『ヒトラーが寵愛した銀幕の女王』

アントニー・ビーヴァー著 『ヒトラーが寵愛した銀幕の女王  寒い国から来た女優オリガ・チェーホワ』






1945年5月8日、ドイツ降伏の報はソ連中を沸き立たせた。そして「一連の祝賀行事の後、モスクワ芸術座の一同は自分たちも戦争終結にちなんだ公演を催してはどうかと考えた」。「緞帳にチェーホフのかもめが描かれている以上、台本作家に迷うことはない」。そして『桜の園』が上演されることになり、ラネーフスカヤ役はアントン・チェーホフの未亡人、オリガ・クニッペル=チェーホワが務めることになった。
オリガは1928年にソ連人民芸術家の称号を得ていたとはいえ、スターリン時代のこと、後にKGBとなるソ連内務人民委員部(NKVD)にいつ逮捕されるかと考えると、安心することはできなかった。

「スパイに取り付かれた当時の社会状況では、オリガがそうした不安を抱くのも十分にうなずける。父親も母親もドイツ系なのである。弟は内戦時、白軍シベリア司令官の提督コルチャックを支援していた。お気に入りの甥で作曲家のレフ・クニッペルはロシア南部でボリシェヴィキ部隊と戦う白衛軍将校だった。しかし、わけても危険極まりないのが姪のオリガ・チェーホワだ。一九三六年以来、第三帝国の「国民女優」なる称号を持つ栄誉に浴し、ヒトラーの寵愛を受けているとも言われるベルリンの一流映画スターである」(pp.14-15)。

スタニスラフスキーの演出による『桜の園』の記念公演を終え、オリガ・クニッペル=チェーホワが観客におじぎをしようとして視線を落とすと、「着飾った四十代の美貌の女性が目立たないように手を振った。オリガ・クニッペル=チェーホワはショックのあまり後ずさりし、混乱と恐怖で緞帳の背後に倒れ込んだ。勝ち誇ったソ連の首都にまさに居合わせ、彼女に手を振った魅惑的な女性こそ、彼女の姪でありナチス映画の大スターとなったオリガ・チェーホワだった」(p.18)。


クニッペル家とチェーホフ家の家系図はわかりにくい。本書の主人公であるオリガ・チェーホワは「スラブの血は流れていない」、ドイツ系の家に生まれる。オリガの父の妹が同じ名前なのでややこしいが、これが「オーリャ叔母さん」ことアントン・チェーホフと結ばれるオリガである。そして主人公のほうのオリガはアントンの兄の息子のミーシャと結婚することになる。つまり血のつながっていない親戚同士が結ばれたのであった。オリガとミーシャとの間の子どもの洗礼名はこれもオリガであり(なぜに?)、その娘は普段はアダと呼ばれたが、アダとはまたオリガの姉の名前でもある(わけがわからないよ……)。

クニッペル家とチェーホフ家の運命は革命で一変する。すでにミーシャと別れていたオリガは恋人と共に、一人娘を残してドイツへと逃れる。ここで女優としてのキャリアを開始し、瞬く間に映画スターとなる。ナチス政権が誕生すると、とりわけゲッベルスに気に入られ、様々な祝宴に招かれ、そればかりか本書の表紙のように、ヒトラーの隣の席に着く写真が数々撮られるほどだった。

オーリャ叔母さんは姪っ子甥っ子を可愛がったが、とりわけ溺愛したのがオリガの弟であるレフだった。レフはソ連国内で作曲家として成功するが、白衛軍将校だったという傷のある過去からか、 NKVDの工作員という裏の顔も持っていた。当然オリガの存在はソ連当局の注意を引くことになる。そしてついにヒトラー暗殺計画が立てられることになるのであった。


1920年代からオリガとレフの姉弟はドイツで頻繁に会っていたが、それが可能であったのはオリガがソ連のスパイであったためだろう。
ソ連崩壊以降ある程度情報が公開されたとはいえ、依然としてオリガのスパイとしての実態は不明な点も多い。これはソ連に限らずスパイの歴史の宿命であろう。そしてまた、スパイをめぐる逸話にありがちなように、オリガには誇大妄想的な虚言癖もあったために話はややこしくなる。戦後に出版された回想録が信用できるものではないことを含め、この人の話をいったいどこまで信用すればいいのかわからないという思いにもかられる言動が多い。

ドイツに逃れたオリガは、実際には女優経験がなかったにも関わらずスタニスラフスキーから直接指導を受けたかのように装った。これは映画の仕事を得るための方便だろうが、その後、初出演時のエピソードや自身の家系とその交遊録などについて必要のない潤色をたっぷり施した話を繰返している。
戦後にソ連のスパイであったことが書き立てられ、それについて様々な噂が出回る。また論議を呼ぶ回想録も書くことになる。このあたりを含めて考えると、嘘を本当に見せかけようとしたというよりも、本当のことを嘘に見せかけるために大袈裟で真偽の怪しい話を好んだように装っていたようにも思えてくる。またそれが意図的なものなのかどうかも含めて、境界が怪しくなっていくのもスパイをめぐる話にはよくあることでもある。

レフが NKVDの工作員であったことは間違いないが、こちらもその実態は掴みがたい。ドイツのソ連侵攻の際には、もしもモスクワを放棄することになった場合、レフはモスクワにとどまりナチス幹部を暗殺するよう指令を受けていたとする説もあれば、ドイツに擬装亡命しろと指示を受けていたとする説、さらにトルコに渡り暗殺工作を命じられていたとする説など様々なものが入りまじっている。ビーヴァーは歴史家らしく安易な結論は用いずに、丹念に資料にあたり、推測に頼ったところは推測と明記し、不明な点は不明としている。

いずれにせよ、レフは NKVDの工作員としての特権を、家族や友人を売るのではなく守るために使っていた。オリガは、明らかに共産主義にはシンパシーを抱いてはおらず、またナチスやその反ユダヤ主義を嫌ってもいた。ヒトラーやゲッベルスの寵愛を受けたのはそれが女優として仕事を続けるには必要なことだと判断したからであろうし、またソ連のスパイとなったのもソ連に残してきた娘をはじめとする家族の存在があったからこそだろう。政治的であるというよりも、徹底して「プラグマティスト」であり、その根底にあったは家族の存在だったのだろう。

これらからも想像がつくように、本書はスパイをめぐる驚愕の事実を明らかにしたというよりも、革命や戦争に翻弄されたクニッペル家とチェーホフ家の物語という読後感の強いものになっている。


ちなみにオリガの別れた夫(つまりチェーホフの甥)のミーシャも俳優で、アメリカに渡ることになる。「スタニスラフスキーの後継者を自任するミーシャは、多くの俳優ったちにとって「メソッド」の教祖だった。そうした俳優にはグレゴリー・ペックやマリリン・モンローもいる」とある。

まあとにかくそのまま歴史大作映画にでもなりそうな話で、革命後のブルジョワの混乱など一部話が重なるところもある『ドクトル・ジバゴ』を撮ったデヴィッド・リーンばりの作風でやってもらいたいものである。


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未読だけれどこんなのも出てるのね。どんな感じなんだろう。




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佐藤太郎(仮)

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