『フラニーとズーイ』

J・D・サリンジャー著 村上春樹訳 『フラニーとズーイ』





村上春樹による新訳が出たということで久しぶりに。野崎孝訳を最後に通しで読んだのがいつだったのかはっきりと覚えていないが、多分十代の頃だと思うので15年以上ぶりか。

村上は「こんなに面白い話だったんだ!」とする特別エッセイを書いているが、確かに記憶していた以上に面白く感じられた。サリンジャーって十代のころもさることながら、ある程度歳をとってから読み直すといろいろと見えてくるものが多い作家なのかもしれない。


原文と野崎訳と村上訳とを突き合わせて比較検討したいところでもあるのだが、そこまでの気力はないもので、まずは一番目についたところから。

「フラニー」のある場面は野崎訳ではこうなっている。
「ウェーターがテーブルに寄ってきて、レーンの前も蛙の脚とサラダの皿を置いたので、フラニーはその顔を見上げた。ウェーターのほうは、手もつけられずに置かれているフラニーのチキン・サンドイッチに視線を落とした。そして、ほかの品と取り替えたらいかがかと尋ねた。フラニーは礼をのべて、それには及ばぬと答えた。「わたしはとてもゆっくりなの」彼女はそう言った。ウェーターは、若くはなかったが、フラニーの蒼白な顔色とじっとり濡れた額をちらりと見やったようであった。そして、そのまま頭を下げて去っていった」(p.39)。

村上訳はこうなっている。
「やってきたウェイターが、レーンの注文した蛙の脚とサラダをテーブルに並べていた。フラニーは顔を上げてウェイターを見上げた。相手は逆に、彼女の手のつけられていないチキン・サンドイッチを見下ろした。そして「こちらのヤングレディーには、何か別のものをお持ちしましょうか」と尋ねた。フラニーは「ありがとう。でもこれでいいの」と言った。「私はただ食べるのがとても遅いだけなの」と彼女は言った。年季を経たウェイターは、彼女の真っ青な顔色と、汗の浮かんだ顔を僅かに目にとめたようだったが、軽くお辞儀をして下がった」(pp.52-53)。

「ヤ、ヤングレディーって……」と思った人もいるだろうが、村上がここでこなれていない表現を使ったのは、この場面を作品全体のポイントの一つだと判断したせいなのかもしれない。
村上訳「ズーイ」では、ズーイは母親の声音を真似してフラニーに「お嬢さん」と呼びかけ、ここに「ヤングレディー」とふり仮名をふり(p.227)、その後母親自身もフラニーに「お嬢さん〔ヤングレディー〕」と呼びかける場面がある(p.267)。野崎訳ではウェイターの目的語は省略され、呼びかけも単なる呼びかけとして訳されている。つまり、村上のこの訳語の選択には明らかに意味が込められていると見るべきだろう。

ご存知ない方のためにざっとあらすじなどに触れておくと、この作品は「フラニー」という短編と「ズーイ」という中編から成っている。それぞれが独立した話でもあり、またグラス家の人々を描いた「グラス・サーガ」の一翼を成すものでもあるが、またこの一冊を二部構成の長編小説だとすることもできる作りにもなっている。「フラニー」では、グラース家の末っ子で文学と演劇を学ぶ大学生であるフラニーが、大学や恋人の「インチキ」ぶりに耐え切れず、ある本に傾倒し始める様子が描かれる。「ズーイ」は、フラニーの兄である俳優のズーイが、「フラニー」での出来事の後すっかり神経を参らせ寝込んでしまっている妹を、母親にせっつかれながら回復させようとする物語である。

