『それでも夜は明ける』

『それでも夜は明ける』

ネタバレ云々という作品ではないので気にせずにいきますので未見の方はご注意を。




1841年にチャールズ・ディケンズはアメリカ合衆国に向けて出発、翌年まで滞在した。ディケンズはアメリカに広がる道徳的腐敗と暴力の香りを嗅ぎつけ、その源となっている奴隷制度を『アメリカ紀行』で厳しく批判している。また親友のフォースターに宛てた手紙では、アメリカについて「自由のお手本が崩壊するのを、全世界に身をもって示す」だろうとし、議会をみると合衆国が分裂をと向かっていることは明らかであり、「それを思うと体じゅうが嫌悪感でいっぱいになり、ワシントンという名前(地名で、あの人物のことではありません)までもが嫌になり、そこへ近づくことを考えただけでも拒絶反応が起こってきます」とまで書いている。

ディケンズがアメリカに向かったまさにその年、ソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)はワシントンで罠にはめられ、奴隷として南部に売り飛ばされる。ワシントンでソロモンが捕らえられている建物から、カメラはその無策を告発するように「ワシントン」を映し出す。


ディケンズは『アメリカ紀行』である新聞記事を引用している。メリーランドのある紳士が所有していた奴隷を事実上解放した。その(元)奴隷夫妻は娘をもうけ、娘は自由黒人と結婚し、ペンシルバニアに移住し家庭を築いた。しかしこの紳士が死去すると、その相続人はこの奴隷を取り戻すことを決めた。この一件は法廷に持ち込まれたが、裁判所がこれを判断をする権限はないという判決を出すと、相続人はその夜にこの女性と子どもをメリーランドに連れ去ったのである。


『それでも夜は明ける』について考えるにはいくつかの時代背景をふまえておいたほうがいいだろう。イギリスが1807年に奴隷貿易を禁止したことなどにより、アメリカでは「奴隷不足」が起こっていた。奴隷制度そのものが暴力であるのだが、さらにソロモンや上のメリーランドのケースからわかるように、「貴重品」を手に入れるためならその暴力性の範囲をさらに広げることを厭わない事件が頻出していた。
さらにイギリスが奴隷貿易を禁止し、ディケンズが奴隷制度を厳しく批判したように、国外からアメリカへの道徳的批判は高まりを見せ、また北部でも奴隷解放運動は浸透し始めていた。

『それでも夜は明ける』に登場する主な奴隷主であるフォード(ベネディクト・カンバーバッチ)とエップス(マイケル・ファスベンダー)はいずれも「信仰心篤い」人物として描かれている。もちろんこれはキリスト教が抑圧の道具として機能してきており、人種差別や奴隷制を聖書によって正当化しようとしてきたという歴史でもあるが、また一方で高まりゆく道徳的批判に対し、「信仰」に逃げ込まないことには自分を保てないということの表れでもあろう。

もう一つ付け加えておくならば、奴隷主たちは「貴族風」ともいえる豪奢な邸宅に住んでいるが、その生活はあまり裕福なようには見えない。これは北部が工業化されて発展しているのに対し、旧態依然の農業に依存しなくてはならない南部の実態を表すものでもあろう。南北戦争は工業化された北部が自由貿易を望むのに対して農本主義の南部は保護貿易を求め、その政策の差も引き金の一つとなったともされる。フォードやエップスの「不安」は倫理的なものにみならず、実利的な生活にまで及びはじめていたという時代でもあった。


このようにあの時代の奴隷制をめぐる実態を暴きだしている見事な作品ではあるのだが、では一部の隙もない傑作であるのかというと、いくつかの留保をする人もいるだろう。

登場人物のほとんどがその第一印象通りの人間にとどまり、隠された一面が露呈することもなければ何らかの変化(あるいは成長)が示される人物は少ない。ソロモンはこの状況にとまどいつつも自暴自棄にはならずに知的で不屈の人間であり続ける。フォードは倫理的な迷いを感じつつもその弱さから既存の秩序に反抗することはできない(そしてそのような人物にありがちなように、経営の才覚もないようだ)。非情な奴隷主であったはずのエップスは、優秀な奴隷でありそしてその肌の黒さも印象的なパッツィー(ルピタ・ニョンゴ)に性的に惹かれ、そればかりか感情的にも惹かれ始めており、それは誰の目にも明らかとなっている。エップスの妻は夫の不実からパッツィーを目の仇として暴力的に扱う。
これらはいずれもアメリカの奴隷制を扱った文学や映画によく見られるものである。

第一印象と異なる少数の例外がソロモンを罠にはめる白人たちと、倫理的葛藤から酒に溺れた(と主張する)ために落ちぶれる監視人であるが、観客の多くがソロモンが騙されること、そして「救世主」が彼ではないことを事前に知っている。

俳優たちはいずれも素晴らしい演技をみせてくれているが、そのキャラクターは類型的にも映る。
ただこれは必ずしもマイナスにのみ働いているわけではないかもしれない。そもそもが実話を元にしているのであり、この時代はまさにあのような人物たちが闊歩していたのである。そればかりではなく、類型化されたキャラクターはある種の寓話性をまとうことともなる。ソロモンの手記は1984年にテレビドラマ化されており、そのタイトルはSolomon Northup's Odysseyとなっている。ソロモンの体験は神話的な連想を働かせるなというほうが無理な話でもあろう。

