『ダラス・バイヤースクラブ』

『ダラス・バイヤースクラブ』


1991年公開の『テルマ&ルイーズ』で、テキサスは女性にとって悪夢的な場所として登場する。アメリカそのものがマッチョ志向の強い国であるが、中でもテキサスはマッチョ的イメージの強い州である。女性にとって悪夢的であるとするならば、セクシャル・マイノリティにとっていかなる場所であるかは想像に難くない。

マシュー・マコノヒー演じるロン・ウッドルーフはテキサス男であり、ガリガリに痩せ空咳きが止まらなくとも自分がエイズを発症しているなどとは想像だにしていない。1985年、テキサスのみならずとも、多くの人がエイズは同性愛者の病気だと考えていた。

作中では言及されることはないが、エイズを同性愛者への「天罰」だとすら考えた人は少なからずいたし、当時大統領であったレーガン自身が偏見にまみれ、対策に乗り出す以前にエイズを直視することを避け、80年代後半に入るまで言及すらしなかった(このあたりについてはジョン・アーヴィングの小説『ひとりの体で』で触れられている)。あえて説明的に言及がないのは、このあたりはアメリカ人にとっては負の歴史として常識となっているためなのかもしれない。

セクシャル・マイノリティやエイズへの偏見はアメリカに限ったことではない。しかしアメリカがとりわけより強く偏見に捕らわれていたという傾向はあるだろう。また製薬会社がその資金力から新薬の許認可などにも大きな影響力を持っているというのもまた、アメリカのみに限った話ではないが、アメリカはまたその影響力が強い国でもある。

ウッドルーフは世界中からエイズの薬をかき集めアメリカに持ち込み、医薬品の取り締まりを行うFDA(アメリカ食品医薬品局)と対決していくことになる。
エイズという病気に対してのレーガン政権の対応、あるいは利害関係が影響しているとみられるFDAの頑なな態度はアメリカの、あるいはテキサスのネガティブな面を写している。しかしウッドルーフの戦いは、アメリカのポジティブな面を写し出しているようでもある。

基本的にアメリカの右寄りの人々は反連邦政府、反エリート主義であり、「ワシントン」などへの不信感は深く強いものがある。これがネガティブな方向に出てしまうと、それこそ近年のティーパーティのようなものになってしまう。しかしここにはまた、アメリカ独特の可能性というものが潜んでいることも確かであろう。
ウッドルーフは薬の「密輸」のためなら法の網の目をかいくぐることを躊躇しない。法や行政がクソならそんなものを出し抜くことに罪悪感を抱く必要があろうか。おそらくは学歴は高くないが、図書館などで独学をし、知識を身につけていく。これも「エリート」的な教育から外れようとも、セルフ・メイド・マンへ扉が開かれている(少なくともそのような建前である)ことを表しているかのようだ。メキシコで道から外れた医師によって「真実」を知ることになるように、実地を重視するプラグマティズムによって権威の有無に目が曇らされることはない。そして会員をつのって薬を分配する「ダラス・バイヤーズクラブ」は「慈善事業」ではないと、カネのない者を追い返す場面もある。もちろんウッドルーフも彼の「パートナー」となるトランスジェンダーのレイヨンも私欲を追求しようとしているのではない。しかしカネを稼がないことにはバイヤーズクラブが薬をかき集めることはできない。徹頭徹尾清廉潔白さを貫くのではなく、「結果」を残し、その結果によって善行をするのだといった発想もアメリカらしいものでもあろう。
ウッドルーフはセクシャル・マイノリティへの偏見から抜け出していくが、決して、マッチョ的行動原理を捨て去るわけではない。まさにアメリカの正負二つの面を体現しているかのような人物でもある。