「ズーイ」では、有名な「太ったおばさん(ファット・レディー)」のエピソードが語られる。いずれも神童であるグラース家の子どもたちはかつて皆ラジオ番組に出演した経験がある。ある日ズーイは長兄のシーモアから靴をきちんと磨いてから番組に出るように注意される。ズーイはへそを曲げていたためになんでそんなことをしなくてはいけないんだ、靴なんて汚れていたって誰にも見えやしないじゃないかと反発する。するとシーモアは太ったおばさんのために靴を磨くんだ、と言う。シーモアはそれ以上なんの説明もしてくれなかったが、ズーイは靴を磨き続けるうちに、太ったおばさんの姿がはっきりと頭に浮かぶようになる。そして多分ガンを患っていて、一日中ポーチでラジオを聞くことしかできない太ったおばさんのために、きちんと靴を磨いてラジオに出演しなくちゃいけないんだと思うようになるのである。
フラニーもかつてシーモアから太ったおばさんの話を聞かされていた。「太ったおばさんのために、何か愉快なことを言うんだよ」と。

フラニーは自殺したシーモアの残した宗教の本にすっかり感化され、その本に書かれている祈りを実践しようと思いつめる。ズーイはその衝動に理解を示しつつも、こうして自宅で泣きはらして寝込んでいられるのは両親に甘えているせいじゃないのか、こんなことをすることによって両親にどれだけ心配をかけているかわかっているのか、とフラニーを難じる。

フラニーは自分は高尚なことに目覚めていると思い、それに引き換え周囲の人間のインチキっぷりときたら、と閉口しているのだが、すでに息子二人を失っている(しかもうち一人は自殺)両親をどれだけ苦しませているのか、そのことにはまるで注意がいっていない。とりわけ父親は「丸ごと過去に生き」ることしかできなくなっており、娘の状態にひたすら狼狽し、食事を取ろうとしないフラニーに蜜柑をなんとか食べさせようとすることしか思いつかないほどだ。

村上訳でウェイターに「ヤングレディー」と言わせているのは、このウェイターも太ったおばさんであり、またフラニー自身も太ったおばさんであることを表しているという解釈なのかもしれない。注文したものに手をつけずにいる顔色の悪いフラニーをウェイターは気遣っているのだが、フラニーはそのことにまるで気が回らずに適当な言い訳であしらっている。ラジオを聞くことしかできない太ったおばさんのためにきちんと靴を磨き愉快なことを言おうとしなければならないように、あらゆる人のために、想像上の存在でしかないのかもしれない人も含めて、誠実にベストを尽くさねばならない。「祈り」とは選ばれた人間の特権的な作業ではなく、日々のささやかな営みの中にも隠れているはずなのに、「フラニー」では彼女はそのことにまるで気付いていなかったのである。

部分的に切り出すならば、ウェイターに「ヤングレディー」と言わせるのは訳としては明らかに不自然なものであり、僕も最初は「え~」っと思ってしまったのだが、この違和感が残っていたから「ズーイ」における「ヤングレディー」という呼びかけに意識が向かうことになる。こちらにも書いたように、『ギャツビー』で「old sport」を「オールド・スポート」とあえてカタカナの訳語を与え、違和感を残すことによって一つ解釈を示そうとしたことと同じ試みだといえよう。そして単純に部分的な巧拙ではなく、翻訳を通じて作品の解釈を提示しようとすること、これが村上が既訳のあるものにあえて取り掛かる理由の一つなのだろう。もちろんその姿勢に賛否はあるだろうが。


その他に久しぶりに読んで気付いたことを思いつくままに。

まず、結構意外だったのが、フラニーの恋人のレーンってそれほど嫌な奴じゃないんじゃないか、という気がしてしまったことだ。確かにレーンはいけすかないエリート大学生風なのではあるが、自分の小論文を「適当に書いたし、たいしたことないんだけどさあ……」みたいなことを言いながら必死にフラニーに読ませようとしているところなどは可愛らしくもある。俺が俺がということろもあり、あまり人のことに気を使うことができずにフラニーの話もきちんと聞いていないことがバレバレなのではあるが、それは彼が「インチキ」であるからというよりも若さゆえのことなのではないだろうか。これは読者である僕の方が歳をとったというせいもあるのだろうが(昔読んだ時はレーンよりも年下であり、今では十歳以上も年上である)、かつてはズーイがあまりにも厳しくレーンを論評するもので、それに引きづられすぎていたのかもしれない。