この作品はオデュッセイア的であると同時に、ソロモンという名からも旧約聖書も思い浮かべてしまう。ソロモンの辿った運命は「ヨブ記」を思い起こさせなくもない。どれだけ理不尽な目に合おうとも信仰自体は揺るぐことはないようであり、また彼が身につけてきた「洗練」された音楽とは明らかに別種の、旧約聖書を題材にとった黒人霊歌の合唱に加わるところもその印象を強める。そしてついに家族と再会したソロモンは、怒りをたぎらせ復讐を誓うのではなく、行方不明になっていたことを家族に詫びるのである。

少なからぬ観客が不満を抱いたであろう存在がバス、というかブラッド・ピットのとってつけたかのようなキャラクター(及びその演技)であろう。ピットの存在なくしてはこの作品がこうして撮られることがあり得なかったことを思うとそれだけで十分という気にもなるが、そればかりでなく、バスの存在はこの作品の「神話」性、あるいは旧約聖書性を高めてもいるとすることもできよう。なぜソロモンは救われ、パッツィーは救われないのか。これは信仰の多寡によるものでも、因果的必然性によるのでもない。卑小な存在である人間には神の真意を測ることはできず、それがいかに理不尽なものであろうとも、それでも神を信じなくてはならない。バスの不自然とも思える人物像は、彼が神から使わされた「天使」であるかのようだ。バスはアメリカ人ではなくカナダ人であり、「アメリカの良心」を表す存在ではないのである。

しかし、観客は現実へと引き戻される。ソロモンは実在した人物であり、その死の正確な日時、場所、原因は不明である。ヨブのように天寿をまっとうすることはできなかったのであり、これは明らかに不穏な事実である。そして黒人であるソロモンの証言は白人の裁判では採用されないために、彼を罠にはめた連中は法の裁きを逃れる。
神話的な隠喩で解剖できてしまいそうなこの物語は現実に起こったことであり、わずか百数十年前のアメリカではこのような不条理はごく日常的なものでもあったのである。

ある部分ではリアリスティックに奴隷制を再現すると同時に、また寓話性を感じさせつつ、現代の観客にとっては忘れ去りたいようなショッキングな事実を突きつけもする。このあたりの匙加減はステイーブ・マックイーンの作風ともうまくかみ合ったといえるだろう。


基本的には本作はリアリズムではあるが、いかにもマックイーンらしい「絵」作りもなされている。人物や物のアップや大胆な省略、あるいはあたかも神の視点であるかのような俯瞰ショットは「スタイリッシュ」な印象を与えることだろう。

マックイーンはいわゆる「現代アート」出身の監督である。乱暴さを恐れずにあえて一言で現代アートとは何かを説明するなら、それは「異化効果」に尽きるだろう。我々が日常見慣れないものを提示する、あるいは日常見慣れているものを文脈を転倒させて提示するのである。

映画という大衆メディアにこれを持ち込むのは危ういことでもある。この手の「スタイリッシュ」な絵作りを試みる監督の作品の多くは鼻持ちならないものとなり、自己満足に終わってしまう。前作である『シェイム』はいささかその危険性に入り込んでいたようにも見える。セックス・ポルノ中毒のオナニストという題材は「いかにも」な印象は否めなかった。

同じような出自の監督とは違ってマックイーンの場合、長編劇映画デビュー作の『ハンガー』や今作のような政治的題材を取り上げるほうがその能力をよりいかんなく発揮できるという、やや珍しいタイプなのかもしれない。

エップスがパッツィーを犯す場面は、極めて陰惨なことが行われようとしているにもかかわらず、ファスベンダーとニョンゴの暗い照明で背景の見えないクローズアップは現実から切り離されたかのようで、絵画的な美しさを感じてしまいたくなるが、その直後のエップスの激しい平手打ちによって観客はグロテスクさへと引き戻される。
あるいはソロモンの説明抜きの長いアップが続くシーンは通常の映画文法から逸脱しており、その違和感によって観客は様々な感情を刺激されることになる。


このように人物造形ではなく視覚表現によってもたらされる異化効果によって観客をぎょっとさせるかのような演出は「現代アート」的なものでもあろう。ただ異化効果のもたらされることのない「美しさ」を感じさせる場面もいくつかあり(例えばソロモンがやむなく手紙を焼き捨てる、あの火が消えていく瞬間)、また不穏さを表すノイジーな音楽の使い方などは「安易な感情移入」をさせてしまうことにもなりかねないものであろう。

個人的にはやはり『ハンガー』のストイックさの方を高く評価したいし、また『ハンガー』と『それでも夜は明ける』の差異は「ハリウッドの限界」を示すものとすることもできるだろう。マックイーンは意識的にかどうかはわからないが、「野心的」演出を抑えたようにも映る。とはいえ、やはりこういう作品が他ならぬハリウッドで撮られる、そしてアカデミー作品賞を取るということの意義を考えると、やはり製作陣とマックイーンには素直に拍手を送りたくなる作品であることは間違いない。


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佐藤太郎(仮)

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