『ウルフ・オブ・ウォールストリート』原作


ジョーダン・ベルフォート著 『ウォール街狂乱日記  「狼」と呼ばれた私のヤバすぎる人生』

マーティン・スコセッシ監督『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の原作のジョーダン・ベルフォートの回想録を読んでみた。文庫化の際に原題で映画と同タイトルに改められているが、読んだのは『 ウォール街狂乱日記』と邦題のついている単行本のほう。





映画を見てから原作を読むと、「え~、原作ってこんなのだったの」となることはよくある。映画は金銭的、物理的、その他様々な制約の多いジャンルであるし、また活字とはあくまで別物であって、活字で優れていたものをそのまま映像として置き換えようとしたところでうまくいくことは極めて稀である。従って映画が原作を離れ独自の表現を目指すのは当然であり、また正しいことでもある。

ということであのハイテンションに悪徳の限りを尽くしまくる映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』を原作と比べるとどうなるかというと……これが原作のエッセンスをほぼそのまま映像世界に移し換えていることに驚かされる。もちろん省略されたエピソードは多いし(映画では原作の前半部のエピソードを多く使っている)、映画用に創作された部分もあり、別々の出来事を一つにまとめたり、文脈を変えたりといった作業も施されている。しかし全体としては原作にかなり「忠実」であるとすることができよう。ラリってのヘリの操縦や尻にロウソクを突っこんだり、二人のロッコに隠しカメラ、ゲイの執事と乱交パーティー、金魚丸呑み、期限切れの「レモン714」、人工呼吸、船の沈没などなど映画でのぶっ飛んだ場面は原作にあるものが多い。

これは映画が原作に忠実であると同時に、そもそもこの「回想録」自体がいったいどこまで事実に「忠実」なのかを疑うべきなのだろう。酒井泰介氏は「訳者あとがき」で明らかに不自然で信用できないエピソードについて触れた上で、「本書は様々な誇張や嘘、安っぽい見栄やハリウッド脚本的な演出に満ちている」と書いている(この「訳者あとがき」が書かれたのは2008年なので、まだスコセッシによる映画化は影も形もない時である)。この指摘は的を射たものであろう。おそらくはベルフォートは潤色を施すことによって自身の「罪」について世間の目をくらませるという目的と共に、当初から映像化されることをも視野にいれていたのかもしれない。

そのせいか正直な(少なくともそう読めなくもない)内面の吐露であったり、二人目の子どもをめぐる話などセンチメンタルな要素ももぐりこませようとしているが、映画ではこのあたりを改変しつつ、もっとうさんくさいものとして描いている。これはプロデューサーの判断かテレンス・ウィンターの脚本によるものかスコセッシがそう望んだのかはわからないが、映画版の慧眼というべきだろう。

ジョーダン・ベルフォートという人物が、他人はおろか当人ですら精神の「核」の部分に手を触れさせない、触れることができないのか、それとも徹底的に空虚な人間であるのかと考えると、おそらくは後者であろう。「薄っぺらい」というよりも「空っぽ」な人間である。原作のごまかしに引きずられることなく、映画の製作陣はベルフォートという人物、あるいは彼に象徴される人物や出来事の本質をよく捉えることができている。

フェイスブックを描いた『ソーシャル・ネットワーク』は「史実」を半ば無視して、少々強引にマーク・ザッカーバーグの「動機」を作り出していた(そしてその試みは成功している)。一方のベルフォートは、とりわけ映画では「動機」というものが決定的に欠けている。彼はなぜ金持ちになりたいのか? 非倫理的な手段を用いることに葛藤を抱かないのか? 砂上の楼閣である成功に自己嫌悪にかられないのか? このような問いが虚しくなる人物がベルフォートなのである。

映画が意外なほど原作に忠実なことは、そのままベルフォートという人物の不実さを表すことにもなっており、まさにこれこそが映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』が見事な作品であることの印となっているように思える。

プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
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