という感じに、この作品を観るにはある程度の時代的、地理的知識があったほうがいいかもしれない。とはいえ、それがなくては理解できないのかというとそうではない。話運びも演出も基本的にはオーソドックスなものとなっており、予備知識がなくては付いていけないといったものにはなっていない。ウッドルーフとレイヨンは当初は打算的に協力関係となるが、次第にウッドルーフの偏見は解消されていき、心が通じ合っていく。あるいはシンパシーを抱きつつも一線を越えることにはためらいがあった医師のイヴ・サックスが最終的に取る行動など、登場人物たちの関係とその変化はある意味では類型化されているために、観客は素直に感情移入できる。マコノヒーとレイヨン役のジャレッド・レトの役者根性全開の激やせっぷりも話題だが、これもこれ見よがしなものではなくきちんと役柄とシンクロしているところにも好感が持てるだろう。

あえてひっかかったことを一つ上げるなら、ウッドルーフがセックス時に毎回コンドームを装着していたとは考えづらいので、少なからぬ女性をHIVに感染させてしまったであろうし、その女性たちの多くは貧しく、そのために体を売らざるをえなかった人たちであろうが、そういった人々は不可視化されてしまっている。おそらくはそこまでやると映画としては「詰め込みすぎ」になってしまうということもあったのだろうし、このあたりの割り切り方も「ハリウッド的」といえばそうかもしれない。

あと演出でいうと、時代考証を無視しているわけではないが、観る前に想像していたほどには時代的な記号はそれほど用いられてはいなかった。例えばベン・アフレック監督の『アルゴ』は元になった事件の時代に合わせた雰囲気を映像、演出に取り入れているし、最近のアメリカ映画はこういった手法を取る作品が多いのだが、『ダラス・バイヤーズクラブ』ではそういった文化記号による時代的空気の再現性という点はそれほど重視していなかったのかもしれない。

そのせいというわけではないのだろうが、作中には日本も登場するのだが、あの渋谷はどう見ても最近のもので80年代中盤にはとても見えない。もっとも日本に住んでいるか余程詳しい人以外はそんなことわからないだろうし(僕も風景をぱっと見て年代を当てられるほど知識を持っている外国の都市などほとんどない)、仮に80年代の渋谷を甦らせようとしたら当然カネもかかってしまうので、あの一場面にそこまでする必要はなかったというのは当然のことではあるが。


日本がらみというと、やはり字幕の問題に触れざるをえないだろう。
作中で発せられる「faggot」をはじめとする、明らかに作中人物が差別的な意図で使っている言葉に全て「ゲイ」という訳語をあてていた。
僕は一般論としては差別語の使用については慎重であるべきだと考えているが、この作品を見ればセクシャル・マイノリティへの差別を意図したものでないことは明らかであるし、当時いかに差別がはびこっていたかを示す言葉の使われ方をこのように修正してしまうことは、むしろ差別性を隠蔽することによって差別に加担しているも同然であるとすら思ってしまう。これが地上波のテレビ放送なので配慮せざるを得なかったというのならば百歩譲ってわからなくはないが、劇場公開版でいきなりこのような「配慮」をする必要があったのだろうか。

そもそも現在の日本社会が、とりわけセクシャル・マイノリティへの差別に神経を尖らせているのかというと疑問である。他ならぬ地上波のゴールデンタイムのバラエティ番組などでは、現在でも平然と差別的な「笑い」を放送していることを思うと、この対応はグロテスクなものにまで感じてしまう。

「差別はよくないし、差別を助長する可能性のある表現は差し控えよう」というよりも、「抗議がきそうな言葉は面倒くさいことになるかもしれないので機械的に排除しておこう」という反応にしか思えない。こういった反応はエイズという言葉を口にすることすら避け続けたレーガンにむしろ近いのではないだろうか。ここ数年、日本は先進国の中では例外的にHIV感染者が増えていることが指摘されているが、これはきちんとした性教育が行われていないことの結果だろうし、こういった映画会社(なのかどうかは知らないけど)の過敏を通り越しての奇妙な反応を見ると、こういったことになってしまうのもむべなるかなという気分にもなってしまう。
他の作品であればここまで気にならないのだろうが、この作品のテーマを考えるとこの点は非常に残念であった。




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佐藤太郎(仮)

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