だいたいズーイのレーン評は少し怪しいところもある。つまり妹の恋人に嫉妬しているだけなのではないか、という疑問も湧く。
加藤典洋は『村上春樹の短編を英語で読む』で、村上の「ファミリー・アフェア」を取り上げている(これについてはこちらを参照)。この「ファミリー・アフェア」は、妹に婚約者ができて戸惑い、婚約者に嫌味に当たってしまう兄の話なのであるが、そればかりか、「ファミリー・アフェア」の「僕」の性格や態度はズーイを連想させる点が多い。
「僕」は世の中をはすに構えて見ていて、何でも冗談にしてしまわなければ気がすまないかのように映る。ズーイも妹があんなに憔悴しているのにちゃかしたようなその態度はなんだと母親になじられる。しかし「僕」は妹から、「そして真面目に生きている人をはすに見て楽しんでいるのよ」と批判されると、「他人のことと僕のことは別問題だ。僕は自分の考えに従って定められた熱量を消費しているだけのことさ。他人のことは僕とは関係ない。はすにも見ていない。たしかに僕は下らない人間かもしれないけど、少なくとも他人の邪魔をしたりしない」と「真面目」に反論する。ズーイも母親に対する態度とは一変し、フラニーに対して、とりわけ両親を心配させていることについてかなり生真面目なお説教をする。
もちろん「僕」とズーイのキャラクターはイコールではく、ズーイはレーンを見下したままに終わるが、「ファミリー・アフェア」の「僕」は婚約者を受け入れようとする。このような差異はあるとはいえ、改めて読んでみるとその類似性にはちょっと驚いた。村上訳というせいもあろうが、ズーイというのは80年代中盤までの、とりわけ短編における村上作品の主人公にかなり近いキャラクターでもある。


類似性といえば「フラニー」は『ライ麦畑でつかまえて』と重なる部分が多い。フラニーは感情を高ぶらせてこう語る。「私はただ、溢れまくっているエゴにうんざりしているだけ。私自身のエゴに、みんなのエゴに。どこかに到達したい、何か立派なことを成し遂げたい、興味深い人間になりたい、そんなことを考えている人々に、私は辟易しているの。そういうのって私にはもう我慢できない。実に、実に。誰が何を言おうと、そんなのどうでもいいのよ」(村上訳 p.51)。これなどホールデン君の発言だといわれたら納得してしまいそうだ。

しかしまた、ホールデンとフラニーではいくつかの差異もある。まずなんといっても、性別が違う。レーンと会うとフラニーはセックス、結婚、出産等を意識せずにはいられないであろうし、二人がすでにセックスをしている(少なくともかなりのところまで進行している)ことが暗示されてもいるし、フラニー妊娠説は現在でも根強いものがある。当時においては男性よりも女性の方がこれらは遥かに重大な選択を迫られているという感覚であったことは言うまでもないだろう。
一方で、ホールデンは十六歳なのに対し、フラニーはすでに二十歳だ。乱暴に言ってしまうとフラニーはいわゆる「中二病」なのであるが、それに罹患するにしては少々歳をくっているし、その分歳のわりには幼さというか稚拙さがより目立つことになる。
また最大の違いとしては、ホールデンには妹のフィービーというその「イノセンス」によって、束の間ではあるが救済をもたらしてくれる存在がいるのに対し、末っ子のフラニーにはそのような存在がない。そこで兄のズーイはある方法を考え付くことになる。


