『盆栽 / 木々の私生活』

アレハンドロ・サンブラ著 『盆栽 / 木々の私生活』




二つの中編が収録されているこの本を予備知識なく読んだなら、はたして作者がチリ人だと想像できただろうか。いずれもメタフィクション的色彩が濃いものではあるが、ラテンアメリカ小説特有のむせかえるほど濃厚でパワフルな語り口、物語とは一線を画すものとなっている。静謐で、日本の私小説を思わせなくもない雰囲気すら漂わせている。

「盆栽」というタイトル、そしてエピグラフに川端康成が使われているように、サンブラは日本の小説家への関心がかなりあるようだ。「訳者あとがき」によると、サンブラ本人は芥川龍之介、夏目漱石、三島由紀夫、大江健三郎、安倍公房などが好きな作家で、一番のお気に入りは谷崎潤一郎だとのことである。そして村上春樹は「ごく一部を除いてあまり興味がない」そうだが、こう言われると逆に興味のある一部の作品はどのあたりなのかということも気になる。

「盆栽」は冒頭で不幸が宣言され、大学生の男女が出会い、読書など共通の関心によって関係を深めていくという普遍的青春小説という面も持っている。叙情的要素は抑え気味になっているが、途中まではでは『ノルウェイの森』を、そして主人公フリオの盆栽へのオブセッションともいえる感情は、『1973年のピンボール』あたりを連想させなくもない。『ピンボール』ではスペイン語教師が重要な役割を果たすが、この作品を春樹は習作と見なしていて翻訳はあまり流通していないので、スペイン語圏で広く読まれていることはないだろう。サンブラが手にしたことがあるかは不明だが、仮に手にしていたとしたら上の発言とは違ってかなりの興味を持っているということになる。もちろん『ピンボール』も『ノルウェイの森』もアメリカをはじめとする世界文学からの影響が濃いのであるから、サンブラもアメリカ文学から直接にこのような色合いを輸入したと考えるほうが自然であろうが。

サンブラは多くのラテンアメリカ作家と違い、母国であるチリで暮らし続けているということである。チリの作家といえば真っ先にロベルト・ボラーニョが浮かぶが、ボラーニョが20歳の時に起こった1973年9月11日のクーデターにより、チリは軍事独裁体制に突入する。この出来事はボラーニョの「なかで癒しがたい傷」となった(「訳者あとがき」より)。そしてドミニカ共和国出身のジュノ・ディアスは、ドミニカのトルヒーヨ独裁政権について「ありきたりの政治小説を書くことでは、トルヒーヨの幻燈のような力を捉えることは誰にもできない」と語っている。スペイン語圏を転々とすることになるボラーニョや、幼い頃にアメリカ合衆国に移り住むことになるディアスは、祖国や、ラテンアメリカ的なものを真の意味で描くにはある意味では度外れの「壮大」さが必要だと感じたことだろうし、多くのラテンアメリカ作家の共通する意識であろう。

サンブラは1975年生まれ。つまり生まれた時にはすでにピノチェト独裁体制が敷かれており、その世界が「日常」として浸み込んだ世代である。また「非日常」としての外国への移住を行わないサンブラの作風が、代表的ラテンアメリカ作家とかなり異なるというのは、このあたりのことも関係しているのかもしれない。やや強引に村上春樹つながりでいうと、中国での『ノルウェイの森』の受容のされ方と、「盆栽」の持つ雰囲気との類似性についても考えてもみたくなる。


「木々の私生活」は血のつながっていない娘を寝かしつけながら、妻の帰宅を待つ作家の物語である。「現在」がぐっと引き伸ばされ、「現在」に過去が流れ込み、さらには未来までもが溶け込んでいく(このあたりはニコルソン・ベーカーの『中二階』の妄想力を思い起こさせなくもない)。三人称で語られる物語の「作者」が揺らいでいくといったメタフィクション風味は「盆栽」と共通している。

作家のフリアンのある行動は友人から「ポール・オースターの読みすぎ」だと揶揄される。フリアンはそれ以来オースターの小説を読まなくなり、さらには「他人に一度ならず、オースターなんて、『孤独の発明』の数ページを除けばあとはボルヘスの二番煎じにすぎないなどと言」うのであった。

ここでサンブラが古典ではなく同時代の、それもアメリカ合衆国の作家に直接に言及していることにも目がいく。この二作では様々な作家の名が上げられる。古典やラテンアメリカ作家も多いが、サンブラと同世代である僕にもなじみの深い、同時代の世界的な作家の名も多い。抽象的要素もある作風も加えると、「土着的」というよりも普遍的作風だという印象も深まる。しかし、「木々の私生活」での妻の帰宅が遅れるというのは、普遍的な不気味さがぱっくりと口を開けているようにも読めるが(少しレイモンド・カーヴァー風に見えなくもないが、カーヴァーの名もまた作中であげられている)、チリの歴史をふまえた「不安」の現れでもあろう。「訳者あとがき」でも指摘されているように、ピノチェト政権下では数多くの「行方不明者」が出た。84年のロサンゼルスオリンピックへの言及と合わせると、その「不気味」さや「不安」の光景がまた違った形で浮かび上がってくる。

二作品ともに盆栽が登場するが、盆栽というのは不思議なものである。間違いなく人工的なものであり、「自然」であろうはずはないが、では人間がその全てをコントロールできるのかというと、「木」を完全に飼い馴らすこともできない。
サンブラは基本的には有り余るパワーを噴出させるタイプというよりは知的で技巧的な作家であるとしていいのだろうが、またそのような単純なカテゴライズを拒む深さと強さを持った作家だという印象も強く与える。


なお「盆栽」は2011年に映画化もされている。これを映像化するのはなかなか大変だとも思うが、どんな出来になっているのだろう。





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佐藤太郎(仮)

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