えさせられるものが多いかもしれない。

イは、「イーグルストンにポストモダニズム護教論の姿勢が強い分だけ、ホロコースト否定論の重要な側面が視野から抜け落ちているように思えるのは残念である」としている。その重要な側面とは、「否定論者はその主張を通していったい何をしたいのかという点である。「ガス室は存在しなかった」という言明は、いったい何を言おうとしているのだろうか。ここでイーグルストンは、いかなる事実確定的言表であっても行為遂行的作用をもちうるという「ポストモダニズム」的視点をとりいれてもよかったように思う」(p.92)。
否定論者は単にガス室の存在を否定しようとしているのみならず、そのような主張を行うこと自体によってもたらされるある事をも目的としているのではないか、ということである。

『ポストモダニズムとホロコーストの否定』で扱われる否定論者のデイヴィッド・アーヴィングは、「水晶の夜」の記念日にドイツで右翼勢力を前に「新しいドイツ帝国が誕生するだろう」と宣言し、ネオナチへの親近感を非難されると「私はすすんでアウシュヴィッツの「ガス室」なるものに入りましょう。そこに巷でよく知られているやり方でツィクロンBを投げ込んでみたらいい。あなたがたの満足するような結果にならないと思いますがね」といった「放言」を繰り返しているのだという。

「理性のかけらもない放言であるにはちがいない。しかし、こうした「放言」を身勝手さと厚顔無恥から来る無遠慮な発言としてだけとらえることはできない。たとえば、アウシュヴィッツからの生還者、そしてアウシュヴィッツで肉親や友人が殺された者がこの発言を聞いたら、なにを感じるだろうか。おそらくアウシュヴィッツが再び来るかもしれないという悪夢に襲われるだろう。そして、さまざまな社会的暴力に日々さらされているマイノリティや移民にとっては、この発言が自分に向けられた暴力的威嚇攻撃としか響かないのではなかろうか。この種の「放言」は、それ自体のなかに暴力性を含んでおり、ある特定の受け手を想定している。そのことばはそうした受け手の身体に直接突き刺さる暴力なのである。/否定論の言表全体は、じつはこうした暴力的な「放言」の拡大版ではなかろうか。というより、否定論が実際に意図しているのは、この種の暴力的威嚇なのである。つまり、否定論が批判されるべきであるのは単に過去の暴力を隠蔽しているからではない。それらの言表行為全体が、現在において暴力を発動させているからなのである」(pp.93-94)。

イは「ホロコーストであれ南京虐殺であれ、「否定論」の言説の仕組みは、驚くほど似通っている」としている。「類似性を示しているのは、それらの出来事そのものではなくて、否定論の言説の仕組みなのである」。
「ホロコースト否定論が得意にしているやり方は以下のようなものである。公式に発表されている犠牲者の数が疑わしい。囚人に使われたガスはけっして殺傷力をもたない。収容所に関する資料は、すべて連合軍のでっちあげである。ニュルンベルク裁判は連合国側による勝手な「勝者の裁き」である。当時のヨーロッパ・ユダヤ人の人口を考えればそれほどの大量虐殺あ起きたわけがない。ヒトラーも当時のドイツ人も絶滅収容所のことを知らなかった、あれは一部の極端な連中のしたことだ。収容所職員は上からの命令に従っただけで、本人に殺戮の意図はなかった。なぜ被害者の証言だけをとりあげるのか、加害者の言い分も聞いてほしい。連合国も同じような大量殺戮をおこなったのだから、ドイツ人だけが非難されるいわれはない、等々」(pp.96-97)。

まるで「「否定論」のマニュアルが世界中に広まっている」かのように、既視感のある主張である。個々の主張を覆すことは難しくない。問題は、なぜこのような主張が各地に起こるのかである。

「いったい否定論者は何をしたいのか。大雑把に言うならば、それは「加害者」「支配者」「マジョリティ」の側の「開き直り」である。実はこのような言説意図は、けっして「ホロコースト否定論」だけの専有物ではない。世の中で「否定論」がこれほどの反響を呼ぶのは、こうした「開き直り」言説がほかの場面でもしばしば使われているからである」(p.97)。

ここでイはノーベル平和賞を受賞したグアテマラ先住民、リゴベルタ・メンチュウに加えられた攻撃を取り上げる。メンチュウによって語られた「事実」に多くの嘘と誤謬があることを人類学者のストールは「「実証的」研究方法によってつぶさに暴き立てた」のである。ストールの「偏執的」ともいえる「情熱」はどこからきたのだろうか。これについて太田好信は、ストールは大学院に入学した80年代末のアメリカの「アカデミックな世界で「犠牲者の発話という権威」があまりに大きな力をもっていたことに違和感を抱き、このことに「米国中産階級白人男性のストールには堪えられなかった」と分析しているという。

「もちろん、ストールの綿密さとホロコースト否定論者のずさんさとの違いは大きい。けれども、言説意図に関していえば、それらの相似性は明らかだろう。否定論者は「犠牲者の発話の権威」に反発しているのであり、マイノリティからの異議申し立ての声を抑圧しようとしているのである。それは「なぜマイノリティや犠牲者の発話だけが尊重されるのか、わたしたちの声も聞いてくれ」という懇願に始まり、ひいては「マジョリティにはマジョリティの立場があるのだ」という「開き直り」に行き着く。犠牲者や被害者の証言が、これまで安心して居座ることのできた砦をゆるがしていると感じられたときに発せられる攻撃的言辞が、あらゆる否定論の本質をなしている」(p.99)。

ここでイが「ストールの綿密さとの違いは大きい」としつつも、「言説意図に関していえば、それらの相似性は明らかだろう」としていることに違和感を持つ人もいるかもしれない。しかしそれはマジョリティとアイノリティの間の非対称性を考慮にいれていないためではないだろうか。イはこうも書いている。「マイノリティは「暴力の予感」におびえ、「身構え」の姿勢をとる。というより、「暴力の予感」におびえるものがマイノリティなのだと言ってもいいだろう(p.95)。
このようなマイノリティの「おびえ」は、マジョリティが「これまで安心して居座ることのできた砦」がゆるがされていると感じたときの被害者意識とは明確に区別されるべきだろう。「マジョリティから見れば、単なる被害妄想にしか映らないかもしれない。けれども、マジョリティは自分が安全な立場にいることを守られているからこそ、そう感じることができるのである。そして、暴力が予感されるとき、すでに暴力は発動されているのである」(pp.95-96)。


イは「死」を計量化し、決算表を作ることを批判する。「なぜなら、そこではたがいの苦しみを秤にかけているからである。逆説的に聞こえるかもしれないが、「わたし」が「あなた」の苦しみに「共感」することができるのは、「あなた」が「わたし」の苦しみと共約不可能な苦しみを経験していることを理解したときに、はじめて可能である。苦しみの共約不可能性があるからこそ、苦しみの「共感」が生まれる。「あなた」が苦しいのはわかるが「わたし」だって苦しんでいるのだと居直るならば、「わたし」はけっして「あなた」と出会えないだろう。否定論者はこの出会いを拒否しているのである」(pp.94-95)。


この「解説」はこちらに再録されている。




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