無意識か否かはともかくとして、とりわけ80年代半ばまでの村上春樹がサリンジャーから少なからず影響を受けていることは間違いないであろう。サリンジャー(の野崎孝訳)からの影響といえばなんといっても庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』なのであるが、フラニー感情の乱高下は『白鳥の歌なんか聞こえない』での由美ちゃんのそれを思わせるところもある。「フラニー」のテーマはそればかりでなく、福田章二/庄司薫と重なる部分がある。

フラニーはこんな発言をしている。
「私は人と競争することを怖がっているわけじゃない。まったく逆のことなの。それがわからないの? 私は自分が競争心を抱くことを恐れているの。それが怖くてしかたないわけ。だから私は演劇科を辞めちゃったの。私はまわりの人たちの価値観を受け入れるように、ものすごくしっかり躾られてきたから、そしてまた私は喝采を浴びるのが好きで、人々に褒めちぎられるのが好きだからって、それでいいってことにはならないのよ。そういうのが恥ずかしい。そういうのが耐えられない。自分をまったくの無名にしてしまえる勇気を持ち合わせていないことに、うんざりしてしまうのよ。なにかしら人目を惹くことをしたいと望んでいる私自身や、あるいは他のみんなに、とにかくうんざりしてしまうの」(村上訳 pp.51-52)。

二十歳そこそこでデビューした福田章二は長い沈黙の後庄司薫として帰ってくる。『赤頭巾ちゃん気をつけて』は「「みんなを降伏にするにはどうすればいいか」、すなわち優勝劣敗の最終的緩和は可能かという事柄の核心は保留して自らの「封印」を破った、とでも言おうか」、と庄司自身が書いている(中公文庫版 「四半世紀たってのあとがき」新潮文庫版に収録されているかは未確認)。
庄司はさらにこう続ける。「いずれにしても、「みんなを幸福にするにはどうすればいいか」への解答を留保してできることは、「馬鹿ばかしさのまっただ中で犬死しないための方法序説」とでもいったものにもとづいた、他者への必死のものおもい、といったものになるのだろう。ちょうど戦い疲れた戦士たちがふと海の匂い森の香りを懐かしんだりするように、この大きな世界の戦場で戦いに疲れ傷つきふと何もかも空しくなった人たちが、何故とはなしにぼくのことをふっと思いうかべたりして、そしてなんとはなしに微笑んだりおしゃべりしたり散歩したりしたくなるような、そんな、そんな男になろう……と」。

『赤頭巾ちゃん』は「庄司薫」の一人称で語られるが、実際の「書き手」は「下の兄貴」であることもまた暗示されている。これは『ライ麦畑』の「書き手」がホールデンの兄のDBである可能性をふまえての設定であるのだが、またフラニーの兄であるズーイ、並びにバディに対応するものだとすることもできるのかもしれない。
庄司薫のサリンジャーからの影響というとつい『ライ麦畑』を中心に考えてしまいがちになるのだが(僕はそちらにばかり目が奪われていた)、「グラス・サーガ」との関係についても見直すべきなのかもしれない。引用した「四半世紀たってのあとがき」は、『ライ麦畑』のみならず『フラニーとズーイ』への応答であるようにも読めるが、「グラス・サーガ」と薫クンシリーズは読んだ時期が少しズレていたせいか、このあたりはあまり意識はできていなかった。
 

昔は意識していなかったことというと、「ズーイ」において精神分析に対して非常に攻撃的になっていることもそうだった。「グラス・サーガ」の出発点であった「バナナフィッシュにうってつけの日」が極めて精神分析的に書かれた作品であったことを思うと、この変化にも注目できるだろう。
精神分析の創始者であるフロイトはユダヤ人であり、その弟子たちも当初はユダヤ人が多かった。ユダヤ人であるサリンジャーは次第にユダヤ性の隠蔽に向かい、グラス家の子どもの一人を神父にまでしているのである。このような「否認」はまさに精神分析的解釈を誘うものでもあるが、そのような「科学的」解釈に向かうことこそがサリンジャーに精神分析への攻撃へと向かわせたのかもしれない。

