ディケンズが見たアメリカ

チャールズ・ディケンズはアメリカ合衆国を二度訪れている。そして1841年、当時29歳での最初の訪米の経験を『アメリカ紀行』という本にまとめている。




ディケンズはその末尾近くにこう書いている。「私がイングランドに帰ってから受けたいくつかの警告から考えて、この本がアメリカ人たちから心温かく好意的に迎えられるだろうとはよもや思っていない」。
岩波文庫にはディケンズの親友であったジョン・フォースターの『チャールズ・ディケンズの生涯』からのアメリカ訪問関連部分からの抜粋も収録されている。ディケンズはアメリカ滞在中もフォースターと文通しており、この手紙には体験したことが生々しく記録されている。この手紙は備忘録がわりでもあり、ディケンズはこれをもとに『アメリカ紀行』を書いているのだが、その際にかなり穏当な表現に改めている。それでもこう書かざるをえないところにディケンズのアメリカ体験は集約されているだろう。フォースターは残された手紙からディケンズが書かなかった部分を再現している。


このようにアメリカに対してはかなり厳しい見方が示されているが、だからといって偏見にまみれているわけではない。例えば当時のイングランドと比較してアメリカでは障害者の福祉施設などがかなり進んでいることは高く評価している。とりわけディケンズが注目したのは、パーキンズ視力障害者協会マサチューセッツ園(パーキンス盲学校)でのローラ・ブリッジマンの事例である。
ディケンズは「目が見えず、耳が聞こえず、口がきけず、嗅覚もなく、そして味覚もほとんどなく、それでいて人間としてのあらゆる能力、希望、また美徳と愛情あふれる力をその華奢な体に秘め、肉体的感覚としては唯一の感覚、つまり触覚だけを持った、若くて美しい少女」と対面する(上 p.76)。そしてサミュエル・グリドリー・ハウ博士の報告をもとに、このローラが「言葉」を獲得していく過程を長く記述している。ローラの姿はヘレン・ケラーを思い浮かべてしまうが、「解説」によるとディケンズが参照したハウ博士の報告書をヘレンの両親も読み、ここで教育を受けさせることを決めたのだという。またサリヴァン先生もまたここの卒業生である(恥ずかしながらヘレン・ケラーについては小学生の頃に子ども向けの伝記で読んだきりなもので、そのうちきちんとしたのも読んでおこうと思う)。


ディケンズはその他にも精神病院や刑務所などを訪れており、ある場所ではその劣悪な環境を嘆き、また一部の刑務所で行われていた「沈黙制度」(囚人に一切の会話を許さない)に疑問を呈している。父親が債務監獄に入れられたという経験は少年時代のディケンズに深いトラウマとなったが、囚人たちの置かれた境遇は他人事には思えなかったのであろう。

ディケンズとほぼ同じ時期に、若きフランス人トクヴィルが刑務所制度の視察のためにアメリカを訪れている。トクヴィルのアメリカ体験についてはレオ・ダムロッシュ著『トクヴィルが見たアメリカ』に詳しくあるが、二人の反応の差を比べてみるのも面白い。

そのトクヴィルは人種問題によってアメリカが危機に陥るであろうことを喝破していたが、これはまたディケンズも同様であった。これはトクヴィルやディケンズの観察眼が優れていたこともさることながら、南北戦争の勃発を数十年後に控えていたアメリカは誰の目にとっても明らかなほど人種問題、奴隷制をめぐって火薬庫と化していたとするべきなのかもしれない。

ディケンズはフォースターへの手紙にこう書いている。「ただひと言だけ――自由に対する最大の打撃は、まさにこの国よって与えられることになるだろう、ということです。自由のお手本が崩壊するのを、全世界に身をもって示すという形です。今この国の議会で繰り広げられて色々な場面を見ていますと、すべてが合衆国分裂への流れを示しています。それを思うと体じゅうが嫌悪感でいっぱいになり、ワシントンという名前(地名で、あの人物のことではありません)までもが嫌になり、そこへ近づくことを考えただけでも拒絶反応が起こってきます」(下 pp.223-224)。

『アメリカ紀行』では第17章で奴隷制度、及びそれを許容するアメリカ社会を徹底的に批判している。
ディケンズは「興味ぶかい判例」というある新聞記事を引用している。

「最高裁判所において、現在、興味ぶかい事件が公判中である。それは以下のような事実から持ち上がったものである。メリーランドに住むある紳士が、自分の所有する年配の奴隷夫婦に数年間の、法的ではないが実質上の自由を認めた。そのように生活している間、この奴隷夫婦に一人の娘が生まれ、彼女は同じ自由の中で成長し、自由民の黒人と結婚し、ペンシルヴェニアに住むために彼と一緒に家を出た。彼らは数人の子どもをもうけ、元の所有者が亡くなるまで何事にも苦しめられることなく生活していたが、そのとき、元所有者の相続人が彼らを取り戻すことを企てた。しかし、法廷に連れ出された彼らの前で、下級判事は、この事件に関しては自分は判決を下す権限がない、との結論を出した。その夜、所有者はその女と子どもたちを捕らえ、メリーランドへ運んで行った」(下 p.107)。

どことなく『それでも夜は明ける』を思い起こさせるような話であるが、このようなことは当時はしばし起こっていたのだろう。そしてディケンズは「その決定は世論に委ねられている」としているが、言葉を変えると、アメリカの世論がこれを許しているということを告発しているのである。

さらに注目すべきはディケンズがこの後、銃による凄惨な事件をいくつも実例をあげて取り上げていることだ。そしてディケンズはこう書いている。

「奴隷制度の極まりなく歪んだ醜悪さこそが、自由の身に生まれた無法者たちによる勝手し放題の原因であると同時に結果でもあるということが分からないのか? 奴隷制度による虐待の中で生まれ育った人間、命令によって自分の妻を鞭で激しく叩かざるを得ない夫を子ども時代に見てきた人間、また、野蛮な農園監督者たちに追い立てられ、責め立てられながら働くその原っぱで、陣痛のさなかに、両脚に重い鞭を振り下ろせるように衣服をまくり上げて恥ずかしい姿を晒すよう強要され、鞭で叩かれながら母親になる女たちを見てきた人間、逃亡した男女の記事や、農場や動物ショーであり余るほど置かれている、形が損なわれて醜くなった彼らの姿が載った記事を青春時代に読んだり、自分の無垢な姉妹たちがそれを読むのを見たりしてきた人間――そのような記事はほかでは発行され得ないだろう――そのような人間は、自分の怒りに火がつくといつでも残忍な野蛮人になり得るということが分からないのか? 家庭での生活において、重い鞭で自分を武装し、ちぢみ上がっている奴隷の男女の間を威張って歩いている臆病者の人間は、家の外でも同じように臆病者であろうし、臆病者には欠かせない武器をふところに隠し持ち、喧嘩になると相手を撃ち、刺すだろう、ということが分からないのか? たとえ私たちの理性が、このことを、またそのほか多くのことを教えないとしても、あるいは、このような人間たちを育て上げるそのみごとな訓練方法に目をつぶるほど私たちが愚かであるとしても、次のことぐらいは分かりはしないだろうか――議会のホールで、会計事務所で、市場で、その他生活の平和を追求するいかなる場所でも、自分と同等の者たちを刺したり撃ったりするような人間たちが、自分の使用人たちに対して、それが自由民の使用人であろうと、無慈悲で冷酷な暴君とならないはずがない、ということぐらいは」(下 pp.128-129)。

奴隷制度反対論であると同時に、アメリカの宿痾となっている銃をはじめとする暴力性の根本を見据えるものともなっている。


ディケンズは奴隷制反対論者に歓迎されたのはもちろんだが、すでにアメリカでも人気作家となっていたため一般大衆からも熱烈に歓迎された。しかしこのアメリカ人たちがいくらディケンズの小説を読もうとも、ディケンズの収入とはならなかった。ディケンズ訪米の目的の一つが、当時アメリカでは著作権制度が整備されていなかったため、国際著作権を受け入れるよう働きかけることであった。
しかしこれは猛反発をくらうことになる。フォースターへの手紙によると、当時有名だった殺人犯を引き合いに出され、著作権などというものを主張する強欲な金に目のくらんだ悪党であるディケンズと比べればこの殺人犯は天使のようだとまで新聞に書かれてしまうのであった。
このあたりは現在のアメリカ合衆国の著作権に対する姿勢を考えると何とも皮肉なエピソードに思えてしまう。



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佐藤太郎(仮)

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