サリンジャーの過酷な戦争体験についてはこちらに書いたが、「ズーイ」で「第二次大戦で死んだ」ウォルトをグラス家の子どもたちの中で「唯一、混じりけなく陽気な心を持った息子だった」としているのは、サリンジャーが戦争によって、とりわけユダヤ人が中心的被害にあったナチスの強制収容所を解放した部隊に加わっていたことによって、サリンジャー自身に「混じりけなく陽気な心」が失われてしまったことを表しているようにも読める。
「バナナフィッシュ」でのシーモアの自殺は、この短編のみを読むならば戦争による神経症の結果であることは明白なのであるが、サリンジャーは次第にシーモアの死の理由を抽象化していく。サリンジャーが「書けなく」なったのは自身の戦争体験と向き合うことができなかったせいではないかということは前にこちらに書いたが、『フラニーとズーイ』にも戦争の刻印は間違いなく刻まれているのであり、それゆえに「神秘化」していくことはまた痛ましくもあるのだが、ここではまだそれを相対化する視点も失ってはいない。


ということでやはりこの話題もということで「グラース・サーガ」と「宗教性」について。
個人的には、『ライ麦畑』や『ナイン・ストーリーズ』は文句なく好きだと言い切れるのだが、その他の「グラス・サーガ」には微妙な思いもあった。「グラス・サーガ」はシーモアの下の弟であるバディが書き手であるという設定が導入されている。バディはサリンジャーのアルター・エゴであると同時に、「グラス・サーガ」を相対化させる作用も担っている。例えば「ズーイ」はその場にいなかったバディが、事件のさらに二年後に書いたということになっており、二重三重に入れ子状の構成となっている。自己韜晦的なバディの言はサリンジャーのセルフ・パロディにもなっていて、その隠遁生活はネタにされている(これはまた小説の重要な仕掛けともなっている)。また母親から将来の「保険」として博士号の取得を求められていて云々というのは、サリンジャーが家族から小説家になることを反対されていたことへの目配せでもあろう。そしてそのその「宗教臭さ」についてさえも冗談めかして書いている部分すらある(パセティックになっている部分ももちろんあるが)。

『ナイン・ストーリーズ』の最後を飾る「テディ」が宗教的奇跡の具現化のように見えてしまうことに危うさが現れていたが、サリンジャーは次第にバディではなくシーモアと同一化を始めてしまい、その「宗教性」を相対化することができなくなり、生前最後に発表された「ハプワース16、1924年」は単なるシーモアの「聖人伝」と化してしまっている。
「フラニー」はまさにその「宗教臭さ」に溺れていく物語であり、「ズーイ」はその結末で「フラニー」を反転させているとはいえ、危うさから逃れているとすることもできないだろう。

村上は『フラニーとズーイ』の「宗教臭さ」は「本書のひとつの弱点になっているかもしれない」としている。しかし今回久しぶりに読んでみると、僕はむしろ意外と宗教色を薄く読めるものだなあとも思えるところもあった。

もともと僕は十代のころにビートルズをはじめ60年代文化というものにかなり染まっていて、ヒッピー文化や東洋神秘思想などにも興味を持たないことはなかった。しかし僕はやはり「信仰心」というものを、それが何を対象にしたものであれ持つことが出来ない人間であり、また時代を後追いしたアドバンテージとしてマハリシのインチキっぷりなどを当初から普通の知識として、歴史の一挿話として受け流すことができていたので、そのせいもあって素直にヒッピー化することはなかった。さらに本書でもサリンジャーが言及している鈴木大拙の英語の著作は欧米に仏教や禅を広めるのに貢献したが、その鈴木は戦時中にファナティカルな軍国主義にどっぷりと染まっていたという過去を持っていることを知れば、その言葉に全く説得力を感じなくなってしまう。

ふり返ってみると僕がサリンジャーを熱心に読んでいたころはちょうどオウム事件前後あたりだったので、サリンジャーがかぶれていた東洋神秘思想に無邪気でいることはできなかったという面もあろう。そういったわけで、サリンジャーの「宗教臭さ」については、いい小説を書いていたのに惜しいことに……といった感じで、完全に鼻をつまんで素通りしていた。今回読んでも確かにいかんともしがたい部分もあるとはいえ、意外と普遍的なことを言っているようにも読むことができた。「太ったおばさん」は宗教的寓話として読むこともできるが(多くがそのように解釈されてきた)、しかし特定の宗教色の薄い、普遍的寓話として読むことも十分に可能だろう。

例えばズーイのフラニーへのこの言葉。
「もし君が<システム>に戦いを挑むなら、君は育ちの良い知性のある娘として、相手を撃たなくちゃいけない。なぜなら敵はそこにいるからだ。何も彼の髪型やらネクタイが気に入らないから戦うわけじゃないだろう」(村上訳 p.234)。
強大なものと戦うからこそ品性と知性が求められる、というのは「宗教」っぽくないこともないが、普遍的原理とすることもできる。

なおここは野崎訳では「もしも制度相手に戦争をしようというんなら、聡明な女の子らしい銃の撃ち方をしなくっちゃ――だって、敵はそっちなんだろう。彼の髪のやり方やネクタイが気に入らないというのは関係ないよ」(野崎訳 p.186)となっている。当たり前ではあるが、「システム」という訳語を使うあたりも「村上春樹っぽ」くなっている。

個人的には今回は昔ほどには「宗教臭さ」は気にならなかったのだが、このあたりはむしろリアルタイムで読んでいた世代の方がある種の苦さを後々まで引きずっているのかもしれない。


といった感じに、「歳をとってからサリンジャーなんて……」と思っている人もいるかもしれないが、むしろ歳をとってからのほうが「こんな面白い話だったんだ!」と思えることだろう。読む年齢や時代によってかなり印象が変る作品であることは間違いなく、そのあたりの比較なども面白いだろう。


それから村上が『フラニーとズーイ』の関西語訳をやりたいとか言っていたけど、どこでだったか、というようなことを書いたが、これは『翻訳夜話2』でしたね。
2003年に村上はこう言っている。「『ナイン・ストーリーズ』はできたらやってみたいなという気持ちはあります。実際にやるかどうかはわからないですが。それから『フラニーとズーイ』の関西語訳をやってみたいというのは、前々からちらちらと考えています(笑)。ズーイの語り口を関西弁でやる(笑)。受け入れられるかどうかはわからないけど」(p.44)。

冗談めかしているこの発言をどこまで真に受けるべきかは微妙なところだが、村上が関西出身であることを思うと、あの瑞々しい会話を日本語に移し変えるにはやはり思春期をそれで過ごした関西弁でなきゃ、という思いもこめられていたのかもしれない。

関西語訳がならなかったのは、この小説の魅力が会話にあるのはもちろんだが、それにとどまるものではないということに気がついたため……ではなくて常識的判断の結果なのだろうけど、しかしこの小説の魅力が会話のみに限ったことではないことも間違いない。

とりわけ「フラニー」における技巧は確かに舌を巻くほど素晴らしい。村上も指摘しているように、『ライ麦畑』と違って三人称で書かれているために視点を巧みに移動させることが可能になっていることも大きく貢献している。簡潔な描写で人物像や関係性を浮かび上がらせつつ、また読者が容易に脳内で視覚化することも可能なほど詳細に書き込んでもいる(映画化するなら誰がどの役にふさわしいか、ということを想像してみるのも楽しいだろう)。
このあたりの技術的巧みさこそが、村上がこの翻訳にとりかかる最大のモチベーションであったのだろう。ここらへんを確認するためにも、野崎訳も絶版にせずに継続して出して欲しいなあ。


他にも書きたいことがいくつかあったけれど、いい加減長くなりすぎたのでこのへんで。



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